メカクシ様が棲まう村

佐倉遼

片桐:メカクシ様がお降りになる夜

 霧が濃くなり始めたのは、午後九時を少し過ぎた頃だった。


 片桐拓哉かたぎりたくやは、村の広場を見下ろす位置に立ち、ゆっくりと深呼吸を繰り返していた。真夏だというのに空気はひんやりとしており、霧がじわじわと肌に張り付くように重くなっていく。


「……もうすぐか」


 彼は小さく呟き、青年団の準備が整ったかを確認するために周囲を見渡した。村全体が、いつもより静かだ。村人たちは掟に従い、仮面をつけて家に閉じこもっている。伝承守でんしょうもり岩津いわつタマエからの合図が届いたのは、ちょうど1時間前。タマエは広場の中央に立ち、青年団員に短く命令を出して準備を進めさせていた。


『村が静まるときゃ、目隠さねばなんねぇ』


 その言葉が響いた瞬間、村の空気が変わった。誰もが無言で動き出し、仮面の準備を進めている。拓哉もその中にいたが、心のどこかでいつもとは違う緊張を感じていた。


「見てはいけない」


 それが村の掟だ。何度も耳にしてきた言葉だ。村の者は、決して「メカクシ様」を目にしてはならない。見た者は、災厄に巻き込まれるとされている。村の老人たちや、村長の吾妻茂あがつましげるも、いつもそう教えてきた。村の秩序を保つための絶対的な掟だ。


「メカクシ様が降りるとき、誰もその姿を見てはならない。目を伏せ、ただ静かに祈れ」


 拓哉も理解しているつもりだった。だが――


「自分は本当に正しいことをしているのだろうか?」


 自分は目を逸らしているだけかもしれない。タマエも、村長の吾妻も、掟を絶対視している。だが、外の世界を知る拓哉には、それがひどく歪んだ因習に感じられてならない。この手で遂行してきた数々の任務も一つとして正しいものとは思えなかった。


「拓哉さん、準備、完了しました」


 近くにいた青年団員の声が耳に入る。木内陵介きうちりょうすけだ。霧の中を見つめて頷いた。


「君も速やかに家に帰りなさい」


 村の広場に漂う霧は、徐々に濃くなり、まるで何かが生まれ出る前のような静けさを纏っていた。


 青年団員たちが各々の家に籠もり、タマエと拓哉の二人だけが広場に残った。静けさが戻り、タマエが仮面をつける音だけが微かに響く。彼は村全体を見渡し、深く息を吸い込んだ。


「……始まるでば」


 その声が響いた瞬間、拓哉は仮面に手を伸ばした。だが、手はそのまま止まってしまった。見たい――いや、見なければならない。この降臨で一体何が行われるのかを。掟の名の下に何が起きているのかを。


 そして――その瞬間だった。


 どこからか、重い足音が聞こえた。近づいてくる、重く、鈍い音だ。霧の中に何かが動いている。それが「メカクシ様」だ。


「見てはならない……か」


 霧の向こう、遠くで確かに動く影が見えた。ゆっくりと、重く、そして不気味に。足音が広場全体に響き渡り、まごうことなき静寂が支配する。


 拓哉は目を背けることができなかった。心臓が激しく鼓動する。まるでそれに引き寄せられるように、視線を釘付けにされていた。


「これが……メカクシ様なのか」


 その瞬間、拓哉の体中に冷たい汗が流れる。足音は次第に近づき、霧の中にぼんやりと浮かび上がる影は、確かに「それ」であることを示していた。


「見てはいけない」――それが村の掟だ。拓哉は理解していた。しかし、彼はもう目を背けることはできなかった。一度湧いた疑念にはいつか決着をつけないといけないと感じていた。そして見てはいけないはずのものを、見てしまった。


 そして、その「何か」はゆっくりと、拓哉のすぐ近くまで近づいてくる。周囲からは、誰かが祈りの声を上げるかすかな音が聞こえたが、拓哉にはそれが遠くかすれて聞こえるだけだった。


 足音が、止まった。


 拓哉のすぐ目の前で――。

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