千早:あの日の回想

 私が「成人の儀」に臨んだのは、もう二十年も前のことになる。あの日、私は村の真の掟を初めて知り、運命が大きく狂ってしまった。


 その日の村長の家の中は、冷たく湿った空気が漂い、何か重苦しいものがその場を支配していた。村長の吾妻茂あがつましげるが厳しい表情で私の前に立ち、その背後には鋭い矛を構えた青年団員たちが控えていた。そしてもう一人――伝承守でんしょうもり岩津いわつタマエも、その場に居た。彼女は60歳を超えてなお、鋭い眼差しで私を見つめ、その瞳には多くを悟った者だけが持つ深い光が宿っていた。


 村長は低く、重々しい声で告げた。「圭吾けいご、おめは今日から大人だ。村の掟を知り、それに従う覚悟を持たねばなんねぇ」


 私は緊張でこわばる体を抑えつつ、その言葉に耳を傾けた。掟――それは、この村の歴史と秩序を守るために必要なものだと、幼い頃から教えられてきた。だが、その掟がどれほど恐ろしいものなのか、私はこの瞬間まで知らなかった。


「この村を守る、俺たちを守る掟はひとつ。男児を産んだ女は、清めねばなんねぇ」


 村長がそう告げた瞬間、全身が凍りついた。「清める」という言葉の意味は、察しがついた。それは、「殺す」ということだった。想像していた掟とは全く違う残酷な掟に言葉を失う。


 遡ってみるとたしかに男児たちの母親はみないなかった。もちろん私も例外ではない。母親がいないことに疑問を持つこともあったが、聞いても答えない父親たちと母親のように接する村の女性たちに育てられ、すぐにそれが日常となっていた。知る由がないことは平凡さに塗りつぶされて当たり前となっていた。


「なして……そんなことを?」私は震える声で問いかけた。


 村長は淡々と、しかし重々しく答えた。「男児を産んだ女は、村に災いをもたらす。清めねばその災いは村全体に及ぶ。母親を清めることが、村を守る唯一の方法なんだ」


 私は混乱し、反発心を抑えられなかった。人を殺すことが正しいなどという理屈は、到底受け入れられるものではなかった。ましてやそこに正統さを装うロジックすらなかった。


 「そんなこと、間違ってる!他に方法があるはずだ!」私は拳を握り締め、声を荒げた。


 その時、背後からタマエが一歩前に出てきた。彼女の声は低く、しかし村の長い歴史を語るように深く響いた。


 「おめぇはまだ若ぇ。だども、村の掟は変わんねぇ……『村が沈まるときゃ、女隠さねばなんねぇ』……」


今まで伝承守がつぶやいてきた言葉の意味がわかった。目隠しではなく、女隠しだったのだ。


「昔、この地域は沈谷しんたにって呼ばれてただど。大雨で川が決壊すっと村は沈んじまってそんたびにやまほど死んだ。そんで決まったんだど。男児を産んで役目を終えた女を隠し、森さ返さねばならんと。それで転じてこの村は深谷しんたに村となったんだど」


 タマエの言葉は、頭に不快な音として響いた。村が洪水で沈んだ……その伝承が、今もなお続くこの歪な掟に繋がっているというのだ。女を「清める」ことが、この村を洪水から守り、秩序を守り続けているとされてきた。


「清めねぇと、また村が災いに飲み込まれる。それが村の歴史だど」とタマエは言い切った。


 その言葉に背筋が寒くなった。どうしても納得できない。私は掟に抗おうと決意し、拳を強く握り締めた。しかし、その瞬間、村長の後ろに控えていた青年団の者たちが一斉に矛を向け、私を取り囲んだ。


 「お前が掟に背ぐなら……お前も清めねばなんねぇ」と村長が冷たく告げた。


 鋭い矛の先が私を取り囲み、命を奪う覚悟が彼らにあることがひしひしと伝わってくる。なぜ、彼らはこんな掟に従うのだろうか。こんなのは馬鹿げている。たとえ閉鎖的な村に住んでいたとしたって、こんな不合理をそう易々と受け入れるはずがない。しかし奇妙なことに、この場では私以外の全ての人が、掟に忠実に従おうとしている。本当に殺される。私の心は、抵抗する力を失った。抗えば命を失う――死ぬか、従うか、二つに一つの選択肢しか残されていなかった。


ーーそうか。皆がこうやって古くから伝わる歪んだ鎖の一欠片となっていくのだ。強要された掟を守って汚れた手を隠し続けるには、次の世代の手も汚してあげなければならないと言うことだ。


 「……わがった。掟に従う」と、私は低く呟いた。項垂れて、全身の力が抜けた。その瞬間、自分の中で何かが壊れたんだ。私は掟の奴隷となったのだ。



 その夜、「清めの儀式」が行われた。私は、男児を産んだ母親を捕まえて禁足地まで連れて行った。布を被され拘束された彼女は最初は「私はどこへ連れて行くつもりだ」と怒ったが、音で周りに大勢の男がいることを察したのか、恐怖で体を震えさせながら命乞いをした。それを払いのけて襟首を掴み、引き摺り出した。彼女の夫も一部始終を見ていた。立ち尽くし、ただ黙ってそれを見ていた。彼もまた掟の奴隷だった。


 彼女を禁足地まで連れて行くと、獣装束に身を包んだ当時のメカクシ様が現れ、彼女を乱暴に連れて行った。そこからしばらくして戻ってきたメカクシ様は、返り血を浴びた恐ろしい姿だった。青年団長といくつか言葉を交わすと、また禁足地の奥へと帰っていった。おそらく禁足地の奥で殺害したのだろう。これが、私の新しい掟の奴隷としての始まりだった。私はただ、自分が死なないために必要なことだと言い聞かせていた。


 振り返れば、私はただ、殺人の連鎖に巻き込まれただけだった。誰もが死を恐れ、他者を殺すことで自らの命を繋ぐ。その罪を隠し、また次の者に殺人を強いる。そうやって村は秩序を保たれ続けてきた。螺旋のように悪意は積もり、誰も逃れられなくなったのがこの村だった。


 やがて私は青年団長に昇進し、掟を忠実に守る存在となった。従順であることが、村で生き残る唯一の方法だった。


 だが、そんな私にも愛する人ができた。美咲みさきだ。彼女は私にとって唯一の希望だった。しかし、その希望もまたすぐに絶望へと変わった。彼女が男児を出産してしまったのだ。事前の検査では女児だと聞いていたが、生まれてみて初めて男児だと判明した。お腹の中にいるときから「本当の意味で清く美しく生きてほしい」という意味を込めて清美と名付けていた。


 掟に従えば、美咲は清められなければならない。だが私は、彼女を自分の手で殺すことなどできなかった。私は必死に生き残る方法を考え、ついに一つの決断を下した。先代のメカクシ様を殺し、自分がメカクシ様となる。そして、美咲を「清める」振りをして禁足地に匿うことにした。


 禁足地は誰も近づかない恐怖の場所だった。そこに美咲を匿い、メカクシ様として振る舞うことで、私は彼女を守ることができると考えた。


 メカクシ様としてその役割を果たし続ける中で、メカクシ様の伝承の意味を理解するようになった。仮面をつけさせ、人々に目を伏せさせる理由――それは、降臨の際に獲物を見つけやすくするための合理的な行動だった。自宅に籠もり、発光する仮面を付けた獲物はすぐに見つけられた。誰もが目を伏せているうちに殺して禁足地まで引きずり込むのは容易なことだった。


 掟に従ってきた私が、今はその掟を破る者となっている。それでも、他に選択肢はなかった。愛する美咲を守り、そして生まれてきた我が子を守るため、私はメカクシ様として生きるしかなかったのだ。


そして、それはこれからも、だ。

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