第4話 夢の狭間。

霞みがかった丸い月、ちり、と響く鈴の音。

ゆらりと揺れる黒い尾と、時折風に揺れる紅の衣。

ぴこぴこと耳を揺らした影が、ゆっくりと振り返る。

あの路地裏の塀の上からこちらを見下ろした、鋭い黄金色の瞳。明らかに常人では無いその姿は、異様な程に美しい。

呆然と見上げる俺に向かって、その赤い口元が動いた。…何かを、呟くように。突然のことに驚き、もう一度、と聞き返す前に、ニンマリと口角を上げて、ひらりと反対側へ飛び降りる。急いで追いかけるが、普通の人間である俺にはあの塀を乗り越えることなんて出来ずに、ただ、眩しいくらいの月を眺めていた。


昨夜も、夢で見たその光景が、頭を巡る。

あの時、彼はなんて。…俺に、何を言ったのだろう。

何を、伝えようとしていたのか。


「…輝、春輝!」

「っ、!」


強く揺さぶられて、意識を引き戻す。すると、目の前に遥介がいて、思わず飛び退く。驚かせるな、と言うとこっちのセリフだ。と眉をしかめた。

男前は不機嫌でも絵になるのか、なんて少し憎らしくなった。

「…コーヒー持ってくるって言って全然戻らないから…。」

「えっ、あ、すまん。」

給湯室のシンクの前で未だに空の紙コップへ、コーヒーを注ぐ。…その様子をじっと見つめ、遥介はコーヒーは別にいいんだけどさ…と呟いた。湯気を立てる漆黒をぼんやりと眺めていると、突然白い液体が注がれて少し驚いた。

「ミルクだけでいいよな?」

「あ…ありがと。」

紙コップを手にして、2人でデスクへ戻る。流石に戻らなければそろそろ課長にどやされそうだ。

自分のデスクに戻る直前、遥介に名前を呼ばれ、振り向けば突然デコピンをかまされた。

「ってぇ、なにすんだよ!」

「…目ぇ覚めたか?」

「まぁ、うん、ありがと。」

「よし。」

ニカッとさわやかに笑い、くしゃ、と俺の頭を撫でて満足気に自分のデスクへ戻っていく。

なんなんだ…と撫でられたところを手櫛で整える。すると、隣の席から視線を感じ、そちらを向けば晃がじっと見ていた。

「?…どした?」

「あぁ、いや、なんでも!」

そう言って、またパソコンへ目を向ける。

ひとつ深呼吸して、まずは仕事に集中、と改めて俺もデータへ目を向けた。…今日は、『ひろくん』に会いに行くんだ。

逸る気持ちを落ち着けて、タイピングし続ける。

…緊張するような、楽しみのような、何かが変わるような、少しだけ彼に会うのが怖いような。


…不思議な気分だ。



最後のEnterを叩き、プリントアウトして課長へ資料を提出し、PCの電源を落とす。

ふぅ、と一息つけば真横から「あれ、今日はゆっくりですね」なんて言われて少しドキッとする。かく言うその後輩ももう帰り支度をしている。

…どうせ店が開くのは20:00だし、定時に無理矢理終わらせなくてもいいのだ。

一緒に帰りましょーと声をかけてきた晃と会社を出れば、何故かとっくに仕事を終わらせたはずの遥介が外のベンチに腰掛けていた。こちらに気づいて手を振ってきたので、晃と共に遥介の方へ近づいた。

「三波先輩お疲れ様です!」

「おー。」

「お疲れ遥介、…誰か待ってんの?」

「誰かっていうか、…お前だけど。」

「え、俺?」

約束でもしてただろうか、でも最近は全部断ってて…と考えていれば、よしっ、と言ってベンチから立ち上がり、また俺の頭へ手を乗せた。

「遥介?」

「今日こそ飯行くぞ、春輝!」

「えっ、…え、待って俺、」

「晃も行くか!」

いいんですか!?と目を輝かせる後輩と裏腹に、不味いことになった…と思考をめぐらせる。どうしようか。そうしているうちに、遥介の自信満々に告げてきた覇気が萎んでいくのがわかる。眉を下げて、最近よく見る幼げな表情になった。

「…なぁ、春輝。俺やっぱなんかしたか?最近妙に避けてくるし、…飯も断るし。なんかしたなら言ってくれよ、…俺、このままお前と遊べなくなるの、正直キツイんだわ。」

笑っているが、明らかに傷ついたようなその表情に後悔が募る。…そっか、俺、自分のことばっかで、遥介のこと…。

「…ごめん、遥介、違くて、…別に、遥介が嫌になったとか、そういうんじゃなくて…ただ、」

「…ん?」


「化け猫が、見つけたくて。」


そう言うと、遥介と晃は驚いたように目を見開いた。

「えっ、春輝、お前あれからずっとその化け猫探して…。」


こくり、と頷けば、急に、両手首を遥介に掴まれる。


「…、どうしたんだよ、なぁ、春輝。本気なのかよ。…だって、化け猫なんて、」

「っ!いるんだよ!!…見たんだよ、俺は…いるんだ、絶対…。」

「でも、また逢えるかなんてさ…」

「だから探してんだよ、いる確証は無いけど、存在しないって証拠もないだろ!」

「おい、春輝!…お前、しっかりしろよ!!」


その言葉が、頭に響いた。しっかり、しろ?

…おかしい?俺が?何故?異常なのか?

わからない。分からない、解らない。だって、俺は、ただ、もう一度。くるしい、くるしい、…信じてくれよ、アイツの存在を、否定すんなよ、アイツの存在を、認めないなんて、許さない。いるんだ、絶対。絶対にだ。

「っ、春輝、…春輝?」

「…いるんだ、…いるんだよ、…信じろよ…。っ、あぁっ、…ぐ、…くっそ、!」

「っ、落ち着けって!なぁ!」

ぐるぐると渦巻く思考と、吐き出したくて仕方がない苦しさ。思わず叫び出したくなるほどの、もどかしさ。歯を食いしばり、爪が食い込むほど手を握る。


ふと、晃が俺の肩に触れた。


「…え?」

すると、ニコリと微笑んでぽんっ、と軽く叩く。

瞬間、荒ぶっていた思考回路と、白熱した心がが凪のように穏やかになっていく。ぽんっ、ぽんっ、と叩くのに合わせて呼吸を繰り返せば、ふわり、と意識が微睡んでそのまま遥介へ倒れ込む。

「っ、春輝?」

「…ごめ、遥介、俺、ヒートアップして、」

「……大丈夫だから。」

遥介に抱き止められて、頭を撫でられる。

それに合わせて、だんだんと冷静になる。

…何となく、今までにないくらい、あの化け猫に固執している自分が怖くなった。日に日に強くなる、執着。…まるで、自分の存在を否定されているような気がして、熱くなった頭。


冷静になった今だからわかる。…さっきの俺は、異常だ。

「……。」

ふと、晃へ視線を向ければ、何かを考えている様子だった。…今の、晃のはなんだ。明らかに、普通の動作とは違う何かが。遥介から離れ、晃へ声をかける。

「っ、なぁ、晃今なにか…」

「えっ?」

「…何か、したか?」

「……いいや?僕はただ肩叩いただけですよ?」

「…そっか。あ、」

気づけば、時刻はもうすぐ20:00で。


「っ、ごめん!俺用事あって、…もう行かないと、」

「…どこ行くんだよ。」

手首を掴まれて、引き止められる。

遥介のその目は、先程の動揺も、何も、無くて。…何を考えているか、わからない。

一瞬その目に怯めば、パッと目の色を変えて問いかけた。

「遥介?」

「…俺のせいじゃないなら、教えて?」

「……行きたい、店があって。」

そう答えるのが精一杯だった。

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