希望

秦鴻太朗

1 のぞみ

 娘の誕生日は三月九日で、妻の命日はその翌日だ。私の人生はこの二つの事実で、ほとんど説明できる。

 以下は、言い訳でしかない。


 娘に希望のぞみと名付けたのは妻だ。妻の選択を、私はただ尊重した。由希ゆきは何度か私に意見を求め、あるいは私の案を聞きたがったが、私は何も言わなかった。そもそも自分の案というほどのものは存在しなかったし、たとえ存在したとしても決して口には出さなかっただろう。母親に似て美しい少女に育った娘をそばに置く現在いま、そうしておいて良かったと心から思う。私はなるべく我が子に触れず、できることなら自分の悪い部分を彼女に受け継がせないようにしたかったのだ。十七年余り、ひたすらそのように意識して娘との時間を過ごしてきた。そして娘の名前を死んだ妻が授けてくれたことに、私は言葉を尽くせないほどに感謝していた。

 彼女は文字通り、私の希望だった。

 それが妻の命名の意図だったのだと私は早くに理解した。由希は私に生きる希望を与えるために、私の意思に反して我が子を身籠もったのだ。ただ、ここで妻の愛を、私に対する愛情の深さについて語り出すと、私は上手く言葉をまとめられる自信がない。娘が生まれる経緯を書くには紙幅が必要で、冷静に、そして穏やかに、温もりをもって語ってやるゆとりを持たなければならないと私は考えている。いまもこうして一緒にいる生身の一人娘のために、その思いやりは絶対に必要なものだ。しばらく以上のことは端に寄せておくことにする。

 そこではじめに——話が飛躍するようだが——娘が小学生の時分に身につけた奇妙な習慣について語っておきたい。なぜなら彼女のその習慣のおかげで——我々はそのことに感謝しなくてはならないと思う——これから書く内容について多少の混乱を避けることができるからだ。

 娘の名前のことだ。希望。あるいは、のぞみ。

 わざわざ説明するまでもないことかもしれないが、娘の名前はいわば当て字だ。普通に読んでしまうと、彼女は「高島たかしま」になってしまう。教養のある大人であれば彼女の読み名をすぐに察してくれるとは思うが、辞書に即して正しく発音しようとすれば、「希望」は「のぞみ」とは読まない。実際、彼女の幼馴染みである松宮白馬まつみやはくばくんはかつて何度も「きぼうちゃん」と呼んでは娘にこっぴどく叱られてきた。だからというわけではないだろうが、娘は小学生のある時期から(つまり自分の名前を漢字で書けるようになってから)名前の表記をはっきりと使い分けるようになった。

 学校のテストや教材の申込書の記入欄、あるいは役所や公的な機関で正式な名前を求められたときはきちんとした字で「高島希望」と書いた。しかしそれ以外のときは徹底して名を「のぞみ」と書くようにした。たとえば、学校の黒板にチョークで自分の名前を走り書きするとき、

「高島さん、いい加減自分の名前くらい漢字で書けるようになりましょう」

 と先生に諭されても彼女は「のぞみ」と書いた。周囲の人間にも半ばそれを強いる徹底ぶりだった。おかげでクラスや課外活動や習い事といった各々の場面で、娘の表記は必ず二種混在した。高校生となったいまでも、彼女は厳密に本名表記を要求されるとき以外は、

 のぞみ

 とさりげなく書いた。私は一度、

「どうして漢字で書かないのか」

 と彼女に尋ねてみたのだが、娘は素っ気なく、

「面倒だから」

 と答えるだけだった。

 確かにひらがなで済ませられれば書く労力としてはずっと楽なのかもしれない。しかしそんなことを許せば「恵ちゃん」も「櫻子ちゃん」も「瑚々愛ちゃん」も、皆ひらがなで書き始めてしまう。世の中には彼女より画数が多くて、書くのに手間のかかる名前を授かった女の子はたくさんいるのだ。もっとも、私は彼女の習慣についてとやかく言ったりはしなかった。なぜならのぞみの真意もまた、私はおよそ察していたからだ。

 というわけだ。

 これから先、特別に必要がなければ娘のことは「のぞみ」と記すことにする。父親としてはどこか淋しい気持ちも当然あるのだが、おかげで単に文脈のなかで何気なく希望きぼうと書くたびに、読者がいちいち判別に戸惑うということも避けられるのではないかと思う。

 そんな気遣いを娘に強いてしまうこと自体、私はやりきれない思いがしてしまう。でも、考えてみれば彼女の名前の問題は、私たち家族を象徴する永遠のテーマなのだ。のぞみと私——そして、由希。

 だからこそ私は、表題に恥ずかしげもなく娘の名前を掲げた。これは彼女と亡き妻に宛てた、長い長い恋文ラブレターでもあるのだ。

 返事は要らない。ただ、読んで欲しい。それだけだ。

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