蛇足:「朽ちた花は暗中で咲く」

 全てが終わった後の荒地――最下層、貧民窟パウバーにて。

 未だ昏く、大きな岩塊の陰になるような暗闇の中、足を引きずり前へ前へと進む者がいた。


「く、クククク」


 名は、ドリフト。


 リオノアたちを裏切り、陥れようと企んだ彼女の笑みは、今や苦しみに呻く顔に変貌していた。大量の砂、及び灰かすを頭から被り、警戒するがように忙しなく辺りを見渡す。それは肉食獣のような荒々しさを伴っているようにも見えたし、何かに怯える草食獣の怯懦を表しているようにも見えた。


 己の肺が未だじくじくと痛む。『凶存ルベラ』様の鉄が、金属が奉られ駆動していた己の一部は今や見るも無惨に破壊されていた。融けあい、胸で剥き出しになっていた金属は鳴りを潜め、己の血と共に固まってしまっている。


「クククク、ソが。…………あああぁぁ」


 何故、何故こんなことになった。

 簡単に殺せるはずだった。相手は女。一対。それはあまりに多勢に無勢。勝負にすらならない。鉄は全ての生命いのちの揺らぎを溶かし、只己が食欲のために用意された犠牲を喰らう。否、そうでなければいけない。それが現実。


 一方的で、愉快な殺戮になると、思っていたのに。


「…………?」


 ふと前方、ぼうっと佇む人間の後ろ姿が見えた。もの思いに耽っているのか、隙だらけ、一切の警戒が見られない。

 …………丁度いい。

 ここでコイツを殺して、また『凶存ルベラ』様に献上すれば良い。そこからまた始めるのだ。『凶存』様に認められた私。ここまでずっと有頂天。最高だった。技術で愚民どもを誑かし、彼の言うところの「素晴らしい」働きを見せてきた。そんな自分の末路がこんなものであっていいはずがない。

 自分をここまでめちゃくちゃにしたヤツを殺してやる。奴らの苦しんだ顔が狂おしいほど見たい。苦痛をその瞳に湛えたまま、死んでいく彼らの顔。ああ、それはやっぱり、晩酌のつまみになる。

 そんな未来を想像したらまた、だんだんと愉快になってきた。歪む口元、つり上がる目と眉。己の輝かしい未来に突き進むため、まずは目の前の者から殺すとしよう。


 少し大きな背中は、己の影などすっぽり隠してしまう。そっと近づいて、高速で穿たんとする貫手。外れたようにカタカタと鳴る己の顎。

 力も十分込められたそれを、もはや止めるすべはない。


「――――!?」


 しかし、彼女の思考に反するように。ある種の矛盾を伴ってその腕は止められた。

 己の手首を固定する、骨と皮だけのような掌。背後から迫った自分の手を、そのまま前を向いて見もせずに、片手だけで固定したのだ。

 万力のような力にドリフトが締め上げられる。


「あ。あが!! いいいいいいいい!!!!」


「おや、失礼な輩がいると思えば。――――ドリフト。貴方でしたか」


 ふっ、と解放される力。その場に膝をつき、ぜえぜえと息を吐く。岩塊、瓦礫で覆われたそこは明かりが遮られ、まるで夜中のように暗い。何も見えない泥中にように、伸し掛かる痛みと圧力。

 そんな彼女にさらに一重、かかる影。思わず見上げて掠れた声が出る。


「朽花…………!」


「おやおや、久しぶりに会ったにも関わらずぞんざいな口調。仮にもに向かって…………悪くない心地ですね」


『朽花』が几帳面にその身にかかった埃を払う。ドリフトには今の景色が幻か何かに覚えた。心胆から疑問が、懐疑が渦巻く。

 いるはずがない、今ここ「庁国」に、いるはずがないのだ。何せ彼は――――


「『粛星』、リーギュ・ランドゼロに捕まったのだから。でしょう? 貴方の疑問は尤もです。

 因果とは常に図り知れず。忘却の彼方、古びた女神も無作為に笑い続ける。神話で言う所の『零と限る所に、光在りD i c e , D o m i n a t e』と言った具合でしょうか。御伽とあしらう者ですら、神は平等に扱うようです」


 何を言っているか、全く分からない。これまでドリフトが見てきた彼の様子と根本から異なっていた。まるで私が彼を取り違えていたような。まるで初めから私の不義を知っていたような。


「――――つまりは、私はただというだけです。いえ、随分骨が折れる仕事でしたが。行ってみる価値……及び知見はあったというもの。

 ねえ――――マチリクさん?」


「チ。うっせえンだけど」


『朽花』に釘付けとなっていた視線。それが今、ギギと動き始める。己の背後、幽かに、しかし圧倒的なまでのがする。ああ、そうだ。この香り――――ぴりぴりとして、少し苦っぽいような、痺れる香り。今それが己の背後に渦巻いていることが分かる。冷ややかな微風を以て薫る根源。逃れられるはずが無かったのだ。


「聞かせろ。リーギュは…………『粛星エト』の様子は?」


「恐ろしいほど元気な方でした。ええ、それはもう。

 ――――その身に『星』を宿しておきながら、衰弱という言葉を知らない。浸蝕というものを意に介していない。

彼女の中には確かに『花』が巡っていたのですがね…………反発に帰する自己同一性崩壊をご存じでないのでしょうか。一瞬、本当に生物であるのか疑ってしまいましたよ」


「つまりは」


「ええ、当面は安心して良いでしょう。詳細までは分かりませんでしたが、彼女は紛れも無く『リーギュ・ランドゼロ』です」


「…………ン。分かった」


 女――マチリクが目の前で、その鉄面を紅く輝かせた。所々に滲む血は既に固結。しかしほとんど疲労は見られない。何故ならそれらは全て、返り血であるから。


「…………『求導師クィホート』はどしたン?」


「壊されたに決まっているじゃないですか。それが壮健の証左とも言えるでしょうに。


 ――ああクィホート! 私の天使にて『』!! その内に並べ立てた膨大なる書物メモリーをも吹き飛ばされ、なんと可哀想に…………また零から、探しなおさねばなりません」


「はぁ…………分かってンよ!! こちとら手伝ってやってンだからそんな目で見ンな!! 年齢と釣り合ってないンだわ!!」


 まるで少年のようにキラキラした眼差しをする『朽花』。耐え切れずマチリクが目を逸らした。

 否、己の知らない話だ。この老紳士は躯械の研究者という話では無かったのか? その点でドリフトと『朽花』は似通っていた。だからこそ、彼らの組織に潜入できたわけだが。

 しかし今の話はおかしい。書物メモリー? それはまるで――――


「おや。心底不思議といった顔をしているご様子。しかしそれも致し方あるまい。私は貴方に同胞であること、後はクィホートのことしか伝えていませんでしたからね。


 …………そう、クィホート。いい出来でしょう? 


「…………は?」


 瞬間ドリフトの思考が真っ白になる。

 初めて、作った? クィホートは私もこの目で見た。それはあまりに完成されており、それはあまりに人の欲望を詰め込んだものであり、それはあまりに――――無邪気なものだった。全てがトンチキ。あらゆる論理機構が破綻して、しかし何故か釣り合っている。それは、いやそれが。彼という人間を体現したものであるのだと、疑いようもなく考えていた。


「〈無殻の使シーシェル〉という、個々として完成されたものを離散的共同体に仕立て上げることで『一つの意思』を持たせる。――――うーん。アイデアとして、悪くなかったように思えるのですがね。一体何が悪かったのでしょう」


「ウチが言うのもお門違いだけど。絶対中に創った『書物庫』だよね? 兵器の中に書物保存するとかいかれてンの? というかこれはドリフトも見たと思うンだけど! 見て何も思わなかったン!!?」


「いや…………それがこの人の癖なのかって。技術者としてのさがなのかな、と…………」


 思わず冷静に答えてしまうドリフト。一切のよどみもないその答えに、マチリクが思わず天を見上げてしまう。何か変なことを言っただろうか。ごく自然なことだと思っていたが、捻じ曲がってはいないだろう。フォルールとその一点だけは、違いはない。

 しかしそれが、偽り。彼は、全くの初心ウブだったと?


 矯めつ眇めつ『朽花』がドリフトを見る。その目は、手は、口は、研究者のそれだ。手は節くれだって骨を露わに。当然だが、長年使い込まれたものであることが分かる。口はぶつぶつと聞き取れない文言を流し、目は中空に漂うを追うように、右に左にドリフトの前を彷徨っていた。


 …………書物。


 まさか、彼は。『朽花』は――――――



「アナタ。自分が、どんなことをしようとしてるか、分かってるの? それは許されない。私たちは与えられたものだけ、信じていれば幸せになれる。を知ろうだなんて――――何も、生まない」


「――――閉じよC o l s⦆。気付きました? 貴方こそ随分、愉快な体になっているようで。

凶存ルベラ』による無創空泌リ・エデン…………? 鋼糸の下に過一元化、劣悪に和合されている…………全く、興味は潰えない」


『朽花』が仰々しい仕草で手を振って、己が賦律を消滅させる。それは対象を詳しく識るためのもの。簡単な見識から――歩んできた過去まで。少しだけ。


 パチンと指を鳴らす。まるで今何かを思いついたように。


「おそらく貴方は不思議に思っているのでしょうね。何故私が貴方の前に現れることだ出来たのか。何故貴方の悪事を見破ることができたのか。

 ――――この国。庁国においても謎は絶えません。何故三十年前、旧式の砦は跡形もなく消えたのか。何故この国は再興を果たせたのか。

 ドリフト。…………残念ながら。それこそが、私の本質なのです」


『朽花』が己の目を指差す。ぎょろりと動き、血管まではっきり浮かぶそれはもはや人間のものとは思えない。

 しかし、その目。覆いを取り去り、全てを、詳らかにするその観察眼こそが、この男の本質であったのだ。


「私ね、んですよ。

 それはもう、足跡が見破れるほどに。紙の一片さえも、そのを見逃さないほどに」


『朽花』が暗闇の中で途切れながら嗤い続ける。泥にも似たその暗中に彼女の意識が溺れていく。

 介錯をするように、マチリクが隣に立った。身体中が恐ろしく震える。

 それは寒さによるものではなく、かといって今より殺される恐怖でもない。


 ただ目の前の男が為す禁忌――――――決して求めてはいけない、その深みに触れることが、その闇を明かそうとする行為自体が。ドリフトを根源から恐怖させ、彼女の歯を無意識に鳴らせた。かたかた、かたかたと。


『朽花』が芝居がかったようにお辞儀をする。『凶存』とは異なる、そこに込められた、只ならぬ好奇心。人間としての、知的欲求。


「改めまして、私は『朽花フォルール』。


求史者シーカー』と、呼んでくれても構いませんよ?」

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