天使のコドン~孤独に生きる美しき人造天使が少女と世界を救うまで~
倉世朔
第1章 歪な天使たちは鮮血の上で踊る
第1羽 退廃した教会、黒衣の天使
人の生き血を啜ったかのような朱を帯び、不気味なほどはっきりと見えるクレーターの模様は髑髏を思わせた。
その煌々と輝く月下、アンジェ・ミラーはひたすらに走っていた。いや、逃げていた。
時代を思わせるシャッター街を抜け、眠りについた工事現場とすれ違い、誰か人がいないかと辺りを見回す。
だが、時刻は丑三つ時。こんな閑散とした街に出歩いている者は少ない。今宵は特にだ。このおどろおどろしい月に怯えて、外に出ようと思わなかったのかもしれない。
何度か石に躓き、激しく転んだ膝や肘は痛々しく血が滴っている。
せっかくこの日のために用意した淡いピンク色のドレスが台無しになったと考える余裕すら彼女にはなかった。ヒールの靴も逃げているうちにどこかへいってしまう始末だ。
彼女が逃げているもの、追われているものは不気味な生物と呼ぶには少々美し過ぎる。
だが、天使と呼ぶには醜い出で立ちをしていた。それらは人の姿をしており、古代ギリシャ人の衣服キトンを身に纏っていた。そして、翼なのだが、皆が皆、歪な形をしている。大きさが左右違う者。翼が腕や腰、耳に生えている者。そもそも天使の翼らしからぬ昆虫のような骨格をしている者もいる。
そして彼らの共通すべきところは目が見えないということだ。閉じた目には時々血の涙が流れている。まるで、こんな醜い異形な生き物になどなりたくなかったと嘆いているかのようだ。
それらは目が見えない分、聴覚が鋭い。走れば走るほど、彼女がどこにいるかがわかるのだ。だがそんなこと、彼女は知る由もない。
彼女は一心不乱に走り続け、街の人の信仰心の無さが窺える退廃した教会に逃げ込む。雑草が一面に生え、教会の壁にはところどころヒビが入っている。
そんな息絶えた教会に、神父の一人はいるはずだとアンジェはそれを信じた。彼女にとって、この禍々しい生き物たちの存在を悪魔だと思ったらしい。教会の大きな扉を開けるなり急いで閉め、かんぬきをした。
「神父様! おられますか! 助けてください。変な、気味の悪い生き物に追われているんです! 翼の生えた、天使のような、それで目から血の涙を流していて……と、とにかく助けてください!」
カナリアのような細高い声が、教会に響く。彼女の黄金色の柔らかな髪が月夜に光り、空色の瞳はどこまでも澄み渡っていた。華奢な青白い肌はどこか守ってあげたくなるような、か弱さが滲み出ていた。
しっかりと化粧されたおかげで顔は大人びているが、それを落とすとまだまだ二十歳にも満たないあどけない少女だった。
「神父様!」
異形の天使達が扉をこじ開けようと、凄まじい勢いで叩いてくる。神父でさへこの教会を見捨てたのだろう。神を信じる者は一体何処に行ってしまったのだろうか。
「だ、誰かいませんか! 誰か、誰か助けて!」
扉の音は次第に大きくなり、ギシギシと軋んだ音が聞こえてくる。
いずれこの頑丈な木の扉は破壊される。
アンジェの額からは、走った後の汗とはまた違う冷たい大粒の汗が流れた。
「神様!」
彼女はここで初めて、教会の上に聳える大きな丸い窓ガラスを見上げた。
赤い月夜の光に照らされた大きな人影が見えたのである。
その主は、窓ガラスの縁に片膝を立てて悠長に座ってこちらを見下ろしていた。
「だ、誰……!?」
窓の外にいたコウモリが一斉に羽ばたき、縁に座っていた主がゆっくりと立ち上がる。
アンジェはハッと息を止めた。
今まで生きてきた中でこんな美しい男性を見たことがなかったのである。
彫像のようにくっきりとした繊細な顔立ち、死人のような青白い肌に、絹のように細くて長い髪をハーフアップにまとめている。この世の者とは思えないほどに美しい目尻に長い睫毛。
彼女がさらに見入ったのは、彼の背中に生えている見事な翼だ。
「て、天使……?」
その天使は、少し驚いた顔をさせて呟く。
美しい彼の声は他の女性をうっとりとさせるような落ち着いたテノールだった。
「クリスティーヌ……」
「え……?」
バリバリバリッと扉が破られる。
醜い天使達が雪崩のように次々と教会の中に入ってきた。
「きゃぁぁぁあ!」
アンジェを襲うのかと思いきや、彼らはぴたりと動きを止めた。
教会にいた彼の存在に、直感的に気づいたのである。
鮮血色の月夜の下、白くて大きな翼を広げた男の姿。服は白いベールの衣装かと思いきや、ルネサンス時代で流行ったシルクの黒いトップス、下は肌にピッタリと張り付いた黒いパンツに黒いコートを羽織っている。
全身黒一色の服装を見て、天使というよりもまるで堕天使のようだとアンジェは少し不安になった。男は異形の天使を見るなり、一瞬だけ眉間に皺を寄せて彼らに言い放つ。
「散れ」
異形の天使達は彼の存在が恐ろしいのか、じりじりと後ずさっていく。だが、教会から出ようとはしない。
その様子を見て、男は腰に身につけていた剣に軽く触れた。
「もう一度言う。これが最後の警告だ。散れ!」
彼が本気だということを感じ、彼らは一目散に逃げていく。
男は翼を使って地面へ降り立った。
アンジェは彼をじっと見つめ、後ずさりしながらもお礼を言う。
「あ、ありが……」
一匹だけ、醜い天使がアンジェに襲いかかった。
彼女が振り返る。
だがそれよりも前に、男が彼女の前に立ちはだかり剣でその天使を真っ二つに切り裂いた。
断末魔の叫びと、噴水のように溢れる血飛沫に恐怖したのか。はたまた、体力の限界がきたのか。アンジェはプツリと線が切れたように気を失った。
彼女が倒れることを予想していたのか、床に倒れる前に男が抱き支える。彼が動くたびに強い白檀の香りが広がった。彼はアンジェの体に血がかからないように自らの翼を覆い、彼女の前髪に触れて顔を覗き込んだ。
「似ている……」
真っ赤に燃える月はさらに不気味さを増し、廃れた教会を照らす。
血塗れの床の上。肉塊が飛び散ったその上に、可憐なドレスを纏う少女を抱きかかえる美しき黒衣の天使。
大きくて純真だった翼に血飛沫が目立ち、彼女を抱きかかえている方とは反対の手で剣を静かに鞘に戻す。
ーーーこの美しき男は本当に天使なのか。はたまた、別の何かか。
ーーーーーー彼は、一体何者なのか。
天使のコドン~孤独に生きる美しき人造天使が少女と世界を救うまで~ 倉世朔 @yatarou39
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