片隅の女

ハル

 

 私の職場にね、佐藤さんっていう二十代後半の女の人がいるんです。ああ……「佐藤さん」は仮名ですよ。


 この佐藤さんが、一年くらい前、大学時代の友達三人と旅行にいったそうです。こちらの三人は仮に……山田さん、松本さん、清水さんとしておきましょうか。行き先は、関西の有名な温泉街でした。


 お昼前に着いて、旅館に荷物を預けて、温泉街を散策しながらご当地グルメを堪能して……三時半頃、旅館にチェックインしました。


「どんな部屋かなぁ」

「写真で見てるじゃん」

「でも、私たちが泊まる部屋を見たわけじゃないし……」


 そんな、山田さんと松本さんのたわいないおしゃべりを聞きながら、部屋の戸を開けて、踏込ふみこみに入って、主室の戸も開けた瞬間……佐藤さんは愕然としました。


 ――主室の片隅に、女の人が座っていたからです。


 歳は佐藤さんたちと同じくらいでしょう、髪はショートボブ、服装はキャラメル色のニットにデニムパンツ、彫りの深い顔立ちの、なかなか綺麗な人でした。睨んでいるわけではなく、かといって無表情なわけでもなく、「会心の」という言葉をつけるのがぴったりな笑みを浮かべています。


 佐藤さんは頭が真っ白になって、その場に立ちすくんでしまいました。


「わぁ、いい部屋だね」

「うん、少なくとも写真より悪くはないね」

「松本さんってば、ひねくれてる~」


 山田さんと松本さんはたわいないおしゃべりを続けていましたが……ああ、四人は本当は名前で呼び合っていたそうなのですが、ここではわかりやすいように名字で呼び合っていたことにしています……口数は多くないものの、人一倍鋭い清水さんは、


「佐藤さん、どうしたの?」


 佐藤さんを気遣って訊いてくれました。


 そこで初めて、佐藤さんは、他の三人には女の人が見えてないんだって気づいたんです。というより、無意識下では気づいていたことが意識に上ってきたという感じでしょうね。


 それまで怪奇現象になんて……金縛りにも遭ったことがなかった佐藤さんです。もうね、怖くて怖くてたまりません。


 でも、ここで「女の人がいる」なんて言い出したら、旅行がめちゃくちゃになってしまいます。


 あいにく、山田さんと清水さんは怖い話が大の苦手、一方、松本さんは怪奇現象なんてまるきり信じないタイプです。


 オンシーズンの三連休の初日でしたから、部屋を替えてもらうこともできないでしょうし。


 結局、佐藤さんは必死で恐怖をこらえて、女の人に対して見て見ぬふりをすることにしたんです。


 でも、もちろん、その「ふり」はうまくいきませんでした。


 佐藤さんはそれからろくにしゃべることもできず、部屋ではちらちら女の人に目をやってしまって、他の三人は心配し、しまいには松本さんなんてちょっと機嫌を損ねてしまう始末でした。


「不満とか悩み事があるなら言ってくれればいいのに、『何でもない』の一点張りでさ。どう見ても、何でもなくない顔してるのに……」


 って、唇を尖らせて。


 みんな夜更かししておしゃべりするのを楽しみにしていたのに、十一時頃には布団に入って明かりも消してしまいました。


 佐藤さんは女の人のいるほうに背を向けて、ぎゅっと目をつぶって、寝返りを打ちたくなってももぞもぞ動くだけで我慢して……ようやくうとうとすることができたのは、明け方近くなってからでしょう。眠りはずっと浅く、スマホのアラームの音もぼんやり聞こえてはいたのですが、はっきり目を覚ますことはありませんでした。


「――佐藤さん、もう七時二十分だよ。あと十分で朝ごはんだよ」


 確かに目を覚ましたといえるのは、松本さんと清水さんに起こされたときでした。思わず女の人のいるほうに目をやります。


 でも、そこはもう「女の人のいるほう」ではなく、「女の人のいたほう」になっていました。


 ――つまり、彼女の姿は跡形もなく消えていたんです。


 佐藤さんは心の底からほっとして、布団に倒れこみそうになって……山田さんの姿も見えないことに気づきました。


「山田さんは? トイレ?」


 それでもはじめは深刻に考えず、松本さんと清水さんのどちらにともなく訊きました。


 と、二人は目をぱちぱちさせて顔を見合わせ、


「山田さんって……?」


 松本さんが困惑顔で訊き返してきたんです。


「えっ?」


 佐藤さんは、場違いなくらい頓狂とんきような声を上げました。心がじわじわと恐怖に蝕まれていきます。


「山田さんだよ、山田さん。一緒に旅行してた、同じ大学に通ってた……」


 恐怖を振り払いたくて、無理やり明るい声を出しましたが、


「わたしたち、三人で旅行してたけど……」


 二人の困惑の色は濃くなるばかり。次第に、それだけではなく恐怖の色も滲んできました。怪奇現象を信じない松本さんも、何かただならぬことが起こっているとは思ったのでしょう。


「佐藤さんさ、熱でもあるんじゃない? あ、もしかして昨日から体調悪かったとか?」


 松本さんの決めつけるような言葉にむしろ感謝して、佐藤さんは朝ごはんも食べずにチェックアウトして家に帰ったのです。


        ***


 それから二、三日のあいだ、松本さんと清水さんからは体調を気遣うメッセージが届いて、佐藤さんは当たり障りのない返事をしていました。


 そして、二ヶ月くらいあとのこと。


〈○日の夜、K**で清水さんとごはん食べるんだけど、佐藤さんもどう?〉


 松本さんからメッセージが届きました。


 正直なところ行きたくはありませんでしたが、断るのも悪いような気がしました。○日は一日中空いていますし、松本さんと清水さんには何の罪もないのですし。


 それに……どこかで期待してもいました。あの朝のことが、自分の夢か思い違いだったってわかるんじゃないかって。そんなことはありえないと思う一方、もうどんなことでもありうるような気もしてきます。


 結局は承諾の返事をして、当日、待ち合わせ場所であるK**駅の改札のひとつに向かいました。


 清水さんが先に来ていて、佐藤さんの数分後に松本さんが来ました。


「お疲れ~」と挨拶を交わして、佐藤さんと清水さんが歩き出そうとしたとき……松本さんがこう言ったんです。


「あ、言いそびれてたけど、長谷川さんも来ることになったから」


「長谷川さん……?」


 あの朝、松本さんが「山田さんって……?」と訊き返したのとそっくりな口調で、佐藤さんは言っていました。


 長谷川なんて名前の人、知り合いにいませんから。


「やだ、こんな時間なのに寝ぼけてるの?」


 一方、松本さんの声には、あの朝の佐藤さんの声にあった不自然さはありません。純粋に明るいものでした。


「もともと誘ってて、その日は仕事だからって言われてたんだけど、シフト変更で休みになったんだって。旅行の日と逆だね」

「接客業って大変だよね。でも……ううん、だからこそ今日会えることになって嬉しいな」


 清水さんが、同情と喜びのこもった声で言いました。そこにも全く不自然さはありません。少しでも不自然さがあればまだよかったのに、なんていう奇妙な考えが、一瞬佐藤さんの頭をよぎりました。


 松本さんと清水さんの会話から察するに、長谷川さんはあの旅行にも誘われていたくらい、三人と仲が良かったようです。――少なくとも、二人にとっては、そういうことになっているようです。


 ええ……山田さんがそうだったように。


 そのとき、


「お待たせ~!」


 背後から屈託のない声が聞こえてきました。首筋の毛が逆立つのを感じましたが、振り向かないわけにはいきません。振り向かずにはいられません。


 次の瞬間、首筋ばかりか全身の毛が逆立ち、腕にぶわっと鳥肌が立ちました。


 駆け寄ってきていたのは、服装こそ違うものの、まぎれもなくあの女の人だったのです。旅館の主室の片隅に座っていた――。


「お疲れ~」に「久しぶり!」を加えた挨拶を、他の二人と交わしてから、女の人は佐藤さんに目を向けました。


 表情のどこにも、あの日のことを仄めかすようなものはありません。「あの日わたしを見たのは誰にも言わないでね」なんて口止めの言葉や、「言ったらどうなるかわからないよ」なんて脅しの言葉を囁いてきたりもしません。


 ただ、本当に何年も仲の良かった友達のように笑っています。


        ***


 その日も、佐藤さんは体調が悪いと言ってすぐ家に帰り、それっきり松本さんと清水さんとの付き合いを絶ってしまったそうです。

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片隅の女 ハル @noshark_nolife

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