第6話 Glacial Tale

 懐かしい面影が、視界をよぎった。


 星々の散る夜空の瞳、さらさらした茶褐色の髪は、少し伸びたろうか。

 それでも変わらない。あの少女だ。摘みたての花を頭上に掲げ、糸みたいに細い茎をくるくると弄んでいる。その目は変わらず、輝いていた。


 10年後の彼女はあの日より大人びていて、でも無邪気な様子はおんなじ。


 来てくれたんだ。呼びかけに応じてくれた。


 どうしようもない嬉しさが込み上げる。今すぐにでも駆け寄って、抱き締めたかった。


 そんな衝動を押しとどめて、少年はゆっくりと歩幅を大きくする。草の踏まれる音が聞こえたのか、少女はハッと顔を上げた。驚いたようなそれが、徐々に和らぎ、綻んでいく。


「お兄ちゃん……」

「悪い子だね。君のためにならないのに」


 会いたいと願い、誘い入れたのはこちらだけれど。


「ごめんなさい」


 しゅん、とうなだれる少女が可愛らしくて、笑みが零れる。言葉を使う代わりに、ぽんぽんと柔らかな髪が流れる頭を撫でてやった。

 少女の隣に腰かけ、物珍しくその姿を眺める。


 10年という年月は彼にとっては一瞬に等しいが、人間にはこうも影響するのか。

 あんなに小さかった少女の背筋はすらりと高く、細い身体はしなやかな曲線を描いている。顔立ちもほっそりとし、すっかり大人の女性に生まれ変わっていた。――――対して自分は、少年のまま。


 ずきりと、胸がうずいた。


「誰に贈るの?」


 襲い始める苦しみを抑え、微笑みながら問う。摘み取った一輪を少女の豊かな髪に挿しながら。

 すると少女はもったいぶったような、気恥ずかしそうな赤ら顔で自ら摘んだ花々を胸に抱いて囁いた。


「大切な人に」


 か細い一言が、心を握り潰した。少年の笑みから、温かさが抜ける。


 大切な人。呟く少女の紅い頬が憎くてたまらない。軽やかな鈴の声に乗せた言葉も。


 隠そうともしない熱っぽさが、彼女がどんな風にその人物を想っているかを的確に明かした。

 少年を受け入れてくれた、彼に初めて笑顔をくれた少女。心優しい彼女の思いは、しかし別の場所を見つめている。


 彼に特別な感情を植えつけた彼女を、誰かが奪った。


 自分は、年を取ることも、死ぬこともなく存在し続けねばならないのに、そいつは彼女と一生を添い遂げることができるのだ。途端、激しい衝動がめくるめくようにほとばしる。


 いらない。時間のない時間なんていらない。

 彼女が傍にいてくれないのなら、永遠なんて枯れてしまえ。


 呪いにも似た情動が、少年を突き動かす。


 食べてしまえばいい。み込んでしまえばいい。今までの人間のように。そうすれば、彼女は彼の中で生き続ける。ずっと、2人きりで。誰に奪われることもなく。


 少年の心の底で渦巻く思いには気づかず、目を細めた少女は続ける。


「その人は優しくて、とても頼りになる男の人で……なんとなくね、貴方に似ているの」


 遠くの風景を見やるような瞳に、少年の心はふっと我に返った。


 綺麗な少女の顔。愛おしそうで、心の底からその人物を慕っている和やかな笑み。

 過去の笑みとはまた違う、どこか色気を匂わせる女の笑顔。彼女にそうすることができるのは、多分たった1人。


「私、その人が大好きなの」


 物語を読み聞かせるように、丁寧に紡がれた告白。

 そこで、悟った。


 彼の欲望は、彼女の幸せを奪ってしまう。彼女に想いを寄せること自体、あやまちだったのだ。


 後悔すると知っていたら、食べてしまっていたのに。今はそれすら叶わなくて。

 憎くて、愛おしくて。消すなんてできない。


 ――――それなら突き放してしまおう。


「……昔、君は訊いてきたよね。僕が怪物か、って」


 ざあ、と葉風が不穏な響きを伴って逆巻く。


「もしそうだとしたら、よく聞くんだよ」


 目つきを鋭くした少年が、少女を見据える。

 穏やかでなくなった空気を敏感に察知して、少女は肩を震わせた。


「いいかい。金輪際ここに来ては駄目だ。でないと本当に君を食べてしまうよ――――こういう風に」


 少年は彼女の背に腕を回し、引き寄せる。すっきりとした線を描く顎を持ち上げ固定し、動けないようにした。

 彼女の細い指の間から、光の花が散り落ちる。


「ひゃっ……」


 可憐な唇から小さな叫びが漏れる。少年はさらに彼女の容貌を近づけさせ、覗き込んだ。


 怯え、震える瞳の奥。

 こんな顔をさせたかったんじゃ、ない、のに。


 ただ注意したかっただけ。それなのに彼女を傷つけることしかできない。笑ってほしいと、幸せにさせたいと願うほど、自分の心が深くえぐられるから。


 精霊と人間。馴れ合ってはいけない種族同士。触れ合えば触れ合うほど、癒えない傷が深まる。


 じゃあ自分が消えてしまおう。彼女を怖がらせずすむように。

 少年は優しげな面差しで別れを飾った。


「もうお行き。………君の幸せを、願っていたいから」


 最後にキスを残して。



*******



 婚約者が、少女の名をしきりに叫んでいた。必死な声音が少女の意識を引き上げる。

 開かれた漆黒の瞳に、彼は感極まったのかひしと彼女を掻き抱いた。


「良かった……! 一人で森に入ったって聞いて、心配で……」

「どうして私、こんな場所に……?」


 いつの間にか気絶していたようだ。大切な人の腕の中、少女はぐるりと辺りを見渡す。2人の前には、深い森が口を開けて待ち構えていた。

 沈みゆく月を呑み込む、月狩りの森。踏み入れてはいけない禁断の場所。


 どうしてこんなところにいるのだろう。

 しばらく思い返して、ハッとする。


「私、花を摘みに行ったの。髪に挿したら、綺麗に見えるかなって……」


 でもなんで、この森を選んだのか分からない。入り口を見る限り、花びらすら落ちていないのに。


 そしてなぜ、入り口の前で倒れていたのか。


 呆然とする彼女を心配そうに見つめ、婚約者は茶の髪に引っかかった枯葉のような植物を抜き取る。それは細長く、先端に葉っぱか花びらかと思しきものがついていた。

 忌々しげに、ピンと森の方へ弾き飛ばす。そうして婚約者は彼女を立たせ、自らの家へと歩き出した。

 少女はこわごわと彼の横顔を窺う。彼の厳しい目つきは、しかし彼女に対する愛情と憂いに満ちていた。そんな優しい容貌が、別の人物の姿と重なった気がした。でも誰となのか記憶がはっきりと引き出せない。


「着飾らなくても君は綺麗だよ。だからこんなこと、絶対にもうしないで」

「………ええ」


 頷きながらも、彼女は一瞬だけ森を振り返る。


 何か、忘れている気がする。この森で、何かが起きた。一度だけではない。


 確かに感触はあるのに思い出せず眉をしかめていると、強く腕を引かれた。立ち止まってしまっていたらしい。少女は慌てて歩を進める。

 頭に浮き上がりそうで浮き上がらない感覚は、夢の出来事を思い出す時によく感じる。あんまりもどかしいので、途中で放棄してしまうのだ。


 ようやく掴めそうになった記憶の断片を、秋の名残の風が横取りしていく。急に寒さを感じた少女は、婚約者の身体にしがみついた。

 もしかしたら彼女の体験したことは夢なのかもしれないし、そうでないかもしれない。


 でも全身を満たす彼の温もりは現実で、すべてなのだ。

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