夜明けの縁で

Una

第1話

自動ドアが開くと同時に冷たい空気が押し寄せてきて、私は思わず顔をしかめた。巻いているマフラーを口元にまで上げてポケットから手袋を取り出しながら、はあ、とため息が洩れる。映像編集のアルバイトが終わった後、そのままオフィスのパソコンで大学の課題レポートを進めていたら、つい熱中してしまって、うっかり終電を逃した。

 オフィスがあるのは、道玄坂の上の方。坂の下を見下ろすと、数日前に二度目の緊急事態宣言が発令された影響か、いつにもまして人が少なくなっていた。それでも、コンビニ前でたむろする若者や、ガールズバーのキャストがちらほらと見える。STAYHOMEが提唱される中でも、家に帰らない理由がみんなそれぞれにあるんだろうな。   

 ネオンがどこか寂しげに光る坂に背を向けて、私は246号線沿いを歩き始めた。

 渋谷から、住んでいるシェアハウスのある駒沢大学駅まで行くには田園都市線で3駅分。歩いても1時間ちょいで帰れる距離なので、一人で考え事をしたい日などはよく歩いていた。

 ポケットの携帯が震え、電話がかかってきた。シェアハウスで同じ部屋に住んでいるモエだ。

「もしもし?どうした?」

「もしもしまだ帰ってこないの?」

「終電逃したから歩いて帰る。」

「まじ?大丈夫?」

「全然大丈夫!」

「今日は先に寝てて」

「いいよ待ってるよ」

「ありがと」

「走ってこい」

「それは無理w」

「きをつけて!」

「うん」

「じゃあ、あとで!」

一通り会話が終わったので、じゃあ、と通話を切り、携帯を右のポケットに落とした。左のポケットから取り出した手袋をつけようとするが、かじかんだ指先がなかなか入らない。


 2か月前、アルバイトで働いていたつけ麺の店を急に解雇された。コロナ禍の経営不振で、アルバイトは全員切ることになったらしい。「申し訳ない」と、店長は深々と頭を下げたが、憤慨する人間はひとりもいなかった。

 コロナウイルスの流行が始まってから約半年が経つ。やれロックダウンだ、自粛だと日々生活が制限されていく中で、すっかりこの異常事態になれてしまっていた。どうにかしようともがくよりも、「仕方ない」と割り切ってしまうほうがはるかに楽だし、傷つかずに済む。そんな諦念が、そこにいた全員をうっすらとを包み込んでいた。

 すぐに私は次のアルバイト先を探し始めた。飲食店は、新しいスタッフを雇う余裕はないらしく、電話をしても軒並み断られた。何か、コロナの流行の影響を受けないような技術を身に着ける必要があると思った私は、求人サイトからとある映像編集のアルバイトに応募した。

 その会社は住んでいるシェアハウスから行きやすい渋谷にオフィスを構えており、私は通勤しやすいからちょうどいい、と、深く考えることもなく応募した。掲載されている時給がやけに高いのを多少不思議にも思ったが、学費の支払いと日々の生活費でぎりぎりまで切り詰めていた私にはそんなことを気にかける余裕もなかった。数回のメールのやり取りでとんとん拍子でことは進み、応募した数日後に面接に赴くと、あっさりと採用された。

 求人サイトや面接時には、業務内容は「配信サイトの映像編集」と説明されていたが、ふたを開けてみればアダルトビデオにモザイクを入れるというものだった。ほかにやれることもないので、そのまま流れで続けてみることにした。

 これまでそういうアダルトコンテンツにあまり触れてこなかった私にとって、ビデオの内容はあまりにも新鮮で、時に痛ましい映像に眉を顰めることも多かった。しかしその抵抗感も、ものの数日でなくなり、ただ黙々とこなしていく作業になんの感情も抱かなくなった。

 その編集室にいる誰もが、これといった感情を持たずにただ無心で、性器や顔にモザイクをかける作業に打ち込んでいた。

 時たまふと我に返り、画面の向こうの人間がどんな人生を送ってきたのだろうかと考えることがあった。どんな両親に育てられ、どんな学生生活を送り、どうしてこの業界に入ったのだろうか。その職業に貴賤や嫌悪感のような感情はまったくない。ただ、純粋に不思議に思った。

 自分がこれからの人生のどこかで、何かしらの選択によって、画面の向こう側に行く可能性はまだあるのだろうか。


 大学の授業は、今年度が始まってから完全オンラインで進められていた。ほかの生徒に会う機会がまったくなくなり、誰とも連絡を取っていない。1年生の時に、乗り遅れてはいけないと頑張って話しかけて作った友達が何人かいたはずなのに、すっかり親交がなくなってしまった。たまに画面越しに会うだけの同級生が、どんな生活をしているのかわからない。SNSでは友人同士で家に集まって一緒に勉強したり、ささやかなパーティーを開催している様子が流れてくるが、違う世界の出来事のように、私にはありえない話だった。ランチはおろか、課題の相談をする友達さえいない。

 このままずっとオンライン授業が続くのだろうか。就活はどうなるのか。学費や生活費の心配も常にあった。パンデミックの行く末が誰にもわからない中、相談先のない不安ばかりが募った。

 貯金残高を確認しながら、次の学費の納入日までの月数を指で数える日々。真っ暗な海沿いの堤防を一人で歩いているような不安が、いつもそばにあった。気を抜いたら、いつでも足を踏み外しかねない。


 こんなふうに、シフト終わりにオフィスに残って勉強していて終電を逃し、246号線を歩いて帰ることは、ままあった。「やっちゃった」と呟いてみるものの、わざとやってる節もあったのだと思う。

 私はこの時間が好きだった。歩いて帰るとき、私は決まって両耳にイヤホンをして、イルマのピアノアルバムを流した。数か月前に亡くなった母が、よく車の中で流していたアルバムだった。

 高架道路から街を見渡しながらゆっくりと歩いた。家やマンションの窓からこぼれる明かりのおかげで、遠くまでよく見渡せる。こんな遅い時間なのに、車がとめどなく走り去っていく。自分以外にもここで生活している人間がいるという感触が、私を落ち着かせた。

 この明かりのどこかで、顔も知らない誰かが自分と同じように彷徨っている。私よりももっと不幸な人が、恥ずかしい人が、きっと沢山いて、それでも笑って今日を生きている。

 東京の夜景に漂うそんな匿名の生活の気配が、私は好きなのだ。


「ゆうな!」

という声が聞こえたような気がして、イヤホンを耳から外して顔をあげた。向かい側から、とんでもない速度で自転車がはしってくる。白い息をまき散らしながら登場したのはモエだった。

「待ちきれなくて、来ちゃった」

いたずらっぽく笑い、ピースサインを突き出すモエの顔を見て、寒さで固まっていた私の顔の筋肉も緩む。モエは自転車を降りて、隣に並んで歩きはじめる。

「なんかあったん?」

と尋ねると、モエはしばらく考え込んでから

「うん」

と返事だけをした。

「言ってみ」

「ママから電話きてさ、お金貸してって」

「いくら?」

「10万。生活費が足りないって」

「微妙な額だね」

私もしばらく考え込んだ。

「断ったんだ」

「え?」

 思わず聞き返したのは、モエがこれまで幾度となく母親に「貸す」という名目でお金を渡して、家賃が払えなくなっていることを知っているから。

「断ったんだよ。ちゃんとできた。電話かかってきて、でも無理だって思ったから。もう自分が生きてけんくなると思ったから。そうでしょ。今断らなかったら、私は一生縋られ続けることになる・・・」

 モエは声を詰まらせた。実の母にNoを突きつけるのに、彼女の中でどれだけの葛藤があったのか、私には痛いほどにわかった。

「頑張ったね」

抱きしめてあげたい気持ちになった。

「頭ではわかってるんだけどね、お母さんのヘルプを突き返したんだって思ったら、すごく申し訳なくて、つらい気持ちになる。これでいいはずなのに、よかったのかって。小さい頃のどうでもいいちょっとした思い出とかさ、色々思い出して、何回も後悔してる。それ以上に許せないことがいっぱいあったはずなのに・・・」

 何も言えずに、モエの肩に手をかけて、体をよせた。親と子の結びつきは、自分で選び取ることができない。だからそれが捻れてしまった時は鎖となり、呪いとなり、お互いを縛り付けて動けなくさせていく。

 私たちがシェアハウスで共同生活をしてるのは所詮「家族ごっこ」にすぎない。みんなそれをわかった上でお互いのことを「東京家族」と呼ぶ。あだ名で呼び合っているから本名さえ知らない人だっている。それでもただの友達とは違う、特別な関係だと信じている。

 大丈夫だよ。私はそばにいるよと伝えたかった。でも自信がなかった。だからただ身体を寄せた。しばらく沈黙が続いた。

「私はもうママもパパもいないから気楽でいいわ」

何の気なしに呟くと、

「ほんとよくやってるよ」

面白くもないのに、ふふッと諦めるように笑って、モエは自転車を引き、私はモエの肩に左手をかけて、2人で前を向いて歩き続けた。


 「コンビニいかん?あったかいもん買いたい。」モエの提案に「いこ」と小さく頷いてから一本入った通りにあるコンビニに入った。夜道に目が慣れてしまってたから、ライトが眩しくて、目がジンジンする。ペットボトルに入った温かいお茶を手にとると、凍ったようにかじかんでいた指先が、溶けていく。さっと会計を済ませて、私は先に外に出た。

 遅れて出てきたモエは、おでんのカップを持っていた。

「食べ歩けないじゃん」

と小声で文句を言って、そばにあった小さな公園のベンチにすわった。

 公園からは、コンビニがよく見えた。緑、白、青のライトに縁どられたコンビニは、人通りもまばらな深夜の住宅街で異質なほどに明るかった。何かに似ている、と思った。周りの似合わない鮮やかな色。

 まるで、熱帯魚。

 そうか、と私は謎が解けた喜びでほっとため息をついた。夜のコンビニは、水槽に似ている。温度のない光の下には、ガラス張りの入れ物、その中で回遊し、すれ違う生き物たち。群れもいる。ペアも、親子もいる。おたがいのことを気に留めることはなく、どこを見ているともなく、動いている。


 中学に入って初めての夏休みが終わり、新学期が始まった日、1年3組の教室に熱帯魚の水槽が突然設置された。小さなネオンテトラが10匹ほどと、大きな体の黄色い熱帯魚が一匹、悠々と回遊していた。

「これはゴールデンハニードワーフグラミーといって、東南アジアに生息している熱帯魚だ」

担任のY先生は餌をパラパラと水面に撒きながら説明した。覚えにくい名前だ。『ゴールデンハニードワーフグラミー』。声には出さずに、口の中でつぶやく。

 ネオンテトラの、夕焼けを転写したような鮮やかなラインとは違い、ゴールデンハニードワーフグラミーの黄色はぼんやりとしていて、水の中で滲んでいるような心許なさだった。体が大きいせいでどうしても目立ってしまうのに、必死に存在感を消そうとしているようで、私はここの水槽に閉じ込められてしまった不運に同情した。

 クラスメイト達は、最初こそこの熱帯魚たちに餌をやったり眺めたりしていたものの、だんだんとその水槽の存在を気に留めなくなっていった。担任教師だけが、毎日欠かさずに餌をやっていた。

 あの時の私も、友達を作れなくていつも一人でいた。1学期の途中でアメリカから転校してきた私のことを、クラスメイト達は最初から穿った目で見ていた。小学校から一緒の学校に通っている彼らは、すでに関係性が構築されていた。その中に突然放り込まれた私は、テレビ番組、音楽、絵本、鬼ごっこや手遊び歌まで、通ってきた道が全く違った。話しかけるきっかけすら掴めなかった。

 さらに、「アメリカ出身」というのは鼻についたのだろうと思う。そのイメージだけで、「ビッチ」「ヤリマン」と身に覚えのない単語を囁かれた。覚えたばかりの悪口を自慢げに発した女子たちの顔を、私は今でも鮮明に思い出せる。訂正する気力もわかず、無視しつづけているうちに、悪口も噂話も薄まっていった。代わりに私は、教室の中で存在していないみたいになった。

 授業中はよく熱帯魚の水槽のほうを眺めていた。人口灯に照らされ、透き通った体を不規則にきらめかせるネオンテトラは、どれだけ見ていても飽きなかった。その傍らで、ゴールデンハニードワーフグラミーはいつも居心地悪そうにふらふらと漂っていた。

 英語の先生が教科書の文章をゆっくりと読み、生徒がそれを繰り返す。私は教科書の上に腕を置いて頬杖をついたまま、水槽を眺めながら聞こえてくる言葉を呟くように繰り返していた。

 急にクラスメイトの視線が自分に向いたのを感じて前を向くと、先生が「早く立て」と促した。22日だから、名簿順22番の私が指名された。

 私は英語の授業が一番嫌いだった。朗読の時、普通に読むと「生意気だ」といわれ、わざと下手に読むと「馬鹿にしている」といわれた。逃げ道がなかった。クラスメイトの視線に焼き尽くされそうになりながら立ち上がると、心臓の鼓動がどんどん速くなり、視界がゆがんでいく。

「すみません、教科書忘れたので読めません」

消え入るような声で呟いて席に座った。「チッ」と誰かが舌打ちする音が聞こえた。

 教室にいると、少しずつ酸素濃度が薄くなっていくみたいに、苦しかった。


 二学期最後の日、部活が終わって着替えていると、体育館シューズを教室に置いたままだと気が付いた。急いで荷物をまとめ、文化部が校舎から出てくるのに逆流して渡り廊下を走った。昇降口に荷物を置いて階段を二つ飛ばしで駆け上がり、息を切らして3階の教室にたどり着いた。

 日が落ちかけて薄暗くなった教室の中で、水槽の人工灯だけが煌々としていた。私は教室の後ろにあるロッカーから体育館シューズを取り出し、そのまま吸い寄せられるように窓際に歩いた。

 水槽の中がやけに寂しいと思ったら、ゴールデンハニードワーフグラミーが、水槽の底に沈んでいた。ネオンテトラたちは、気に留める様子もなく少し広くなった水槽の中を泳ぎ続けている。

 水底の大きなひれが人工灯に照らされて、金色の麦畑に風がそよいでいるように美しく揺れていた。昼間の明るい教室では分からなかった。おまえ、こんなに綺麗だったのか。涙が出そうだった。

 窓からは街一帯が見渡せた。家々の明かりがまばらに灯り、車のライトが動いたり消えたりしている様子が、真っ赤なラインをきらめかせながら泳ぐネオンテトラみたいだと思った。私は、引っ越してきてから一度も、この街のことを好きだと思ったことはなかった。


 冬休みが終わって学校へ行くと、熱帯魚の水槽はなくなっていた。みんな、死んだかどこかに流したのだろうと特に騒ぎ立てることもなかった。1週間もしないうちに、そこに水槽があったことさえ忘れられていた。水底に横たわった、ゴールデンハニードワーフグラミーの美しい死体。あの教室で息苦しさを感じるたびに、思い出していた。


 モエが、おでんの大根にかじりついている。

「あっつ」

ほくほくと口の中に冷気を取り込みながら、大根を噛み、飲み込んでいる横顔は子供っぽい。年齢でいうとモエは私の一つ上だが、シェアハウスの空気感のおかげか、初めからさん付けも敬語もなく、ほとんど姉妹みたいな関係になった。

「来てくれてありがと」

「いいよ。暇だったし。会いたかったし」

「毎日会ってるじゃん」

「でも『今会いたい!』ってとき、あるじゃん?」

「あるね」

「そういうことよ」

ふうん、と公園に面した環線道路に目線を移しながら、また一口、お茶を口に含んだ。

「いる?一口」

モエは小さく切り分けた大根を割りばしでつまんで差し出してきた。ありがと、と呟いて口を開けると、モエは「餌付け」とつぶやきながら半透明のかけらを私の口の中に放り込む。口の中に、おでんの汁の旨みがじんわり広がった。

 私は閉じたペットボトルキャップをもう一度開けて

「いる?一口」

とモエに差し出した。

「いるか!」

ふふっと笑った時に出たモエの白い息が、夜の公園に広がり、なじんで、消えていく。


 私たちは、そのまま何時間もベンチに座って話した。246号線を走り去る何台ものトラック、酔っぱらって千鳥足で歩くサラリーマン、体温を分け与えようとしているようにぴったりと寄り添って歩くカップル、どこへともなくよたよたと歩いていくおじいさん・・・いろんな人間がそれぞれの物語を抱えて、通り過ぎていった。  


 透き通るほど真っ黒だった空の色が少しずつ濁り始め、街灯の明かりが曖昧になっていく。夜明けをこんなにも寂しいと思ったことはなかった。同時に、この夜明けの縁でさまよう人びとのことを、このうえなく愛おしいと思った。

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