2 福原薬局の一人娘

 午前最後の配達先は福原ふくはら薬局である。塩尻市の東側に広がるなだらかな丘陵を南北に貫く田舎道の途中にぽつんと一軒家を構える個人経営の薬局。店主の直正なおまさはこの場所で薬局を営んで四十年になるという。妻の春樋はるひも薬剤師であり、この二人は地元で知らぬ者はいないおしどり夫婦とされる。

 最初に先輩に連れられてここを訪れたとき、まあ何と居心地の良い薬局だろうと妙に感じ入ってしまったのをよく覚えている。漆喰塗りの白壁に覆われた小さな平屋造りの日本家屋が夫妻の自宅であり、その続きの離れを店舗にしている。こぢんまりとした調剤室と待合室を隔てるようにカウンターがあり、その前に木製の背もたれの立派な椅子が五脚も並んでいる。まるで喫茶店のように。カウンターの一方の端にはレジスターがあり、もう一方には小さなシンクとコンロがある。薬の注意点の説明やお代のやり取りをこのカウンター越しにやるのだが、品物とおつりを受け取ってそそくさと帰る客は稀だ。奇妙な光景かもしれないが、この薬局の一番の売りは、店主の人柄でも美人の奥さんでも彼らが親身に健康相談に乗ってくれることでもなく、夫妻が気まぐれに淹れてくれるコーヒーなのだ。元は直正のコーヒー好きの趣味が高じて始めたことらしいが、そのために食品衛生管理者の免許まで取得し、訪れる客には常連も一見の客も見境なく気前良く振る舞う。

「まあ、一杯飲んでいってくださいな」

 などと穏やかな笑顔で言われてしまうと、ついつい居着いてしまう。そして彼らはこの薬局に薬を納品するためにやって来る一介の薬問屋のドライバーに過ぎない私にさえ、当たり前のように一杯淹れてくれる。さすがに仕事に来ている身で薬局のお客に混じってカウンターに陣取るのはまずかろう、と最初の頃こそ遠慮していたのだが、福原薬局に来る客たちはそんなことは端から気にもならないらしく、そのうちに顔を覚えられると、

「河北くんもほら、そんなとこ突っ立ってないで、一杯やっていきなさいよ」

 と椅子を勧められる有様だった。

 ここに通うようになってもう二十年以上になる。つまり、信州に移ってからそれだけの月日が流れたということだ。

 通りに面しただだっ広い砂利敷きの駐車場の端っこに営業車のスズキのバンを駐め、ハッチゲートを開ける。最後に残った一段のパレットに納品物が収まっている。福原薬局へ届ける薬は多い。それほど人口の多い地区ではないし、大手のドラッグストアのような華やかさや利便性があるわけではないのだが、田舎で営む小さな薬局にしては意外なほどにここは繁盛している。その秘密は、店主の人懐っこさと自慢のコーヒーだけではない。

 パレットを片手で抱え上げ、ドアを閉める。日課のように道を挟んで眼前に広がる雄大な景色をうっとりと眺めた。今日は特別によく晴れていて、まだ田植え前だが、段々にどこまでも連なる稲田が美しい。

 私は未だかつて、これほど見晴らしのよい場所に店を構える薬局を他に見たことがない。薬局の窓から見下ろす松本盆地のパノラマは美しく、とくに稲穂が垂れる秋に西日が向こう側のアルプスに沈む頃になると写真を撮りにやってくる人たちをよく見かける。福原薬局はそんな美しい丘の上に、文字通りと建っている。周囲に民家がないせいでその姿というか風景は、まさに牧歌的である。

 おそらくここに通うことがなければ、まだ二十代の若い時分に右も左も分からず怖々と始めたこの仕事に、私がこれほどまでに愛着を持つこともなかっただろう。それくらいにこの場所からの眺めは素晴らしいのだ。

 駐車場に客の車は見当たらなかった。じきに昼時である。最近はほぼ定刻で正午前に福原薬局を訪れる。ちょうどこの時間帯が狭間なのか、お客が少なくなるから納品のやり取りがしやすくて助かるのだと以前に春樋が声を弾ませながら話していた。

 福原夫妻は私がこの仕事に就いたばかりの頃から何かと気にかけてくれている。由希が死んだとき、自分の娘を亡くしたかのように一緒においおいと泣いてくれたことは生涯忘れまい。のぞみをここに連れて来たこともある。彼らは大はしゃぎしてまだ幼かった娘を可愛がってくれた。

 春樋は薬をお客の家に配達するために留守にすることもある。今日はいるだろうかと家屋の裏手にあるガレージを覗いてみた。彼らの車はジムニーだ。夫婦でそれぞれ一台ずつ持っている。直正は先代の青いシエラ、春樋は二世代前の赤いバンだ。しかしガレージにはどちらも駐まっていなかった。通常そういう光景はまず見られない。配達や私用で出かけるにしても、必ずどちらかが店番をしなければならないからだ。

 ガレージにはジムニーの代わりに見慣れない車が収まっていた。黄色のロードスターだ。

 私はしばらくその車にうっとりと見蕩れた。


 薬局に入っていくと、カウンターの向こうで白衣を着て立っていたのは女性だった。年齢は三十代後半くらい。すらりと背が高い。まるでずっと待ちわびていたかのように、引き戸を開けて店の中に入ってくる私に熱心な視線を送り続けた。客はいなかった。私と目が合うと彼女はすかさず微笑した。少し恥ずかしそうに、少し躊躇いを感じさせる笑顔だ。それから深々と丁寧にお辞儀をした。

 栗色のショートカットが揺れる。

 再び視線が合ってしばらくしても、私は何も言えずにその場に棒立ちしていた。初対面の緊張のせいではなかった。むしろ逆だ。私は不思議な感覚にとらわれていた。まるで子供の頃、よく遊んでもらっていた——そんな微笑ましい幸福な体験は私にはないが——近所の年上のお姉さんと久々に再会したときのような気持ち。顔を一目見て、彼女が福原夫妻の一人娘だと直感した。優しげな目元が春樋にそっくりだ。

「福原雪乃と申します」明るく、穏やかで聴き心地のよいすっきりとした美声で彼女は挨拶した。「初めまして。本日よりこちらで働かせていただくことになりました」

 私は思わず心の中でその名前を反芻した。雪乃——福原の。

 ほんのわずかだが、沈黙を生んでしまった。私たちは無言で見つめ合った。彼女が戸惑いの表情を浮かべるのも無理はない。口を半開きにしてまじまじと彼女を見つめる私は、きっと容易ならぬ表情をしていたのだろう。私は自ら招いたこの奇妙な間を何とか誤魔化そうと、右手で持っていたパレットをわざとらしく抱え直した。彼女に倣って努めて丁寧に自己紹介をした。

「EMロジスティクス松本営業所の高島修児しゆうじといいます。ご両親にいつも大変お世話になっております」

「こちらこそ」彼女は再びふわっと微笑みを広げた。少し安堵したように。「両親からあなたの話をよく伺っておりますよ、高島さん」

「そうでしたか」

「ええ。とっても素敵な方だと聞きました。ですから今日はとても楽しみにしておりました」

「ご期待にお応えできるほどの人間ではありません、福原さん。ただのドライバーです。いくらか年季が入っているというだけで」

「雪乃」彼女は短く言った。「と呼んでください」

「いや、しかし・・・・・・」私は途端に狼狽した。「そうも参りません。第一、変でしょう。ただのおろしのドライバーが若い女性の薬剤師さんを馴れ馴れしく名前で呼んでは」

 幸いにも彼女はクスクスと笑ってくれた。「噂通りの真面目な方ですね」少しだけ耳を赤くしながら。「どうぞおかけください、高島さん。いま、コーヒーを」

 まだ戸口に立っていた私は、カウンターの奥へと歩きかけた彼女を必死に呼び止めた。「お心遣いありがとうございます。でも、その前にお届け物の納品を」

「あっ、そうでしたね」

 私は雪乃に納品伝票を手渡し、彼女が読み上げる薬品の名前と数量を復唱しながらパレットから福原薬局が使っている保管トレーへと納品物を移し替えていった。雪乃は作業に慣れた様子だった。納品はすぐに終わり、彼女は受け取った薬品を調剤室へ運んだ。納品物の代金は月締めで営業課が一括して処理するから、私のような一介の配達ドライバーが薬局と現金をやり取りすることはない。薬問屋のドライバーは決められた時刻に病院や薬局へ赴き、彼女たちの手が空いた頃合いを見計らって素早く納品してそそくさと帰る。日に三十件から四十件それぞれの配達先でこの受け渡しを繰り返す。普通は一つの薬局に長居などしないし、薬剤師と長々と世間話をすることもない。

 ここは特別なのだ。

 福原薬局へ納品を終えたらあとは営業所に戻るだけだ。よほど忙しい時期でなければ、ここに立ち寄る頃には二十分ほどのゆとりが生まれる。春樋も直正もそれを知っている。だから「ゆっくりしていきなさい」となってしまう。どうやら自分の娘にもそのことを予めきちんと教育してしまったらしい。

「ご両親は今日は?」私はぼんやりと立ったまま、カウンターの端に据えられた小さなシンクで手を洗っている雪乃に訊いた。

 彼女は水栓を止め、ハンドタオルで丁寧に手を拭うと、再びにっこりと笑った。「ピクニックに出かけました」

「ピクニック?」

「はい。娘に店を任せて昼から仕事をサボるのが長年の夢だったそうです。配達があるので午後には戻ってきてくれるとは思うんですが」彼女は笑顔を絶やさずに続けた。

「そうですか」

「変な親ですみません」

「いえ、そんなことは」

 水を満たしたポットをガスコンロに載せて火にかける。雪乃は顔を上げた。「わたしは東京にいた頃も薬局で働いていたんです。うちのような個人経営の店ではなくて、大学病院の薬剤部で仕事をしていました。大きな病院になると院内処方を専門に扱う窓口があると思うのですがお分かりになりますか?」

「ええ、分かります」私はそう言いながら、ほんの少しだけ胸の奥底に小さな痛みを覚えた。何も持っていない左手で見えないように拳を握って堪えようとした。「すみません、福原さんに娘さんがいらっしゃることは存じていましたが、薬剤師になられていたとは存じ上げませんでした」

「ちょうど高島さんがうちに配達に来て下さるようになった頃」雪乃はコーヒー豆をグラインダーで挽く手を止め、目を細めた。「わたしは東京の大学の薬学部生でした。そのまま東京で就職して結婚したんです」

「そうでしたか」私はざっと計算した。単純に考えると雪乃は四十歳前後だ。それにしてはかなり若く見えるが、まあこれだけの美人だ。人妻になっていて不思議ではない。もちろん、落胆したりなどしない。

 私はそういう立場の人間ではないのだ。

 雪乃がこちらによく見えるように左手を掲げ、中指と薬指の間を大きく分けるようにその手を広げた。薬指に結婚指輪はなかった。私がどのように反応したらいいのか困っていると、

「バツイチです」

 と雪乃は屈託なく笑った。私はいよいよ何を言えばいいのか分からなくなってしまった。

「座ってください、高島さん」雪乃は目の前の椅子を勧めた。私はパレットをカウンターの下に立てかけるように置き、彼女の前に座った。

 雪乃は私のためにハンドドリップのブレンドコーヒーを淹れてくれた。所作を見ていると、父親に教わった通りに忠実にコーヒー液を抽出しようとしているのが分かった。仕上がると、ソーサーを添えたカップをこちらに差し出した。

「高島さんはブラックでいいんですよね?」

「はい。お心遣い感謝します」

「修行中の身ですから、大目に見てくださいね」

「いただきます」

 私はカップをそっと口に運んだ。雪乃はといえば——彼女の両親がいつもそうするように——カウンターに私を残してそそくさと調剤室の奥へと消えた。そのあたりもまるでよく訓練された喫茶店主のようだ。客が最初のひと口を味わう至福の時間を、決して邪魔しない。

 美味しいコーヒーだ。直正の味とは少し違うが、彼女の淹れ方は私は好きだ。とてもすっきりとした後味だ。コーヒーの味をうるさく言うつもりはないし、それほど鋭敏な舌の持ち主でもないが、美味しいコーヒーは素直に美味しいと思うし、朧気ながら好みはある。雪乃の味はとても優しい。

 カップを持ったまま何気なく背後を振り返り、はめ殺しの大きな窓から件の景色を眺めた。私はこのひとときが何よりも好きだ。仮に薬問屋のドライバーを志すとして、こんな素敵な薬局でこれほど雄大な景色に心を癒やされながら店主の真心が込められたハンドドリップのコーヒーを毎日飲ませてもらえるなどと誰が想像できるだろう? だが現実にここにこの一杯がある。しかも今日の一杯は、ちょっと特別だ。

 この歳になってまた新たな楽しみができたなと密かにほくそ笑んだ。生きていればいろいろな幸運に巡り会えるものだ。

 カップの中身が半分ほどになった頃、雪乃が戻ってきた。私は感想を言った。

「とても美味しいです。私はあなたの淹れてくれたコーヒー、好きですよ」

「ありがとう」雪乃は分かりやすく顔を紅潮させながら言った。「なんか、すごく嬉しい」

 彼女は白衣を脱いでいた。レモン色のセーターを着ている。とても柔らかな色合いで、編み込みの装飾の具合もひどく上品だ。ベージュのロングスカートはかなり高い位置にウエストがあり、チョコレート色のベルトで留めている。こうしてカウンターの椅子に座って見上げると彼女は本当に背が高く見える。春樋も直正も決して大柄な人間ではないが、親からの遺伝など世間がうるさく言うほどアテにはならないものなのかもしれない。

 セーターの色を見て、私はガレージの車のことを思い出した。

「母屋の車庫にあるロードスターはあなたの車ですか?」

「そうです! 気づいてくれたんですね」彼女は声を弾ませた。

「とても綺麗な車ですね」

「そうでしょう? 百五十万したんですよ」

「百五十万?」

「はい」雪乃は恥ずかしそうに微笑んだ。「馬鹿な女と思ってください。たかが車の塗装にそんな大金を注ぎ込むなんて、と思いますよね」

「いや・・・・・・」私は一度躊躇ったものの、結局思ったことを口にした。「格好いいと思いますよ。そんな風に思い切ったお金の使い方ができる人って、率直に言って憧れます」

「本当に?」雪乃は意外そうな表情をした。身をこちらに乗り出すようにして尋ねた。「本当にそう思います?」

「はい」私ははっきりと答えた。「あなたのような女性にはこれまで出逢ったことがない気がします。何と言えばいいのかな、その——素敵ですよ」

 雪乃は口をつぐみ、しばらくじっと私を見つめた。言い過ぎたかと思ったが、正直に思ったことを口にしたまでで他意はなかった。彼女は素敵な女性だ。きっと誰だってそう思うだろう。

 とはいえ初対面の年下の女性を赤面させる程度にくさい台詞ではあるのかもしれない。

 ちょっとした事故が起きた。

「どうしよう・・・・・・」雪乃は私に向けていた視線を下に逸らし、小声で呟くように言った。しばらく両手を両頬にやってひどく恥ずかしそうにしていたが、唐突に私の前にあるカップに右手を伸ばし、素早く掴んだ。そして何を思ったのかそれを自分の口元に運び、残っていたコーヒーを全部飲んでしまった。私は一部始終を呆気にとられながら見ていた。

 やはりこんな女性は、見たことがない。

「あ、美味しい」雪乃ははにかんで笑った。きょとんと自分を見つめる私の視線に戸惑いの色を感じ取るまでに随分時間がかかった。やがて私の飲みさしのカップに自分は口をつけたのだという単純な事実に思い至った。それは初対面の男女の間ではあまり見られない光景だ。まして四十路前後の男女の間では。

「あっ、あっ・・・・・・」彼女はようやく慌て始めた。慌てると仕草が愛らしくなる。「ごめんなさい、わたし、何てことを・・・・・・」彼女はカップを持ったまま、どうしたらいいのか分からずに視線をあちこちに泳がせた。私を見て、自分の手元を見て、再び私を見た。片手で口元を覆ったり、ショートカットの髪にさっと手をやったりしたが、カップは離さずに持ったままだ。ひどく大事そうに握りしめている。

「どうか気になさらないでください」私はむしろ落ち着いていた。歳を取ると多少のことでは慌てなくなるものだ。「大したことではありません」

「でも、わたし、今日初めてお会いしたばかりなのに——」

「雪乃さん」私は初めてその名前を呼んだ。

「はい・・・・・・」彼女はまだ両手で私のカップを持っている。

も一応男です」私は微笑した。「あなたのような女性にそんなことをされたら、悪い気はしません」

 彼女はしばらく狐につままれたような顔をしていたが、私が言わんとするところを解すと、持っていたカップを胸元に寄せて抱くようにしてとても嬉しそうな笑顔を浮かべた。まあ何と可愛らしい人だろうと私は思った。

「そうだ。忘れるところでした。ちょっと、ちょっと待っててくださいね」雪乃はこの気恥ずかしい空気を蹴飛ばすようにしてカウンターを飛び出し、のれんのかかった戸口を抜けて母屋の方へ消えた。福原家の自宅とは廊下で繋がっている。雪乃はコーヒーカップに代えて紺色の手ぬぐいの包みを抱えてすぐに戻ってきた。

「あの、これ・・・・・・良かったら食べてください。カツサンドです」

「私に?」私はカウンターから腰を浮かした。どうやら今度はこちらが戸惑う番のようだ。

「はい。今朝、作りました。どうぞお昼に」

「よろしいんですか?」私が恐る恐る受け取ろうと手を伸ばすと、不意に雪乃が包みを持つ手を引っ込めた。

「あっ、ごめんなさい・・・・・・ひょっとしてお弁当とかって普段からご用意なさっていますか?」

「いえ。いつもはこのあとの帰り道にアオシマ屋に立ち寄って、日帰り弁当を買って戻ります。ですからまだ手ぶらです」

「あのお惣菜屋さん? 美味しいですか? わたし、まだ行ったことないんですよ」

「美味しいですよ。安いし、女将さんの手作りだし。でも・・・・・・」

「でも?」雪乃が心配そうに俯き加減に相づちを打つ。

「せっかくですから、今日はあなたのお弁当をいただきたいです」さすがの私もこの台詞を照れを隠さず言うことはできなかった。

 もう一度、今度は短い沈黙が訪れた。仕事中にいい歳の大人がうぶな中学生のように互いの顔を赤くして見つめ合うなど、日本中を探しても塩尻の丘の上の薬局の、このときこの場面でしか許されまい。

「じゃあ」雪乃は改めて包みを私に差し出した。「ぜひ」

 私は両手でそれを大事に受け取り、立てかけてあったパレットを拾い上げ、包みをその中に入れた。

「この後もどうかお気をつけて。お仕事頑張ってくださいね」雪乃はどこか満足そうな表情で言った。初対面のひとときを無事に終えられたことに胸をなで下ろすように。

 暇乞いの時間だ。

「ありがとうございます」私は彼女に向かって頭を下げた。「コーヒー、ご馳走様でした」

「また明日」

「また明日」

 店を出て車に戻る。カツサンドの入った包みを助手席の自分の道具箱の上に崩れないように置いた。スライドドアを開け、空のパレットを荷室に戻した。

 出発する前に、オープンガレージに収まるロードスターを改めて眺めた。雪乃の愛車。

 世田谷ナンバーだ。固定式ヘッドライトに変わった二代目。ハードトップが被せてある。全体を丁寧にオールペイントしてある。どことなくポルシェの鮮やかな黄色を思わせる発色の良さがある。ホイールはつや消しの黒に塗られたワタナベレーシング。タイヤはブリヂストン。車高は適度に落としてあるが、段差を乗り越える度にいちいち気を遣うようなレベルではなく、とてもバランスの良い仕立てだ。マフラーは片側二本出しで、かなり径の細いテールエンドを使っている。ダックテールの控えめなスポイラーがリアに付いている。手をかけてある車であることは一目で分かった。

 一度、横に乗ってみたいものだ。柄にもなくそんなことを思った理由の一つは、彼女の髪型がショートカットだからだ。

 私は営業車に乗り込み、エンジンをかけ、福原薬局をあとにした。塩尻から隣市の松本にかけて盆地の縁をぐるりと回り込むように走るこの田舎道は私のお気に入りの快走路だ。途中、ほとんど信号がなく、見下ろす松本盆地の眺望を遮るものはなにもない。ひたすら気持ちよく走り続けることができる。終端は松本の城下へ通じているが、営業所に戻る場合は途中を折れて丘陵を下る。

 もっともこの日は、助手席側の美景よりも、助手席の上に載った包みの中身の方が気になってしまった。いずれにせよ、私が上機嫌であることに変わりはない。

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希望 秦鴻太朗 @goodbye__39

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