誰かの凪のあと

如月トニー

第1話

 あの女の子が今どこで何をしているのか、誰かご存知の方はおりませんでしょうか? 名前は美しい祈り、と書いて美祈みき。今頃はもう、小学校六年生になっているはずです。しかし残念な事に、それ以上の手がかりは何ひとつとしてありません。人探しをしているのに、たったそれだけしか手がかりがないだなんて、なんと馬鹿げた話だと思われる事でしょう。でも、本当に、たったそれだけしか手かがりがないのです。

 美祈と名づけたのは私の祖父でした。その祖父が先日、亡くなりました。亡くなる間際、祖父はしきりに美祈の事を気にかけていたのです。「美祈を引き取ってやれなかった事だけが心残りだ」、と。

 …そう、亡くなった祖父のためにも、私は美祈を探し出してあげたいのです。そして祖父の死を伝えたいのです。私には、祖父と美祈が無関係だった、とは、どうしても思えないのです。

 あの日あの時、私は凪いだ夜の海で、それはそれはとても不思議な出来事を体験しました。そして何より、その出来事についてお話しするのは、美祈の置かれた状況を正しく理解してもらうためにも避けては通れない事なのでした。ところが美祈を保護した私たちの元へとやってきた警察の人たちは皆、いちように、やれ「子どもの馬鹿げた妄想だ」とか、「まだ寝ぼけていて夢に見た事を現実だと思い込んでいるのだろう」とか言って嗤うばかりで、全く信じてはくれなかったのです。両親ですら信じてはくれませんでした。信じてくれたのは祖父だけだったのです。だからこそ、なんとしてでもあの美祈という少女の事を探し出し、そして祖父の死を伝えなければならない義務が私にはあると思っているのです。だからどうかお願いです、少しでも心当たりのある方が居たら、何でも構いません、どうか教えて頂きたいのです。



 あれは十二年前の事でした。

 夏休みになり、大好きだった祖父の家に泊まりに行った時、私は件の不思議な体験をしたのです。

 私の祖父は漁師をしていました。それも昔ながらの漁師で、一人で小さな船に乗り、沖の方で鮪や鰹を釣るというやり方をする人物でした。私はそんな祖父が大好きで、毎年、夏になるたび、海沿いで一人暮らしをしている祖父の家に遊びに行く事を何よりの楽しみにしていました。

 それはたいへん静かな夜の事でした。急に凪いだ海を見たくなった私は、寝静まっている祖父を起こさぬよう、静かに家を抜け出しました。歯を磨いた後なので、本当はいけない事だと分かってはいたのですが、誘惑に負けて飴玉を口の中に入れてから、砂浜へと駆けて行きました。祖父の家と砂浜は、徒歩で数分の距離でした。凪いだ海には大きな白い月が浮かんでいました。

 暗く静かな海岸に着くと、砂浜の上に、お腹の大きな女性が一人、横たわっていました。まさか、と思いながら近づいてみると、私が予知したとおり、なんとその女性は妊婦だったのです。私はすぐ近くまで駆け寄り、

「大丈夫ですか?」

 と話しかけてみました。まだ幼かった私にも、その息の荒い女性が出産直前の危険な状態である事は女の本能で理解できていました。

「すぐに救急車を呼びます。待ってて下さい」

 その女性にハッキリと聞こえるよう、耳元で大きな声を出しました。するとその女性は私の手を掴み、思いのほかしっかりとした口調でこう言ったのです。

「救急車に来てもらっても駄目なんです。それよりもお嬢さんにお願いがあります。その前に確かめたいのですが、泳ぐ事はできますか?」

 なぜそんな事を聞くのか、理由はまるで見当つきませんでしたが、ともあれ私は質問されたとおり、「泳げます」と答えました。スイミングスクールに通っていたので、泳ぐ事には強い自信を持っていました。夏に学校で行われる水泳の授業なんて、スイミングスクールでの練習に比べたら全然ぬるいと思っていましたし、同じ歳ごろの男子たちよりも速く泳げる事を何よりの自慢に思ってもいました。

「沖の方に小さな島があるのはご存知ですよね?」

「島?」

 そんな島なんてなかったはず。…そう思いながらも妊婦が指差す方向を見やると、なんとそれまで海面に浮かんでいたはずの大きな白い月が消えていたのです。そして同じ場所に、それまでなかったはずの小さな島がはっきりと見えていたのでした。

「あの島には神社があります。そこの祠に、このへその緒を納めて来て欲しいんです。そうでないとこのお腹の子は無事に産まれません。だからどうか納めて来て下さい」

 その妊婦の切実な物言いに圧倒された私は、「何故そうなしなければ無事に産まれないのか?」という根本的な疑問を確かめる事もせず、へその緒を受け取るとすぐに服のまま海へと駆け出して行きました。そして右の親指の付け根にへその緒を挟んで、一番得意なクロールで小さな島へと向かいました。

 夜の海は思っていたほど冷たくはありませんでした。距離にして100メートルほど泳ぐと、指先に砂浜の感触を感じ取りました。すぐに立ち上がり、辺りを見渡すと、そこには朱あかい鳥居が幾重にも重なった参道がありました。その参道には石段が積み重ねてあり、そしてその石段の両端には灯ひの消えた灯籠がありました。私の足が石段を、一段、一段、交互に踏み出すたび、その段の灯籠も、一つ、そしてまた一つ、闇夜の中に儚くも幻想的な光を放ち始めました。私はそれを不思議だとも、奇妙だとも、そして怖いとすらも思いませんでした。むしろ逆に、歓迎してくれているのではないかとすら感じられる仄かで暖かい光に、私は導かれるかのようにして階段を踏破したのでした。

 人っ子一人としていない夜の神社に入るのは、むろんこの日が初めてでした。普通だったら肝試し大会でもなければ体験し得ないであろう状況を、やはり私は、不思議と何故か少しも怖いとは感じませんでした。

 暗い地面に、アーモンドのような形をした光る何かが二つ、浮かんでいるのが見えました。きっと猫の眼に違いないと思われるそのアーモンド状の光は、私を警戒しているのか、ジッとこちらを見つめていました。しばらくすると、

「珍しいな、ヨミシロ祭りにニンゲンがやって来るなんて…」

 と言う声が聞こえて来ました。それはどうやらその猫の声のようで、私の意識の中にハッキリと聞こえて、…否、感じられるのでした。ところでこんな静かな境内で、どうして「祭り」が行われているなどと言えるのでしょう。私はただただ疑問に思うより他に考えが浮かびませんでした。それがその猫には分かったらしく、

「…えっ? これのどこが祭りだって? 祭り以外の何物でもないだろうに…。全くニンゲンってやつはやかましいのが大好きだからな…」

 そう語りかけてくるのでした。

「…昔まだボクがそっちの世界にいた頃、"外は危ないから"っていうわけの分からない理由で窓の外へ出してくれないニンゲンの女がいたんだ。危ないもへったくれもないよ、ボクらはみんな、押しては返す波のように、いつかまた必ずこっちの世界に戻って来るっていうのにさ。とにかくそのニンゲンの女が、ボクの体と同じくらいの大きさのスピーカーとかいう名前の木の箱から、オンガクとかいう名前の騒音をよく垂れ流してたんだよ。それもこっちが眠かろうとなんだろうとお構いなしに、ね。ボクがこっちの世界へ戻って来る時も、やたらめったら大きな声で泣いてたよ。ニンゲンってホント、ウルサイのが好きだよね。ところで君がこっちに来た目的はなんだい?」

「祠にこれを納めないといけないの」

 私は膝を折ってしゃがんだ後、へその緒を持っている両手のひらをアーモンド状の光の前に差し出しました。

「ああ、へその緒か。なんたって今日はヨミシロ祭りの中でも百年に一度しかないヨミシロカミの大祭の日だからね、人の子一人そっちの世界へ送り帰す事ぐらい造作もないよ。おいで」

 突如、鳥が羽ばたく時のような音が聞こえてきて、それと同時にアーモンド状の光は闇夜の中に霧散していきました。「おいで」と言っておきながら、その直後に消えてしまったアーモンド状の光を不思議に思いながらしばらく境内の中を歩くと、「ああ! きっとこれに違いない!」、と思われる祠を発見しました。へその緒をそこに捧げ、手を合わせて拝みました。すると再びさっきの猫のものと思われる声が伝わってきたのでした。

「さあ、これでもう用は済んだだろ。とっとと帰ってくれないか? ニンゲンはただここにいるというだけですでにもうじゅぶんすぎるほどやかましいんだ。いいかい? そもそもボクらの中にはニンゲンの大好きな『センソウ』とかいう名前のそれはそれはやかましい殺し合いに巻き込まれてこっちに来ているやつらだってたくさんいるんだからね。その事を忘れないでくれよ」

 言われるまでもなく、私は再び夜の海へと向かいました。むろんあの妊婦の元へ帰り、へその緒を無事に納めたを報告するためにです。

 私が、更に更に不思議な体験をしたのはそのあとの事でした。石段を駆け降り、海に潜った直後、まるでコーヒーの中に落ちた角砂糖のように、あるいは口の中に放り込んだ飴玉のように、私の身体が細胞レベルにまでバラバラになって、海の中へと溶け出してゆくかのような未知の体験をしたのです。そして、まだマグマの海だった遠い遠い昔の地球が次第に冷え始め、水蒸気が発生して大気に雲が生まれ雨が降りだす光景を、そして更に、地球の永い永い歴史の中から、一番最初の生命が誕生する奇跡の瞬間を、それこそまさに走馬燈のように目の当たりにした直後、私は突然ハッと目を覚ましたのでした。するとどうした事か、私は、あの妊婦がいたはずの砂浜に寝そべっていたのです。凪いだ海には朝陽が登り始めていました。そして驚いた事に、私の隣には、白装束に包まれた女の子の赤ちゃんが大きな声で泣きながら寝そべっていたのです。不思議な事に、私に用を頼んだ妊婦の姿は、広く白い砂浜のどこをどう見渡してもまるで見当たりませんでした。しかし、まずは何より、お腹を空かして泣いているのに違いないと思われる赤ちゃんを保護する事が先決だと判断した私は、砂浜からその子を抱きかかえ、すぐさま祖父の元へと向かいました。

「おじいちゃん見て! 砂浜に赤ちゃんがいたの!」

 家に戻るやいなや、私は大声で祖父を呼びました。すると祖父はその赤ちゃんを見るや否や大変驚き、

「なんていう事だ! これではまるで美祈に瓜二つじゃないか!」

 と言うのでした。

「誰? その美祈って?」

「話は後だ。おじいちゃんはこの子をお風呂に入れる。お前は紙オムツと粉ミルクを買って来てくれ」

 私の腕から赤ちゃんを受け取った祖父の背に、私は「分かった」と声をかけ、自転車を走らせました。買い物を済ませた後、すぐに飛んで家に戻り、粉ミルクを淹れ、紙オムツをつけてやりました。もろもろの作業がひと段落つき、赤ちゃんが眠りについたのを確かめてから、その「美祈」という人物について祖父に尋ねました。

「お前には話してなかったな。おじいちゃん、死んだおばあちゃんと結婚する前、実は他の女ひとと結婚してた事があったんだ…」

 白装束と毛布に包まれ、スヤスヤと気持ちよさそうに寝息を立てる赤ちゃんを見守りながら、祖父は朴訥とした声で話し続けました。

「…その女ひととの間に女の子の赤ちゃんができたんだが、当時はまだ戦時中でろくな食い物がなくてな、産まれてすぐにその子は死んでしまったんだ。戦争が終わると食糧難はさらに酷くなって、タチの悪い風邪をひいてその嫁も死んでしまったんだ…」

  祖父が淹れてくれたお茶を飲みながら、畳の上で姿勢を正しました。むろんその話の深刻さを受け止めていたからに相違ありません。

「…赤ちゃんが産まれた時、戦争なんて一刻も早く終わって欲しい、そんな祈るような思いを込めて『美祈』と名付けたんだ。もちろん戦時中にそんな事を言ったりしたら、たちまち非国民だと言われて村八分にされかねないし、この名の本当の由来はお祖父ちゃんと嫁と二人だけの秘密にしていたんだ。美祈が死んだ日も、この海から日本の街を焼きに飛んで来るB29を見たよ」

「その時の赤ちゃんと、この子が瓜二つだって言うのね?」

 そう尋ねると、祖父は「ああ」と言って頷きました。

「ところでこの子はどうして砂浜にいたんだ?」

 祖父の問いに対し、私は先ほど体験した不思議な出来事を全て話しました。ひととおり話し終えると、なんと祖父は、

「そういえばこの子、まだへその緒がついていたな。おじいちゃんもお風呂に入れてやった時、その事が気になってたんだ」

 と言うのでした。

「ねえおじいちゃん、その、最初のお嫁さんの写真、持ってないの? もしあるなら見てみたいんだけど」

 祖父からへその緒がついていたと聞かされた時、何を隠そう私はとある淡い予感を感じたのでした。写真について尋ねたのは、その淡い予感を確かめたかったからに相違ありません。祖父は古い箪笥の一番上にある引き出しの奥から、一葉の写真を出し、私に見せてくれました。…すると、なんという事でしょう! その写真には、昨夜砂浜にいた妊婦とそっくりな女性が映っていたのです! 私がその事を指摘すると、祖父は再び朴訥とした口調でこう話し始めたのでした。

「ますますもってして不思議な話だな。実はな、この写真と一緒にへその緒を和紙に包んで引き出しの奥に大事にしまっていたんだ。ところがこの写真を出した時、へその緒だけがそっくり失くなっていたんだ。だからその不思議な話が夢や幻だとはおじいちゃんにはどうしても思えなくてな…」

 しばらく間、私と祖父は黙りこくってしまいました。その重い沈黙をかき消したかった私は、

「ところでこの後どうしたらのいいのかしら?」

 と尋ねました。すると祖父は顎に手を当ててしばらく考えあぐねた後、

「警察に届けるしかないな」

 ひとりごちる時のような口調でそう言うのでした。後は最初にお話しした通りです。警察にもあの不思議な出来事は説明したのですが、前述のとおり、やれ「子どもの馬鹿げた妄想だ」とか、「まだ寝ぼけていて夢に見た事を現実だと思い込んでいるのだろう」とか言って嗤うばかりで、全く取り合っては貰えなかったのです。では母親は一体どこで何をしているのでしょう? それを説明できる人もいません。謎が謎を呼ぶばかりで、誰にも本当の事は分からず終いだったのです。

「この子を引き取りたい」

 祖父は警察にそう申し出ました。しかし警察からは、「条例では、一人暮らしの老齢の男性が孤児を引き取る事は許されていない、だからそれは受け入れられません」という意味の返答をされ、にべもなく却下されてしまいました。

「だったらせめて、名前をつけさせて欲しい。美しい祈りで、『美祈』がいい」

「ご要望に沿えるかどうかは分かりませんが、ご意見だけは聞いておきます」

 そのやり取りからしばらくした後、施設の車がやって来ました。そしてあの女の子の赤ちゃんは、婦人警官の胸に抱かれて施設へと去って行きました。

 もうお昼が近づいているというのに、その日の海はやけに静かに凪いでいました。



 もう一度お尋ね致します。あの女の子が今、どこで何をしているのか、誰かご存知の方はおりませんでしょうか? 正直に言うと本当は、「美祈」という名で呼ばれているのかどうかすら分からないのですが、しかし私にはどうしても、その子の名前は「美祈」に違いないと思えてならないのです。あの子と祖父が無関係だったとも思えません。だからどうしても、あの子に祖父の死を伝えてあげたいのです。

 あれからもう十二年が経ちます。あの日私は十二歳でした。つまり、「美祈」は今、あの日の私と同じ歳なのです。だからというわけではありませんが、私にはあの子が見つかるのではないかという予感がしてなりません。とにかくどうか、どうかお願いです、何か少しでもご存じな事があるのでしたら、どうか私に教えて頂きたいのです。

 そういえば先ほど、「お隣の国」が、「私たちの国」の島のすぐ近くにまたしても船を寄越してきたとニュースで報道されていましたね。土地なんて、本来なら誰の物でもないのに、でもそんな事を言っていると他人ひとの物を自分の物のように主張して奪い取ろうとする人が必ず現れます。だから人は主張するのです、「ここからこっちは自分の土地だよ」、と。そう主張しなければ、土地はおろか命さえ奪われかねません。結果、だから人は境界線を引くという悪循環に自ら苦しむ事になるのです。そして、こんな事で苦しむのは人間だけなのです。ああ、近い将来、また戦争が始まるのでしょうか、嫌ですね。皆が皆、他人ひとの物を奪おうとしなくなればこんな心配しなくて済むようになるのですけれども。これでは、「ニンゲンは、ただいるだけでやかましい」と言われても仕方がありませんよね。それとも、ああ、やはり、こればかりは私の期待し過ぎなのでしょうか? でももしも、「美祈」に祖父の死を伝える事ができたなら、全世界に平和が訪れるような気がしてならないのです。

 ですからお願いします。「美祈」について何かありましたら、どんな事でも構いません、どうか教えて頂けますようくれぐれもよろしくお願い申し上げます。

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