瀬文:Prologue ―発端―


 瀬文純せぶみじゅんは、アイラモルトを手に、薄暗い店内をぼんやりと見回していた。


 都市伝説バー「フォークロア」。その名の通り、この店は都市伝説をテーマにしたコンセプトバーだが、入ってくる客はほとんどいない。ヴァンパイアの蝋人形がカウンターの隅に佇み、河童の剥製は埃をかぶっている。さらにモスマンの等身大フィギュアが入り口付近に無造作に置かれ、まるで倉庫のような雑然とした空間だ。


 瀬文はこの店の閑古鳥の鳴きようが気に入っており、仕事終わりに通い詰めている。


「瀬文くんはいつも顔出してくれるね」


 バーテンダーの五十嵐義京いがらしぎきょうが、愛想笑いを浮かべながら言った。彼は四十代半ば、安物のサングラスをかけ、派手なアロハシャツという場違いな格好をしている。どう見てもバーテンダーというより、どこかのリゾートのカジノで大損して、そのまま逃げてきた観光客にしか見えない。


「ここの雰囲気が好きなんだろ?」


 五十嵐はからかうようにグラスを拭きながら言うが、瀬文はそれを無視してスマホをいじっていた。先ほど受信したメールに目を通す。差出人の名前は「千早清美ちはやきよみ」。内容は簡潔だった。


『両親を探してほしい。深谷しんたに村にて待つ』


 短い依頼メール。それだけでは何の情報もない。だが、その中に含まれていた村の名前を検索しようとコピーしながら、何気なくつぶやく。


「深谷村か……」


 口に出したその瞬間、五十嵐が反応した。


「お、今なんて言った?」


 五十嵐は急に顔を上げ、サングラス越しに瀬文を見つめた。瀬文はその視線に少し驚きながらも、再度答えた。


「深谷村。東北地方の山間部にある小さな村らしい。聞いたことあるか?」


「深谷村ってのは、あれだ。『メカクシ様』の話があるところだね」


 五十嵐は腕を組み、何か思い出すように天井を見上げた。瀬文はその言葉に耳を傾けた。都市伝説バーのバーテンダーが、そういう話に詳しいのは驚くことでもない。


「メカクシ様?」


「そう。あの村には変な掟があってさ、『メカクシ様』って呼ばれる神聖な獣がいるんだよ。その獣が村に降りるとき、村人は自宅に籠もり、仮面をつけて目を伏せなきゃならない。見てしまった哀れな村民は、災厄に巻き込まれるって話だ」


「神聖な獣とは。また珍しい話もあるもんだな」


「これが意外とインターネットで検索しても出てこないんだよ。俺はたまたま大学で研究員をやってた頃に聞いたんだが」


 五十嵐の経歴は話半分に聞き流しつつ、その伝承について思いを巡らす。


「それって今もやってるのか?」


「どうだろうな。ただ、俺が15年前に聞いたときは、実際に掟を守っていると聞いたよ」


 五十嵐の言葉は冗談めいていたが、瀬文はその内容に引き込まれていた。村の掟、メカクシ様、そして依頼の主である千早清美。すべてが繋がっているように思えた。


「で、その村の依頼、受けるのか?」


 五十嵐がグラスをカウンターに置きながら聞く。瀬文は少し考え込んだ。怪しげな村の話には魅力を感じるが、過去の失敗が頭をよぎる。自分は事実を暴くだけで、誰も救えなかった――そんな記憶が、いつも足を引っ張っていた。


「そもそもこいつが誰なのかも知らないんだぞ……」


 瀬文が口にするのと同時に、スマホが振動した。画面には「編集長」の名前が表示されている。今、何時だと思っているんだ。彼はため息をつき、通話ボタンを押した。


「もしもし」


 電話の向こうからは、編集長のいつものぶっきらぼうな声が響いた。この人は勤務時間という概念から解き放たれて、常に編集部にいる頭のおかしい人間だ。


「瀬文、お前、今暇だろ?」


「暇ではないですが。割に合う仕事があるんですか?」


「新人のカメラマンのお目付け役になってほしい。今風に言うとOJTだ。おん・じょぶ・とれーにんぐ」


 編集長はなれない英単語を8歳児のごとくゆっくりと区切って言った。瀬文は少し驚いた。お目付け役? それは彼が一番苦手とする役割だ。自分自身も下っ端の記者として動いているのに、他人の面倒を見るなんて柄じゃない。


「新人のお目付け役? おいおい、なんで俺が……」


「信頼してるからだよ。新人にはちょっと手を焼いていてな、お前ならしっかりやれるだろう」


 編集長は続けて言った。


「それに来月も給料はもらいたいだろ?」


 今のコンプライアンス重視の社会で言ってはいけない言葉だろうが、編集長は平気でそう言い放った。そして彼がこういうことを言うときは、本気でそうすることを瀬文は知っていた。


「参りました……受けますよ」


「ありがとう! 今日は朝からいろんなやつに忙しいって断られ続けてさ。やっとだよ。本当に助かる」


 電話口から編集長の明るい声が聞こえる。信頼しているからとは何だったのか。


「じゃあ明日、顔合わせだな。そのまま取材に連れてってやってくれ」


「承知しました」


 電話を切ると、五十嵐がニヤリと笑って瀬文のモノマネをした。


「新人のお目付け役?」


 大きく肩をすくめ、眉は困り眉を超え合掌造りのようだ。瀬文はそんな顔していないと思いつつ、不機嫌な顔でアイラモルトを口に運ぶ。


「出世しましたね。新人指導、よろしくお願いします」


 五十嵐はふざけて敬礼しながら言った。


「はいはい……とはいえ取材のネタもないんだよな……」


「深谷村、取材に行ってみたら? 僕はその記事読みたいなー。それに瀬文くんが気にしてる清美ちゃんからも話を聞けるんじゃない?」


 五十嵐は見透かしたようにそう言った。確かに、瀬文は先程からメールのことが気になっていた。助けを求める人間に手を差し伸べるべきか、逡巡していた。しかし悩んでいても仕方ない。彼はメールの返信を打ち込む。


『こちら瀬文純。添木企画で記者をやっている。探偵ではない。宛先間違いではないか? もし宛先間違いなら、返信は不要だ。もし私に両親を探してほしいのならば、君のことを教えてほしい。君がどこの誰で、なぜ両親を探しているのか』


 文面をよく推敲もせずに送り返す。これでもし反応があれば考えよう。


「しかし、瀬文くんはいつから記者から探偵に鞍替えしたんだい?」


「していない。昔の記事が嫌に拡散されてから、なぜかこういう類の話が来るようになったんだ」


 五十嵐の軽口をいなしながら、二杯目のアイラモルトに口をつける。しばらく酒の味を楽しんでいると、メールの受信を告げる通知が鳴った。清美からの返信だった。


『中学2年生。両親は生まれたときからいない。でも生きているはず。この村はおかしい。助けて瀬文さん』


 メールの文面を読んだ瀬文の顔を見て、五十嵐はワクワクした表情で言った。


「決まったようだね。あの村、面白いネタがたっぷりだろう」


 瀬文はグラスを一気に飲み干し、席を立った。


「行ってみないとわからないが……何かあるのは間違いなさそうだ」


 五十嵐は軽く肩をすくめ、冗談交じりに言った。


「おい、メカクシ様には気をつけなよ」


 瀬文はそれを聞き流し、店を出た。


 外に出ると、冷たい風が頬を撫で、霧のような薄曇りが街を覆っている。霧――あの村でも、似たような景色が待っているのだろうか。


 瀬文は、胸の中で芽生え始めた不安と興味を振り払うように、ゆっくりと歩き始めた。

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