嵐の前のデート2
コンコン、と控えめなノックが鳴った。
時間帯は深夜、時折ナースコールや騒ぐおじさんの声が微か届くのみ。
虫の声さえ聞こえそうな静かな病室は、一人では暇だった。
伊織の安否は結局知らされず、フィルの様子も考えると寝れない。追加の検査も特になく、話し相手になってくれる社も帰ってしまった。警察の取り調べというのも、結局フィルが片をつけたようで、本物の警
官が現れることもなかった。
だから、その小さなノックに俺は敏感に反応することができたのだ。
夜なので大声で返事をするわけにもいかず、俺は点滴を片手にドアまで急ぐ。
そっと、音を立てないように開けて見れば、伊織がそこにいた。
病院の質素な青みがかった服でも、彼女には似合っていると思う。
月光を受けて、僅かに服が発光しており、幻想的な雰囲気すらあった。
「大丈夫なの!伊織!」
シッと伊織に口を抑えられ、慌ててボリュームを落とす。
口を押える手は、柔らかかった。
こんな時なのに、伊織の手の感触を味わってしまう自分が情けない。
「とりあえず、中入るね」
俺の口に手を当てたまま、伊織は俺を病室に押し込んだ。
再び扉をゆっくり閉めると、彼女は俺から離れた。
壁に背中を預けて、ホッと胸を撫で下ろしている。
そうした仕草がいちいち可愛い。
手の感触を名残惜しみつつ、体力が未だ前回ではないので大人しくベッドに戻ることにする。話をするために、腰掛けるが、寝はしない。
「話たいことがあって…そっちに行ってもいい?」
否定する理由もないので、頷く。
伊織はこちらに寄ると、来客用の椅子を一つとって俺と対面するように座った。
「それで、こんな夜更けにどうしたの?体調は大丈夫?」
捲し立てるように、罪悪感に駆り立てられるように俺は質問を重ねる。
伊織はそれも想定通りだったのか、微笑んでいた。
「大丈夫だよ。身体は元気だし、警察の人は精神面をやけに心配してくれたけど、あんまり覚えてないんだよね…何があったのか。」
「そうか」
俺はひとまず、安心した。多分フィルも同じ気持ちだっただろう。伊織のいう警官は十中八九彼のことだろうから。
なんだかんだ言っても、フィルも伊織のことを想っていたのだ。
彼女の健康は当然として、精神面の心配。そこも嬉しかった。
「その報告もあったけど、今は話したいことがあって来たんだ」
「話したいこと?」
「そう、話したいこと。まずは助けてくれてありがとう。正直記憶が曖昧で、何が起こったのかイマイチ覚えていないんだけど、一志が助けてくれたことだけははっきり覚えてる。一志がカッコよかったのも…」
俺は、上手くそれに返せなかった。本当は俺のせいなんだ、とか助けたのは俺の実力じゃなかったとか、本音を吐き出したかった。だけど、それを吐露することは許されないことだ。
俺は、下を向くことしかできなかった。
それを照れだと捉えたのか、伊織は追撃をしてくる。
「それと、もう一つ。聞きたいことがあったの。屋上に出たのは、一志に呼び出されたからだったでしょ?あれはどういう意味だったの?」
ニヤニヤしながら聞いてくる。こうしたからかいが、酷く懐かしく感じられた。
そして、意表を突かれた思いだった。
彼女を慮る気持ちが先行して、そのことを失念していたからだ。
「そ、それは…」
思わず口を濁してしまう。
伊織は、どうしたの?なんて楽しそうにしている。ここで、俺はフィルの何故かフィルの話を思い出していた。未来の自分の話。俺は結局伊織と付き合うことは出来ず、最終的に死を選択してしまう。
後悔で終わり、再び俺の時代に戻りチャンスを与えられた。フィルは、焦っていたのかもしれない。高校卒業後、俺たちは別の進路をとり、社がいなければ会うこともままならない。
だから高校のうちに、なるべく早く行動を起こしたかったのだろう。あくまで憶測になるが。俺がフィルの提案に乗ったのも、俺が悔しそうにしていたり、現状を打破したいと考えていたからだ。
ここで黙り込むのは簡単だ。
だけど、それは迷惑をかけた伊織が被った被害、後処理に走ったフィルの努力、その両方を無意味なものにしてしまう。
伊織は、こうしているが、強く気丈に振る舞っているだけかもしれないのだ。
それに、二人は頑張ったのに、俺はまだ何もしていない。少しは頑張ったが、結局事態を収集したのはフィルだった。俺も頑張らなくちゃいけない。
そして、もう一つ。枸琅の姿を想起する。
恐ろしかった。しかし圧倒的な実力差を前に、俺は、結果はともかくとして立ち向かえた。
あれに比せれば、どんな困難も些事になる。
社は、俺が告白すると勘違いしていた。最初、告白するつもりなんて、まるでなかった。
伊織を追い込んでおいて、虫がいいとも思った。
しかし、ここにきて気が変わった。
素直に思いのたけをぶつけよう、そう思った。
だから、俺は伊織が投げてくれたボールをどう返すかを決める。
自ずと、出てくる言葉は一つだった。
「伊織、俺は伊織が好きだ。付き合って欲しい」
俺は、面と向かって言い放った。
「出来れば、デートもしてくれると、嬉しい」
少し照れてしまい、順序が逆にはなったが、気持ちは伝えられた。
あとは伊織次第だ。
「…それ。逆でしょ、普通…」
彼女は泣いていた。
今までの余裕は無くなっていて、涙で顔はくしゃくしゃだった。
俺は彼女の手にそっと自分の手を合わせる。
「でも、嬉しい…。わ、私も…好き」
俺たちは見つめあって微笑み合う。
そこには、確かに永遠があった。
「よろしくね」
こうして、俺たちは付き合う運びとなった。
どこかで、フィルが見ている、そんな気がした。
翌日、一応ということで検査を受けた俺たちは、特に問題がなかったようでそのまま退院することになった。
昼下がりの太陽は、いつもより眩しい。
伊織と共に帰路につき、家路を辿る。
伊織は家族のこともあるので、寄り道せず家に帰っていった。
俺も、フィルに今一度謝りたかったのと、報告をしたかったので帰ることにした。
俺の家に住むといっていたから、いるだろうという算段だ。
一日ぶりの我が家。
フィルがいる可能性も考慮して、ただいまと声を上げて玄関に入る。
だが、中は電気もついておらず、人の気配もない。
玄関には、彼の靴もなかった。
フィル?いるか?と言いながら部屋を一つ一つ探ったが、結局フィルはいなかった。
ひとまず、荷を下ろして寛ぐことにする。
俺は、大きな満足感を感じている。
それは、伊織と付き合えたこともそうであるが、それ以外にも理由がある。
伊織とデートすることが決まった。
今週末の土曜日、昼前に駅前に集合して遊ぶことにしたのだ。
今日の帰り道、話しながら約束した。
フィルはデートは何度かしたと言っていたが、ついぞカップルとしてはデートしたことはなかった。
俺たちが付き合うために行動してくれていたフィル。是非報告したいと思う。
いや、目的が達成したから消えてしまったのではないか?
ふと、そんな考えが頭を過ぎる。
フィルは元々、俺が妄想力で呼び出した存在。
何故か他の道具のようにすぐには消えなかったが、本人はいつ消えるか分からないとも話していた。
それが、昨日だったとしたら。
夜、最後に一瞬フィルの気配を感じた。
あの気配が消える前の灯火だったとしたら。
俺は、最悪の別れ方をしてしまったことになる。
今日はまだ平日。学校にいる可能性も捨てきれない。
伊織は昨日の今日とあって、大事をとるらしく休むと聞いている。
俺は、眠れなかったにしては体が元気だった。まあ伊織と結ばれた幸福感による空元気なだけだろうけ
ど。それでも、俺は家に一人。特に俺を気遣う人間は不在なので、行動を起こすのも悪くはないと思った。
制服に袖を通して、靴を履く。
彼が学校にいるか、確認しに行こう。
フィルのことを考えながら、通学経路を歩む。
まだ自転車は直っていなかった。
フィルが来て、妄想力を体得して、テロリストと戦って。
そういう日々を、短くても濃い毎日を、過ごしてきていたのだ。
自転車に気をかける余力がなかったと言えば、嘘になってしまうが、少なくとも忘れてしまっていた程度には充実していた日々。
伊織もフィルもいない、一人の時間になって初めてそれを意識する。
彼女と話すことも出来なかった以前の自分。
フィルと出会って、緊張しながらも話せるようになった自分。
予定外の事態はあったが、社やフィルの助力を受けて、遂に二人の目的を達成することが出来た。
彼には感謝をしなくてはならない。
たとえ、自分自身であったとしても、彼がいなければ俺は変わらなかった。
デートに誘えもしなかった俺が、告白する勇気を持てた。
本来ならば、一番にその成功の喜びを分かち合うべきはフィルだ。
それなのに、俺は冷静さを失って彼を責めてしまった。
謝らなくちゃ、いや謝りたいと思う。
数日ぶりの一人の時間を、反省に費やして、俺は気を引き締める。
校門を潜って、教室に向かう。
授業中とあって、学校は体育を行っている校庭を除いて、静かなものだった。
体は元気であるが、今日は授業を受けるつもりはない。
フィルがいるかを確かめたら、すぐに帰宅するつもりだ。
いれば次に学校に登校する日に話しかければいい。
いなければ、別の場所を探すことにするまでだ。
今、自分の体調が空元気なのは理解している。
だからこそ、無理するのはよそうと考えた。
週末にはデートが控えているうえ、あまりバイトも休んでばかりいられない。
こっそり上履きに履き替えて、足音を立てないよう意識を尖らせる。
無事に目的地、自分の教室にたどり着いた。閉まっている後ろの扉から中を覗こうとする。
そっと、顔だけだそうとすると、
「あ、一志じゃないか」
と、ドア付近に座っていた生徒が偶然俺に気が付いてしまった。
目が合って、数秒、不思議な沈黙が訪れる。
俺は、咄嗟に顔を引っ込めてしまった。
フィルの所在を確認するよりも早く、クラスメイトに気が付かれてしまった。
だけど、そいつの声は思ったより大きく、教室内が静まり返ったのが分かる。
こういう事態を避けるために、前でなく後ろの扉を選択したというのに。普通、こっちなんて見るか?しかもこんなタイミングよく。
まあ、起こってしまったことは仕方がない。どうするかを考えるべきだ
納得はいていないが、フィルも言っていたことだ。
そうだ。動けば目立つのは明白だが、今はフィルの方が大切だ。
覚悟をすぐに決めて、扉を開く。
「こんにちは」
「あら、一志君。今日は遅かったわね。」
英語の女教師がそう反応した。教室内は多少騒めいたものの、普段俺は人気者のポジションの人間ではない。バイトばかりしていて、大してクラスメイトと交流を持っていない、パッとしない男。
社や伊織と仲がいいのが不思議。
転校生で注目株のフィルとも関係があるという、意外性。
そういった意味で注目を受けているのは自覚している。
それ故に、盛り上がることもなければ、完全に白けることもない。
謎がある俺に対して、ひそひそと話をしているのがよく分かった。
俺は、皆の目線を避けつつ、フィルの姿を漁る。場所は、伊織の席の横。
今日は空席の彼女の席の隣には、また空の席が並んでいた。
欠席。
そうフィルはここにはいなかった。
確認が済んだので、何か言い訳をして帰ろう。
「先生、一志は体調が優れないようです。俺、保健室に連れていきます」
しかし、それを阻止する者が現れた。言ってきたのは、俺の親友である社、その人だった。
クラスの注目は、一気に彼に集約した。クラス随一の人気者の行動だ、ある意味当然と言えよう。
当の本人は、至って真剣な表情をしていた。
まるで視線を感じていないかのように、俺だけを見ている。
社はこっちに来て、俺の腕を取ると、そのまま教室の外に出た。
残されたクラスメイト達の喧騒が、教師の一喝で収まるのを見届けて、そのまま廊下を歩いていく。
黙って引っ張られる腕に従って、前進する。廊下を渡り、階段に差し掛かると、社は迷わず上に登っていった。先生には保健室と言っていたが、どう考えても、あれは建前だった。
単純に、俺と話がしたかったのだろうか。
最終的にたどり着いたのは、やはり屋上だった。
いい意味でも、悪い意味でも、この場所は記憶に残っている。
俺が妄想力を使って開けた扉。フィルの話を聞いて、伊織と付き合うために協力すると約束した場所。そ
して、伊織と共にテロリストに襲われて、立ち向かった場面。あそこで枸琅に立ち向かえたからこそ、俺
は伊織に告白出来たと言っても過言ではない。
ここは、俺にとってのターニングポイントの地。
そういえば、社にはまだその報告をしていなかったな。
付き合い始めたのが、社が去ってから数時間後なのだから仕方がない。
今から、タイミングを見計らって伝えておこう。
きっと驚き、そして喜んでくれるだろうから。
周囲を社の背中越しに見渡す。
先日の戦闘で、かなり損傷があったはずの屋上は、見事に綺麗になっていた。
フィルが力を活用して、元に戻した涙ぐましい努力の痕跡がこれだ。
「俺が二人を発見した時は、荒れてたはずなのに元に戻ってるんだ。不思議だろ」
整然と整備された緑の床は、太陽の熱で温まっていた。
生暖かい風に包まれて、夏少しだけ顔を出し始めているのを感じる。
俺たちは、丁度枸琅が襲ってきた辺り、中心に向かった。
特に何かが残っていることはなく、フィルの技術に驚かされる。
言われなければいつか、あんな出来事もあったと、思い出せなくなりそうだ。
「俺は気絶してたから、良く知らないんだけど、そんなに酷かったの?」
「酷いなんてものじゃない。あれは、交通事故にでも巻き込まれたみたいだった。そうじゃなきゃ、俺も警察なんて呼びはしなかったさ」
「俺を連れだしたのは、やっぱりその話?」
「そう、そのつもりだった。でも…あれは…」
何かを言いよどむ社。彼のしおらしい姿は珍しい。
「でも?」
「いや、やっぱりやめておくよ。お前が元気ならそれで十分だ。当の本人達が覚えていないって言ってるのに、発見しただけの部外者な俺が蒸し返せる話じゃない」
「部外者だなんて、そんな…社のおかげで直ぐに病院にいけたから、軽症で済んだようなものなのに」
それでも、と彼は暗い雰囲気のままだった。
「とにかく、何度も繰り返すようだけど、二人が無事で何よりだ」
「社…夢でも見てたんだよ、きっと。疲れてるんだよ」
「ああ、そうかもな。疲れて空見したんだろう」
社は俺の無事、状態を確認するつもりだったのかもしれないが、これでは社の方が体調が悪そうで心配になる。
ここはひとつ、元気になる明るい話題が必要だ。
それは、当然さっき考えたあれが役に立つ。
言うまでもなく、内容は伊織と交際し始めた件についてである。
「そうだ、社。俺お前にどうしても言わなくちゃいけないことだあるんだ」
「どうしても、言わなくちゃいけないこと?」
俺は、こほんとわざとらしく咳をして、後ろで腕を組む。
仰々しく胸を張って、宣言するように前のめりになり、踵が少しだけ浮いた。
「俺、伊織と付き合うことになったんだ」
いざ、報告するとなると反応が気になるものだ。社は一体、どういうリアクションを取るのだろう。非常に楽しみだ。
と、彼の顔色を確認すると、
「!?」
という感嘆符がいかにも頭上に浮いているといった仰天顔をしていた。
肩が上がって、腕も不思議な方向に向いて固まっている。こんな面白いポーズをする男だったのか。社とは随分長い付き合いだが、爽やかな笑顔がほとんどメイン運用のデフォルト。
それ以外となると、バリエーションは限られてくる。
「おいおい、流石に面白すぎるだろ。何だよそれ」
俺が一人で大笑いしても、彼はピクリともしなかった。
不審に思って、近づき軽く肩に触れてみる。
すると、何の抵抗もなく、固まったポーズのまま後ろに倒れていった。
「気絶してるじゃないか!」
それから社が正気を取り戻すまで、かなり時間がかかってしまった。
「あ、あの一志が告白して、あの伊織がオッケーを出したってことか?」
気を取り直して、改めて詳細を話すことにした。
仔細を伝えると、社は信じられない御伽噺でも聞いている子供のように、それ本当か?と繰り返し聞いてくる始末だった。
「もう何回も言っているだろ。信じられないなら今度伊織にも確認してみなよ」
「あ、いや疑っているわけじゃなくてだな。あんなにアシストしても、デートもしなかった二人がいきなり付き合いだすとは思わなくて」
「でも屋上に呼び出してもらったじゃないか」
「正直、逃げ出すか、言えないかのどちらかだと思ってたんだ。ごめんよ」
「結局、告白は病院でしたんだけどね」
「いや、それでも凄いぞ。ああ、やったな。一志。」
時間を使って、ゆっくり事実を咀嚼する社。
事態を理解し始めると、今度は目一杯の笑みを浮かべて、お祝いのムードで俺を包み込んできた。
彼が知っている賛辞の言葉を全て並べて何回も繰り返す。
ようやっと、後ろで輝く太陽の光が似合う男が戻ってきた気がした。
昨日の病院からずっと暗く、焦燥感に身を蝕まれているようだった。
それから解放された、あるいは一時的に忘れられた、そういう晴れやかさがあった。
「それと、週末デートすることになってる」
社は、再び快哉を上げた。
背中をバンバンと叩いてきて、声のボリュームも上がる。
「トントン拍子で進んでいていいな!今日は記念日だ!奢るから飯でも行こう!」
社は本当に嬉しそうに笑う。
そして、屋上から出ていくために、階段へ近づいていく。
どうやら、授業を抜けて飯にいくつもりらしい。
今度は俺の手を取ることなく。俺が出遅れているのを見るやいなや、早くこいだの、急げだの言いたい放題だ。俺は呆れながらも高い満足感を胸に抱えて、ついていく。きっと俺は今、彼と同等かそれ以上に、幸福なんだろう。
「デートのアドバイス、してやるよ!」
「あ、それは助かる」
いつもの調子の親友が、戻ってきた。
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