第3話 焦燥。

この会社に入って3年。

大方慣れた業務をこなしながら、頭の隅でどうしてもあの光景がチラつく。

紙の数値を入力、Enter、詳細を記入、Enter。

電話番号、取引先の名前、確認、Enter。

だんだんと終わりに近づく作業と、終業時刻。

早く、早く見つけなきゃ行けない。

理解っているつもりだ、この妙な緊迫感も、使命感も、…本当に存在するかも分からないものへの執着にしては異常なことくらい。


パチ、とEnterを叩き、ファイルを上書きしてぐぐっと伸びをすれば、時刻は定時から5分を過ぎたところだ。ふぅ、と一息つくとデスクの上にカタ、と何かが置かれた。そちらを見れば、遥介が眉を下げてこちらを見下ろしていた。

「…終わったのか?」

「あぁ、うん、今ちょうど。」

「そっか。お疲れ様。」

そう言って、置かれた缶コーヒーをこちらにスライドしてきたので軽く礼を言ってプルタブを開けた。そのままゴクゴクと2.3口流し込む。

…久々に頭をフル回転しているからか、ぼんやりしていた頭がコーヒーの苦さで妙に冴えた。

「妙に頑張ってるな、最近。」

「え、…そう?」

「だって、春輝が定時に仕事終わるとか、珍しいだろ。」

「そんな事ないし…。」

と言いつつも、ここ最近定時に上がれるように必死に仕事をこなしているのも事実だ。そう、こうしては居られない。早く探さなきゃ。

パソコンを閉じて、荷物をまとめ出すと遥介は更に眉を寄せて、俺の顔を覗き込んだ。

近っ、とも思ったが、…旧友の仲だ。今更飛び退く距離でもない。いつも爽やかなその顔が、今は妙に幼げに歪んでいる。

「…なに、」

「無理してないか?」

「いや、してないよ。」

「……何か、悩み事?」

「悩み事っていうか…」


なんと答えたらいいか分からずに、口を噤む。

…大体、その話を信じなかったのはお前の方じゃねーか、なんて言えるはずもなく。貰った缶コーヒーをグッと飲み干して、立ち上がる。

「じゃ、俺そろそろ…」

「…なぁ、上がったんならさ、今日呑み行こう?」

「ごめん、俺用事ある!」

「……。」

こうやって、遥介の誘いを断ったのも3回目になる。

ごめんな遥介、お前が悪いわけじゃないんだ。嫌いになったとか、そういうことでもなくて。

それよりもやるべきことがあるんだ。…やるべき、というか、やらなきゃいけない気がしてるんだ。


会社の人たちに挨拶をしながら、ビルを抜けて、電車に乗り込む。…この前あの化け猫に出会ったのは20:00頃だった。今はまだ、18:15。もし、また同じ時間にいるなら、間に合う。

あれから、化け猫について自宅で調べ、様々な情報を収集したが、…どれも、あの美しい光景とは似ても似つかないような絵画や逸話ばかりで。化け猫への理解は追いつけど、あの猫へ直結する情報は何も得られなかった。

決して上手いとは言えないが、自分の目で見たものを画用紙に描き起こしてみたりもした。違う、これでもない。俺が探してるのは、もっと、美しくて、妖しくて、…可憐な。


やっぱり、この目で確かめたい。

この手で、捕まえたい。

その目を、声を、自分に向けて欲しい。


俺は、自分がそんな激しい衝動を秘めていることを知らなかった。…今まで付き合った恋人とも、有名人への憧れとも違う。もっと潜在的な。

…愛だ、恋だ、と言うには過激な本能的欲求。


何も知らない相手なのに、何かを知っている気がする。

駅から出て、この前彼に出会った路地裏を覗く。

「…っ、いない、か。」

では、またその隣、逆側、その一つ奥の通り。

ここ毎日、仕事を定時にあがり、いるかも分からない化け猫を探している。

…彼に会えなくても、せめてなにか手がかりが…。

「…あの、これ。」

「え?」

ふと、話しかけられて振り返れば、そこには俺のハンカチを手に持ったバーテン服の男がいた。

自分と年はそう変わらなそうなのに、頭一つ分低い身長と、長い前髪に、眼鏡で隠された目元で表情はあまり読めない。

「あ、すんません、ありがとうございます。」

「いえ。」

ハンカチを受け取れば、彼は用は済んだと言わんばかりに俺に背を向けて、店の前の立て看板を立て始めた。…こんな所にバーなんてあっただろうか。

「…あの、君。」

「……僕ですか。」

「あー、そう。…あのさ、この店って前からあるっけ?」

「さぁ、…僕も最近働き始めたので。」

「そうだったんだ…」

「今度マスターに聞いておきますね。」

「え、あ、どうも。」

決して笑顔は見せずに淡々と帰ってくる返事。その風貌と接客でよくバーテンが出来るな、と思ったのはここだけの話。

…でももし、ここに前からいるんだとしたら、知っているかもしれない。

「ねぇ、名前聞いてもいい?」

「…は?」

「この店の。」

「……LUNAです。」

「ありがとう。…絶対また来ますから。」

「はぁ…それはどうぞ、ご勝手に。」

ぺこり、と頭を下げて店に戻ろうとした彼が、目の前を通り過ぎる。


ふわりと、金木犀の香り。


「っ、!」

思わず、その手首を引き止めた。

なぜだか分からない。分からないが、身体が勝手に動いた。…嗅いだことのある、気がした。

驚いて振り返ったその目に、衝撃が走る。

背筋に、電流が流れた気がした。

目の前の男も、ただの引き止められた驚きではなく、少しだけこちらを見て驚いた……気がする。

「…なん、です。」


眼鏡の奥で僅かに丸くした、黄金色の、瞳。

ちり、と音がした。


「っ、あの、どこかで会いませんでした、俺。」

「…さぁ、人違いじゃないですか。 」

見間違い、だろうか。

本当に?知らない振りをしている訳ではなく?

店の奥から、「裕くーん」と声がした。

目の前の男はハッとして、俺の手を振り払った。

「っ、すみません、僕もう戻らないと… 」

「ひろ、くん。」

「えっ?」

「裕くん。…また、来るから絶対。」

「………お好きにどうぞ。」

パタリ、としまった扉。未だ「準備中」の札。

確信は無いのに、たしかに分かる。


彼は、何かを知っている、気がする。

だって、あんなに綺麗な黄金色は他に見たことがない。


ゆるり、と家へ歩を進めるあいだも、じわじわと高揚していく身体。近づいた、少し、あの夜に。

明日だ。明日、あの店に行く。絶対だ。


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