瀬文:悲鳴そして禁足地へ

 瀬文純せぶみじゅんは、千早清美ちはやきよみの家の中で膨れ上がる緊張感を感じていた。空が急に暗くなり、風が吹き荒れた。雲が一気に低く垂れ込め、辺りの空気は一瞬で重苦しく変わっていく。冷たい雨の匂いが漂い始め、まるで大地そのものが息を詰めているかのようだった。霧もますます濃くなり、まるで世界そのものがこの村から切り離されたかのようだった。


「……そろそろだろうか」瀬文はそう呟いた。


「外……何も見えませんね」白崎奈緒しらさきなおが、少し震える声で答えた。


 外はほとんど見通せない。霧は重たく、まるで白い藻のようにあたりを覆い尽くしている。その霧の奥から、古い扉の錆びた蝶番がきしむような重々しい音が微かに聞こえ始めた。


「……この音、なんだろう?」瀬文が静かに言った。


「まさか、メカクシ様……?」白崎が不安そうに瀬文を見上げる。


 重々しい音が徐々に近づいてくる。瀬文は冷静を装いながらも、心臓は早鐘をあっていた。心の奥で確実に何かが迫っていることを感じていた。メカクシ様――その名が頭に響き、恐怖がじわじわと体中に染み込んでくる。


「もうすぐ来る……」清美が震える声で呟いた。


 その時、突然、外で鈴の音が鳴り響いた。澄んだ音色が闇を引き裂くかのように村全体に響き渡る。きしむような重々しい音は次第に大きくなっていた。


「瀬文さん……これ、やばいです。何か本当に来てますよ……」白崎が焦ったように言う。


「おい、仮面をつけろ」瀬文は即座に判断し、仮面を取り出した。


 村長から渡された古びた木彫りの仮面。あの時、村長はメカクシ様が降りてくる時、仮面をつけて目を伏せろと言っていた。瀬文はそれを手に取り、その不気味な装飾を改めてじっと見つめる。古びた木の質感が手に伝わり、彫刻された複雑な模様は赤い塗料で彩られていた。……これは蛍光塗料か?どこか禍々しさすら感じさせる。


 清美と白崎がつけたことを確認して、自分の顔にも仮面を被った。


 仮面をつけると、視界が遮られる。外から聞こえてくる音はますます大きくなっていた。じゃらり……じゃらり……と古びた鎖が地面を削るような重々しい音。窓の外では、さらに鈴の音が鳴り響いている。


 その時、玄関の外から、かすれた声が聞こえた。


「始まるでば……」


 岩津いわつタマエの声だった。彼女が外から、何か古い東北訛りの言葉で呪文のようなものを唱えている。タマエの言葉が一言一言、鈴の音にかき消されながらも、家の中まで届いていた。


「こいつはどこに向かっているのか?」瀬文は心の中で問いかけるが、答えはなく、ただ重く響く音が近づいてくる。未知の存在に対する畏怖が、彼の中で渦巻いていた。


「メカクシ様が来る……」清美が、再び震えながら呟いた。


 その瞬間、外で何か巨大なものが、地面を踏み鳴らしたような音がした。まるで大地そのものが震えたかのような衝撃が家全体を包み、空気が凍りつく。瀬文は仮面越しに息を潜め、静かにその音を聞いていた。


「外に出るな……何があっても目を開けるな」瀬文はそう言い聞かせ、固く仮面を押さえつけた。


 メカクシ様が降臨した――その言葉が、恐ろしい現実となって目の前に迫っている。不安が胸をよぎる。しかし、その静けさを破ったのは、どこからか突然聞こえてきた女性の悲鳴だった。


「……今の、誰だ?」瀬文が立ち上がり、警戒しながら耳を澄ませる。


「誰か、叫んでたよね?」白崎が不安げに顔を曇らせた。


 瀬文はメカクシ様の気配がなくなったことを判断してから、家の外に出た。「とにかく行くしかない」


 白崎と清美も咄嗟のことで動転しながらも、急いで声の聞こえた方向へ駆けつけた。霧の中を進んでいると雨がぽつりと顔に落ちた。次の瞬間、まるで天が裂けたかのような土砂降りが襲ってきた。冷たい雨と風が一層冷え込んだ空気を強調し、視界はほとんど失われていく。


 それでも視界の悪い中進んでいくと、先ほどの広場付近に到達した。そこには、金子真希かねこまきが、砕け散ったカメラを前に、頭から血を流しずぶ濡れになりながら立ち尽くしていた。


「大丈夫か?」瀬文が駆け寄ると、真希が振り返り、泣きじゃくりながら答えた。


「ハルが……ハルが連れて行かれたの……! メカクシ様に……!」


「……何?」瀬文は驚きながらも冷静さを保とうと努めた。


 真希は混乱した様子で、涙を拭きながら説明する。「ハルと一緒に広場で撮影してたんだけど、突然あの音が聞こえて……そしたら私はいきなり突き飛ばされちゃって……。気がついたらハルが、どこかに連れて行かれてたの! 私、どうしたらいいかわからなくて……!」


 瀬文は眉をひそめた。確かにタマエが警告していた。メカクシ様が来ると――だが、それが実際に誰かを連れて行くとは信じ難い。


「タマエなら何か知ってるかもしれない。何が起こったのかを」清美が言った。


 瀬文たちと真希はタマエの家を目指した。道中は皆無言で、それぞれが押し黙って恐怖に耐えているようだった。瀬文だけは思案顔で歩いている。雨足はさらに強くなり、記録的豪雨の様相を強めていた。瀬文たちは体が重く感じるほどに雨に打たれていた。


 タマエは村の伝承を守る老婆。彼女ならば、この状況に対する答えを持っているかもしれない。


 家に辿り着くと、タマエは静かに座っていた。彼女に状況を説明すると、彼女はただ首を振った。


「むりだ。あの者は、メカクシ様の領域、禁足地に入った。もう戻ることはねぇ……」


「禁足地?」白崎は初めて聞いた単語に疑問符を浮かべる。


「この村さは禁足地っつう場所があんだど。そこさメカクシ様が棲んでおられるんだ。あの小高ぇ森だ。あそこさ一度入っちまえば、もう二度と誰も出てこれねぇ」タマエは細く節くれだった指で村はずれの山の中腹にある森を指さした。


「それじゃ困るんだよ! 何か方法があるはずでしょ! ハルを取り戻さなきゃ!」真希は半ば泣き叫びながらタマエに詰め寄るが、タマエはただ淡々と答える。


「お前にはわからんじゃろうが……メカクシ様に連れてかれた者は、二度と戻らねぇんじゃ。掟じゃ」


 その言葉に、真希は限界を迎えたかのように震えながら外へ飛び出して行く。


「おい、待て!」瀬文が追いかけようとするが、するりと腕を抜け、そのまま走り去ってしまう。白崎と清美はただ呆然と見ていた。


「あいつ……どこに行ったんだ?」瀬文は冷静に周囲を見渡す。


「きっと……禁足地に向かったんじゃないかと思う」清美が震える声で言う。


「禁足地か……」瀬文は口元を引き締め、覚悟を決めた。「俺も行く」


「やめとけ……」タマエは重々しい声で忠告した。「入った者は、みんな死ぬ。それが掟なんじゃ。お前らも戻れ。無駄なことはやめとけ」


「それでも行く。俺は、彼らを見捨てられない」瀬文は決然と答えた。


 タマエは深い溜息をつきながら、悲しげな表情を見せる。「ほんに馬鹿じゃ……」


 その時、白崎が怯えた表情で瀬文に話しかけた。「でも……瀬文さん、本当に行くの? あんなやつら、放っておいても……」


「いいんだ。白崎はここで待っていろ。清美を頼む」瀬文は冷静に指示を出した。目には覚悟の色があった。


「でも……」白崎は躊躇したが、瀬文の目を見て、口を閉じた。


「清美を守ってくれ」瀬文が強く言うと、白崎は小さく頷いた。


 瀬文は再び外に向かい、タマエの家を後にした。禁足地――その先には、どんな危険が待っているのか。彼らを救い出すためには進むしかないと、瀬文は心に決めた。

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