嵐の前のデート4

「今日はこれくらいにして、帰ろうか」


ひと段落して、しばらくした後、俺はそう切り出した。


今日は楽しかった。スタートから転ぶという失態を犯し、トラブルも多く発生した。それでも本当に楽しめたし、満足している。トラブルすら、伊織が笑っていたからいい思い出たになるはずだ。そう思い込むことにした。


だけど、初デートだからなのだろうか。


疲労はピークに達していた。全力で楽しんだ分、反動が来た感覚だ。

これから夕飯などまで行っていたら、適当な相槌しかできなくなりそうだ。

そうなる前に引き上げることにしよう。戦士は引き際を弁えるべきである。


「えー、もう少し遊ぼうよ。あ、でもそうだね。ちょっと待ってて」


そんな俺の思惑とは裏腹に、伊織はまだまだ元気なようだった。俺から少し離れて、何処かに連絡をし始める。連絡が終わると、すぐさまこちらに駆け寄ってくる。


「一志、うちでご飯食べて行きなよ。お父さん達も是非来てくれって言ってるよ」


そして、とんでもない提案をしてきた。


「えっと、まだ心の準備とか、その…」

「まあまあ、いいから行こう!準備があるらしいから、それまで適当に時間潰そうね」


狼狽する俺を、伊織は半ば強引に連行でもするつもりらしい。

腕を絡ませて、グイグイと引っ張られる。

考えるまでもなく、俺に拒否権はなかった。


こうなったら、覚悟を決めて楽しむべきかもしれない。

それが最善の策な気がする。社も、とにかく考えすぎず楽しめば何とかなると力説していた。それが一番重要だとも。この事態までは、流石に想定していなかっただろうけど。


だから、なるようになればいい。そう思った。


伊織は、時間を潰す場所として、彼女の自宅付近の公園を選んだ。

何処にでもある、普通の公園。ただ、日曜の夕方ということもあって、いつもより多くの子供達が遊んでいる。


ジャングルジムにシーソー、砂場。

どの遊具も大変人気で、常に数人が使用している状態だ。

俺の家からも割と近く、小学生ぐらいの時は社も含めて三人でよく遊んだ公園だ。


「あそこのベンチが空いてるよ」


伊織が、その中の一点を指差した。

かなり脇の方にあった、小さなベンチ。

伊織が指差したその腰掛けは、運良く誰も座っていなかった。


俺たちはそこに座り、伊織の家の夕飯の準備が終わるのを待つことにした。

せっかく座ったのだから、何かジュースでも買ってこようと一度立ち上がり、伊織にその旨を伝える。

すると、伊織も付いてくると、返事をもらった。


結局二人して、公園の側にある自販機に行くことした。


「お兄ちゃん達、カップルっていうやつなんだろ?凄えなぁ」


何気なしに、並んで歩いていると、一人の少年が声をかけてきた。小学生らしい、カラフルで意味不明なローマ字の印字が入っている服を着て、ツンツンに髪が立っている少年。


公園に入った時点で、こういうことを聞かれてもおかしくないと思っていた俺は、そう指摘されても威風堂々と、「そうだよ」と答える余裕があった。


「ふーん、よく分かんないけど、とりあえず遊ぼうぜ!まだ門限まで時間あるし!」


そう言うと、俺だけを、有無を言わせず遊びの輪に引き込んだ。

子供たちの渦に飲み込まれ、右に左に引っ張られる。

気が付けば、全身が砂に塗れてしまっていた。


伊織も、同様に巻き込まれ、同じような装いになってしまっている。

結局、時間がくるまで、俺たちは子供達と全力で遊ぶこととなった。


「とりあえず、シャワーでも浴びてくるといい」


そろそろ門限だからと、子供たちは帰っていった。

俺たちもその背中を見送った後、伊織の家に向かうことにした。


一度家に帰って、砂を洗い流してからにしよう。

そんな俺の名案は、いいから、いいからと簡単に一蹴されてしまった。


そうして辿り着いた伊織宅にて、俺は初っ端から彼女の父に風呂に入るよう促されていた。強引に伊織に案内されて風呂場に直行する。


彼女の家は、俺の家とは違い、全体的に綺麗な内装をしている。

幼少期に数度この家には遊びに来たことがあるから見覚えはあった。近所で、子供同士が仲がいいということで、親同士の交流も活発だったからだ。ご飯を一緒に食べるという名目で、社の家や俺の家に三人とその両親が集合したことも。


伊織の家は、家具の一つ一つが品が良く、常に整えられているイメージ。

そのイメージ通りの姿が、そのまま残っていた。

年月が経過したことを感じさせないほど、ここは変わっていない。


フローリングの廊下を渡り、懐かしさに包まれながら、風呂場に着いた。


「お客さんが先なんだよー」


と伊織が言って、先に脱衣所に俺を押し込んで、自分は先に出て行ってしまう。

取り残された俺は、とりあえず服を脱いで全裸になり、ここに入れろと言わんばかりに存在感を放つ木の籠に衣服を納める。いくら後で洗濯するとはいえ、人の家で無造作に脱ぎ散らかすのも気が引けるので、簡単であるが畳んでおいた。


不意に、籠の横に目をやると、そこには衣服が用意されていた。

大きめで、灰色のスウェットが一着。


先ほど俺を風呂に入るようにと、話してくれた伊織の父の私物だろう。

あの家族の中で、男物の服を用意できるとなると、それしか思い浮かばない。男兄弟もいなかったはず。

一度、軽く持ち上げて確認してみる。


そのスウェットは新品特有の硬さが感じられた。もしかしたら、仕舞っていた新品を下ろしてくれたのかもしれない。そして、持ち上げたことで、もう一着、下に衣服が存在していることに気が付いた。

白く、俺が今持っているそれより、一回り小さいスウェットがそこにあった。


俺以外に直ぐにこれが必要になるのは、伊織であるため、これは彼女の分か。

ふと、公園で遊んだ時の様子を思い出す。伊織も俺と一緒に子供達と遊んでいた。連絡をしている様子は見受けられなかった。


こんなイレギュラー、予想できるはずもないし。

それなのに、事前にこのことを予想していたかのような、用意周到さ。


有難いことなのに、出来すぎていて不気味さを感じてしまった。

俺は、全てをいったん忘れて、素直にシャワーを浴びることにした。


後続の伊織をあまり待たせるのは、忍びないからサッと浴びてすぐに出よう。

風呂場に入り、シャワーを頂く。


中では、湯気が軽くたっていて、確認すると、湯船も張ってあった。

改めて、準備の抜かりなさに驚くが、入るかどうかはともかくとして、砂を先に落とす必要があると判断した。


取っ手をひねると、ヘッドから水が溢れてくる。

それを頭から浴びていると、背後から元気な声が掛かった。


「一志、やっぱり一緒に入ろう」


伊織だった。シャワーの隣には、大きな鏡が設置されている。シャワーを利用する者は、必然と鏡の前に立つので、後ろを鏡越しに見ることが出来てしまう。


そして、逆もまた真なり。


つまり、俺は伊織の裸を見たと同時に、伊織に裸を見られたということ。


「ご、ごめん。もう湯船に入ってると思って」


なんて、訳の分からない言い訳をしているが、意味不明だ。


「な、なんで全裸なの?せめてタオルとかで隠してくれない?」


俺は反射的に目を瞑り、股間を隠す。俺は妄想癖があり、授業中等の暇な時間は常に何かを想像していた。その中で伊織が出てきた妄想は十や百では効かない。テロリストからヒロインを助けるのもその一つ

に過ぎなかった。


数多のシチュエーションには、当然エッチなものも含まれている。

自分の頭の中なら、幾度も描いてきた彼女の体。

だけど、いざ現物を目の前にすると、毅然と構えることは出来なかった。


それは当然で、想像の伊織には意思がないからだ。

アニメキャラの全裸を見る感覚に近い。


だから、一瞬目に入っただけでここまで興奮するのは想定外だった。

必死に股間を手で覆って、蹲るような体制を取る。


「それは大丈夫!用意してるから!」


目を瞑っていると、伊織の気配を背後に感じた。

俺は、目の周りに、何か布を巻かれていく。スイカ割りをする時のような格好になっているようだ。最

も、体の方は水着がなく、全裸であるのだが。


巻く時に、背中に、肌の感触があった。それが何処の部位であるかは、考えないことにした。少なくとも、タオルの一枚、水着の厚みも、そこにはなかった。


「これでとりあえずは大丈夫」

「全然大丈夫じゃないと思うんだけど…ご両親もいるのに…付き合ってる報告もまだしてないよ俺」

「親がいなかったらいいの?」

「いいけど、良くないっていうか…えっと」

「あはは、一志同様しすぎ。それに残念でしたー。私がもうとっくに報告は済ませてます」


そういう問題じゃないと思うのだけど。


「でも俺も伊織も何も着てないのは流石によくないよ!せめて水着かタオルとか…」

「あぁ!やっぱり見たんだ!一志って社みたいにガツガツはしてないけど、結構ちゃっかりしてるよね。」

「ちょっと見えちゃったけど、不可抗力みたいなものだし…ってそうじゃなくて!」

「まあまあ、とりあえず落ち着こうよ一志。湯船に浸かれば気分も楽になるよ」


落ち着かないのは誰のせいだと思っているのやら。

だけど、これ以上抵抗しても結局言いくるめられる落ちは見えている。

もちろん、ドキドキはするし、色々突っ込みたいことはあるが。


それでも、一応タオルで視界は覆われているのがまだ救いだ。

これで何の隔たりもなく、伊織の裸体がそこに見えていたなら、理性が消し飛んでいたに違いない。ここ

で自分を抑えられる程、俺は俺を信用していない。


既に一度見えてしまった光景と、無意識に働く脳細胞が、暗い視界の中に虚像を生み出そうとしていた。

俺は、体が反応するのを隠すように、大人しく湯船に入る。

入るとき、伊織の手に導かれたのは、非常に興奮したとだけ報告しよう。


俺たちは広い湯船の中、両端にそれぞれが背中を預けるようにしてポジションを決定した。

俺の視界が見えないのを前提にした大胆な構図だ。


「今日は楽しかったね」「ああ、またデートしような」


一度冷静になってみれば、存外状況に馴れるものだ。

興奮して体が反応しても、湯の屈折や、蒸気がそれを隠してくれる。


「でも、ごめん。色々失敗した」

「失敗?」

「最初から転んだり、鳥に襲われたり。カッコ悪いところ見せちゃった」「一志、私は失敗だなんて思っ

てないよ。楽しかったし。それとも、私といて一志は楽しくなかった?」

「そんなことないよ俺も楽しかった」

「なら、今日は成功だよ」


それに、こんな堂々と入ってくるというのなら、伊織の両親も承知しているのかもしれない。仮にしていなくても、何とかなるはずだと信じる。先の暗い心配ばかりしていても、仕方がないからな。

気持ちを切り替えようとしていると、伊織が話題を提供してくれた。


「子供と遊ぶなんて久しぶりだったけど、案外面白いよね」

「そのおかげでここまで風呂が必要なほど、砂まみれになったんだけどな」

「素直に嬉しいって言えばいいのになぁ。一志も素直じゃないね」


適当な会話が風呂の中で反響する。シャワーが止まったこの空間では、お互いの声がよく聞こえた。

だから、俺は一つの事実に気が付いた。


彼女の声は、微かに震えていた。

普段の教室や、外では分からないくらい小さな揺らぎ。

それが、はっきりと俺にも伝わってくる。そうか。この状況で緊張しているのは、何も俺だけではないと

いうことだ。自ら入ってきた伊織自身も、相当の羞恥を隠そうと必死だったりして。

そうだとしたら、彼女は何が目的だったのだろう。


こんなに恥ずかしい想いをしながらも、入ってきたのは何故か。

俺に目隠しをしたのは、体を隠すことはもちろん、彼女なりの照れ隠しかもしれない。

単に局部を隠すだけなら、タオルでも水着でも方法はいくつかあったはずだ。


「…伊織、本当は何か目的があったんじゃないの?」


俺は、努めて冷静に、聞いてみる。

単に考えすぎで、俺をからかいに来てるいつもの調子の延長だとしたら、それでいい。

しかし、そうでなかったとしたら。


何か思惑があるのなら、それに応えたい。

せっかく、俺たちは彼氏彼女になったのだから。


「やっぱりバレちゃったか」

「困っていることでもあるなら、相談してほしい」


本心から、そう伝える。


「一志、実はね、私。全部覚えてるの。あの軍服の人たちに襲われたことも。一志が私を助けようと頑張ってくれていたことも」


一拍置いて、伊織は話し始めた。


「あの時の一志がどうやって応戦したのかも見てた。怖くて声も出せなかったけど。一志は何か知っているんでしょ?それを話してほしかった」


伊織が覚えていたという事実。

フィルが指摘していた事項であるが、いざ本人から打ち明けられると複雑だ。


「それなら、ここでなくとも出来るんじゃないか?」

「ううん。あんなの、普通じゃないから、一志は隠そうとすると思う。私を関わらせないためにも。で

も、ここまで頑張れば、流石に逃げられないでしょ」

「伊織…」

「話しにくいことは分かってるつもりなの。」


でも、と伊織は続ける。


「あの時の一志、凄く苦しそうだった。私は何もできなかった。せっかく付き合えたのに、一志の力になれないのは辛いよ。せめて、君の理解者ぐらいにはなりたいの。彼女だもん」


声が震えていた。そこには、純粋な必死さと健気さだけがあった。

そうか、彼女は全て覚えていたのだ。


枸琅に襲われたことだけではない。俺が妄想力を使って、体力を消費しながら抵抗していた様子を。さらに言えば、俺が武器などを出していたことも含めて。


「病院で目覚めたときにでも、聞いてくれれば良かったのに」

「あの時は、一志凄い心配そうだったから、切り出しにくくて…。覚えてないって嘘ついたら、もっと安心した顔してたし。それに、その…告白されちゃって、それどころじゃなかったっていうか」

「それもそうだね。でも、ごめん。ちゃんと話すべきだった」


俺は、素直に話すことにした。


最初、妄想力に目覚めてフィルに出会ってから、屋上での計画、その結末に至るまでの経緯を事細かく。伊織は時折頷きながらも、俺の話に耳を傾けてくれた。何も知らない人であったら、単に荒唐無稽な作り話にしか聞こえないだろう。

しかし、実際に体験した伊織にとっては、そうではない。


俺が、無から何かを出すさまを、枸琅との戦闘を目撃しているのだから。

一通り話すのに、数分を要した。


それでも、一度白状することを決めれば、言葉はすらすら出てくるものだった。

ただ、伊織に振り向いてもらうために、ここまで大事にしてしまったことを知られれば、嫌われるかもしれないとは思ったが。


それでも、隠しているよりはずっといい。

俺は、話すことで心のつっかえが取れる思いがした。


「っていう感じだ。どうかな…?」

「えっと、つまり一志はその、妄想力っていう力で私を惚れさせようとしたら、トラブルが起きてああなっちゃった…こと?」

「その通りだよ。改めて言葉にすると、情けない話だよね。軽蔑しただろ?」

「驚くことは多かったけど、軽蔑はしないよ。でも」

「でも?」

「そんなことしなくても、私は昔から一志のことが好きだったよ」

「そ、そう」

「それに、あれがトラブルだったなら、本当に危なかったってことでしょ。それから守ってくれたんだから、むしろありがとうって感じかな」


伊織が微笑んでいる気がした。


「でもフィルさんが未来の一志っていうのはちょっとまだ受け入れられないかも」

「俺だって最初はあんなコスプレおじさんを自分だなんて、認めたくなかったけどね」


二人して笑う。

最初からこうすれば良かったのだ。


「正直、伊織に心の傷が残らなかったか、それが心配だった」


変にフィルや力に頼らなくてもいい。

むしろ、勇気を持って自分の思いや、考えを共有するだけで良かった。


「大丈夫。確かに怖かったけど、一志が守ってくれたからね」

「伊織…」


そんなシンプルだけど簡単じゃないことに、俺は苦戦していたんだ。

もう大丈夫だろう。こうして本音を話せるようになった今の俺なら、今後も伊織とうまくやっていける。その自信がちょっとだけ生まれた。


「長湯しちゃったね、軽く流して上がろうか」

「分かった。そうしよう」


俺は、すっかりいい気分になって、そのまま立ち上がった。


「い、一志」


自分が今全裸であることも忘れて。動揺する伊織の上擦った声で、そのことにようやっと自覚する。俺は慌てて隠そうと慌てふためいた。そうしてバタバタと動いてしまったことが仇となり、目隠しがはらりと宙を舞って落ちる。


伊織の水の滴る裸体が、眼前にあった。

すっかり赤くなった伊織と目があう。


意外に胸が小さいんだなと失礼な感想がよぎる。今更になって、やはりとんでもない状況であったことを意識してしまう。湯船に浸かって、頭に昇っていた血が、興奮によって鼻から零れ出るのを感じる。

そして、俺はその作用で、意識が朦朧とし始めた。


そう、俺は鼻血を出しながら気絶するという昔のマンガのような稀有な倒れ方をする羽目になってしまった。


いい体だった、最後に考えたのは、それだけだった。


倒れて目覚めれば、知らない場所で寝ていた。

という体験は中々出来るものではない。


それを俺は今回を含めて、短期間で二回も味わってしまった。

一度目は枸琅に敗北した時の病院の一室。

二度目は伊織の家で興奮して倒れた今。


だが、単に知らない場所と言っても今回は彼女の家。

幼少期に訪れたことがあるので、微かに見覚えはあった。

電気が光の弱いものしか点いていなかったので分かりにくかったが。


丁度、リビングの横にある客間で、和室の空間があったのを思い出す。

寝かされていたのは布団で、天井や襖から察するに、そこであることは間違いない。

ただ、記憶と異なるのは部屋の一角に仏壇が置かれていたことだ。かなり大きく存在感があり、綺麗に整

えられている。亡くなった方の遺品と思われる品々が共に飾られていた。誰か身内を失ってしまったの

だ。


しかし彼女とはいえ、他人の家のそうした事情に深入りするのは良くない。

俺は仏壇から目を逸らす。伊織の家は全体的に、調和がとれていて、俺の家のようにゴミが落ちているということもなかった。


隙が無いように見える。それでも、ふと柱の一本を見ると、伊織の身長を刻んだであろう跡があり、家族の温かみがあるのも分かる。初期はかなり線の数が多く、最近は全く引かれていないようだった。

伊織の身長も、もうそんなに伸びないだろうからな。


なんて、観察ばかりしていると、襖がゆっくりと開いた。


「一志、目が覚めたんだね。良かった」


伊織が眉を傾げて、こちらを覗いていた。その背後には、もう一人、彼女の母親が伊織の肩ごしににこやかに微笑んでいる。俺は、伊織と一緒に風呂に入ってしまったことで攻め立てられる可能性があるとも考えたが、特に追及はしてこなかった。


「大丈夫?一志君も大変ね。娘が少しやりすぎたみたいで…」


単純に倒れたことを憂いている様子。


「いえ、とんでもないです。布団まで敷いていただいて、感謝してます」


上半身を起こして、礼をいう。下に目をやると、俺は既に服を着ていた。

俺は風呂場にて、全裸で倒れていたはずだ。


それなのに服を着ているということは…。

誰が着せたのか、そういうことは考えないでおくことにした。


答えが誰であっても、羞恥に悶えることは必至。

知らない方が幸せなことも世の中にはあるということだ。


「ごめんなさいねえ、ここで寝てもらってっちゃって。本当は他の部屋の方が良かったんだけど、私たちも力がなくてねえ」

「そんなことないです。いい寝心地でした」


きっと、あの仏壇のことを言っているのだろうけど、俺は気にしていない。


むしろ気を使わせてしまったのが申し訳ないくらいだ。


「おお、一志君。起きたか。お腹空いているだろう。ご飯にしよう」


遅れて、伊織の父親も登場する。

父親の方も、特に風呂の件に関して口にすることはなかった。

それが逆に怖くもあったが、触れてこない以上は大丈夫だろう。


ここで自分から聞いてみるのは、流石に厳しいものがあるし。

目が光に馴れると、隣の部屋の様相が見えてくる。


そちらでは既に夕飯の準備が着々と進んでいるようだった。

いい匂いが、こちらまで届いている。


「ありがとうございます。それではいただきます」


俺は布団から体を出して、彼女たちの方へ向かう。

布団を片付けたり、ご飯の支度に協力しようとしたが、断られてしまった。


「お客さんだからいいのよ」

「さっきまで倒れてたんだから無理しないの」

「私たちは家族のようなものだから、気にしなくていい」


と、三者三葉の気遣いをされてしまった。

隣の部屋はリビング兼キッチンの広い空間が広がっていた。

子供の頃も広いとは思っていたが、大人になっても同様の感想が出てくる。


小学校の頃の教室に、大きくなってから尋ねると全てが小さく見える。それは相対的に自分が大きくなったからだ。

だけど、この空間は相変わらず広いと思う。

伊織に背中を押されて、食卓の席の一つに腰かける。


手持無沙汰に、ソワソワしていると、着々と準備が進んでいく。

普段一人暮らしをしている分、何もしなくても夕飯が出てくるというのは魔法のようであった。

しかも、運ばれてくるそれは豪勢なものばかり。


なんだかパーティーでも始まりそうな、そんな品ばかりだった。

それも一つ一つのクオリティが高く、量も多い。


年に一回食べれたらいいな、というレベルの食材が大きめのテーブルを隅から隅まで埋め尽くしてく。俺は、それらが運ばれてくるたびに感心してしまって、唸ってしまった。普段、簡単な料理や、貧相な味を中心に生きているため、非常に食欲がそそられる。


ひと段落着くと、全員が席に着く。

定位置が決まっているようで、俺の隣は伊織。

向かって右が母、左が父となっている。


テーブルが広いため、距離がやたら遠く感じられた。


「それではいただこうか」

「はい、それでは一志君と伊織の交際開始を記念して、乾杯!」


父と母がボトルの酒を開けて、グラスに注ぎ、乾杯の音頭を取った。

金色の液体に、炭酸の気泡が浮かぶ。

グラスの下に長めの持ち手が伸びる、ワイングラスタイプ。

結露からくる水滴が下に垂れても平気なように、コースターまであった。

それを、持ち上げて、全員で器を当て鳴らす。


ガラスが綺麗な音を立て、夕食は始まった。


「これ、絶対アルコールが入ってますよね」

「そうだったかなあ。まあ、細かいことは気にしないことが一番だ」

「そうだよぉ~。今日はただ楽しめばいいんだよ」

「うう、一志ちゃんも大変よねえ。私のことはお義母さんと呼んでいいのよ」

「一志君、娘は任せたぞ。はっはっは!」

「任せろ下さい!フフフフフフ」


学生の俺たちも飲むことを踏まえて、アルコールは入っていないと思っていたら大間違いだった。酒など口に含んだことがなかったから、これが酒だとも酔うまで分からなかった。伊織も顔を赤くして笑っている。


ご両親も楽しそうで、和やかな雰囲気。

楽しい時間は、永遠に続く錯覚を俺に与えた。


しかし、夕食会は瞬きをするよりも早く終わってしまう。

泊っていきなよ、なんてこの家の人たちは気軽に提案しきた。魅力的な提案であったが、なんだか家に帰りたい気分だったため、断った。


残念そうにしていたが、皆最後は笑顔で俺を見送ってくれた。

伊織が元気に手を振っている。まだ酔っているらしく、肌が蒸気していた。

あんまり一緒に居ると、理性を制御できなくなりそうだ。


「一志君。今まではすまなかったね。でも、これからは困ったら、私たちが力になる。それを忘れないでくれ」


別れる直前、お義父さんがそう言った。

飲んでいた時とは一変して、真面目な顔。


意味はよく分からなかったが、とりあえず頷いておく。

外は、すっかり暗く染まっていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る