おやすみ、メリーダンサー
佐倉遼
おやすみ、メリーダンサー
数十年に一度現れるオーロラの光が、夜空を照らしている。あの日も、同じようにこの美しい幕が空を覆っていた……。彼女との約束が、今もこの場所に残っている。そんな気がしていた。
洋館の前に立つと、私はしばらく扉を見つめた。風に乗って、かすかにオリーブの香りが漂ってくる。それが遠い記憶を揺り起こすたび、胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われる。
私は、まるで記憶の書庫を探り続けているかのように、昔のことを思い出そうとしていた。
不自由な体で杖に頼りながら、重たい扉に手をかける。冷たく古びた金具に触れた瞬間、錆びついた蝶番がギシギシと音を立てて、扉がゆっくりと開いた。
あの頃と変わらない。埃に覆われた空間が広がり、窓の隙間から差し込む陽の光がぼんやりと薄暗い部屋を照らしている。広いエントランスには、人影などあるはずもない。中央の吹き抜けの階段は、子供の頃は天上まで届くように感じたが、今ではただ二階に続いているだけのありふれた階段に見える。壁紙は剥がれ落ち、家具は荒れ果て、時が止まったかのように静かだった。あの日の記憶が、ゆっくりと、けれど確実に甦り始める。
「今更ここに来て、何ができるのだろうか……」
自分に問いかけながら、私は階段に足を踏み入れる。床板の軋む音が耳に残り、足元で積もった埃が微かに舞い上がる。その音と共に、一段一段登るごとに、過去が鮮やかに目の前に広がっていく。あの日、オリーブを入れたカゴを握りしめて、この館に逃げ込んだときのことを—。
まだ少年だった頃の私は、店先に並んだオリーブのカゴを1つ盗み、そのまま逃げ出していた。明日食べるものもなく、困窮していたあの頃、善悪の判断など、飢えの前では何の意味も持たなかった。店主に罵倒されながら必死に逃げていたときの自分の感情など、今ではまったく覚えていない。ただあの店から一心不乱に駆け出し、気がつけば、この古びた洋館の前にたどり着いていた。
人目につかない場所で休憩したかった。息を切らしながら、扉に手をかけ、思いきり押し開ける。冷たい空気が肌を刺すように感じられたが、同時に、あたり一面を包む不気味な静けさが私を飲み込んだ。周囲を見回して、誰もいないことにほっとしたのも束の間、この異様な洋館に対する恐れと、奇妙な好奇心が胸の中で交錯していた。私はそのまま、何かに導かれるように、階段を進んでいった。
そして——あの時、出会ったのが彼女だった。
「君、誰?」
2階の寝室らしき部屋に足を踏み入れた私に、突然、声がかけられた。そこには、白いドレスを纏った少女が立っていた。まるで時間が止まっていたかのように、静かに、しかし驚いた表情でこちらを見つめていた。彼女は10歳の私より5、6歳年上に見えた。肩まで届く淡い金髪、そして深く澄んだ湖のような瞳が、私をじっと見つめている。こんな廃墟のような家に人が住んでいるとは思わず、私は息を飲んだ。
反射的に、手に持っていたオリーブのカゴを背中に隠そうとしたが、すでに遅かった。彼女はそれに気づくと、咎めることなく、微笑んだ。
「それ、好きなの?」
まるで知り合いにでも話しかけるかのように、彼女は柔らかく問いかけた。私は戸惑い、言葉が出てこなかった。オリーブなんて、食べたこともなかった。
「盗んできちゃったの?」
私はただ頷くことしかできなかった。彼女の瞳は不思議な力で僕を捉え、その場に立ち尽くしてしまった。彼女が誰なのか、なぜここにいるのか、そんな疑問を抱く余裕すらなかった。
今になって思えば、彼女はまるで、私の来訪を待っていたかのようだった。
私はただ彼女を見つめていた。自分がなぜここにいるのか、弁明する必要があると感じながらも、口を開くタイミングがつかめず、後ろ手に持っていたカゴの持ち手を強く握った。彼女は私の沈黙に構うことなく、静かに話し続けた。
「この家、好き?」彼女がそう言って部屋を見回す。微かに笑ったその表情には、どこか陰りがあった。
「僕は……ただ、逃げてきただけだから……」思わず口を開いた言葉は、ほとんど言い訳のようだった。自分がここにいる理由を早く説明しなければならないような気がして。
「逃げてきたの?」彼女は首を傾げ、少しだけ興味を示したようだった。
「うん……そうだよ。僕、お腹が空いていて、だから……」盗んだオリーブのカゴを背中に隠しながら、私は視線を逸らした。
彼女はそんな私の様子を見て、静かに笑った。
「いいの。怒ったりしないから。ここは静かだし、誰も来ない。安心して」
その優しい言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。誰かに責められることなく、ただ受け入れられる感覚は、あの頃の私にとって初めてのものだった。
「でもそのオリーブ、かじっても苦いだけよ?」彼女は私を見透かしたように言った。
「そうなの……?」私はがっかりして、肩を落とした。
「私はメリー。あなたは?」彼女が自己紹介したので、私も自分の名前を答えた。名前を告げたことで、少しだけ気が楽になり、私は恐る恐る尋ねた。「君……ここに住んでるの?」
彼女は窓の外を見ながら、ゆっくりと頷いた。「ええ、ここに住んでる。でも、家族はもういないの」
その言葉に、私は戸惑いながら尋ねた。「家族は……どこに行っちゃったの?」
「僕と同じで捨てられたの?」とは、さすがに聞けなかった。
彼女は少し俯き、ぽつりと話し始めた。「私はね、特別な病気なの。治らない病気。何十年も眠り続けて、目が覚めるのはほんの一日くらい……。16歳の時にかかって、それからずっと時間が止まったみたいに歳も取らずに眠り続けて、時々少しだけ起きるの」
その言葉の意味が飲み込めなかった。私が黙ったままでいると、彼女は続けた。「家族は、私が目覚めるのをずっと待っていてくれたのよ。でも、目を覚ますたびに、パパもママもお兄ちゃんもどんどん年老いていく。何十年も眠っている間に、みんな一人ずつ……亡くなっていった」
私はその話を理解するのに時間がかかった。眠り続ける病?それがどういうことなのか、少年の私にはすぐに理解できる内容ではなかった。ただ、彼女の家族が彼女を待ちながら亡くなっていったという事実だけは、痛いほど伝わってきた。
「君は、もうひとりなの?」私は声を絞り出すように訊ねた。
彼女は静かに頷きながら、少し俯いた。「うん。最後まで残っていたのは、妹だった。前に目が覚めたとき、妹が残したメモを見つけたの。『ごめんね』って、くしゃくしゃになった紙が残されていた」
「ごめんね……?」私はその言葉の意味がすぐには分からなかったが、彼女が何を感じたのかは、なんとなく察した。
「妹は、きっと私がずっと眠り続けるのを待っていてくれたんだと思う。でも、あまりに長い間眠っていたから……もう待つことを諦めたんだと思うの」
「きっと、彼女の人生もめちゃくちゃにしてしまったのね。私が」
彼女の瞳は、どこか遠くを見つめるようにぼんやりと揺れていた。その姿を見て、私は彼女の抱える孤独と哀しみを痛いほど感じ取った。何十年も眠り続け、目を覚ました時にはもう誰もいなくなっている。それがどれほどの恐ろしさか、私には想像もつかなかった。
「僕は……」何か言葉を返そうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。彼女の瞳を見つめることしかできなかった。彼女が誰で、なぜここにいるのかはもうどうでもよくなっていた。ただ目の前の彼女が、深い孤独の中でずっと生きてきたこと、それだけが、私の胸に重くのしかかっていた。
私たちはしばらく無言でいた。彼女の話が深く響いて、どう言葉を返せばいいのか分からなかった。たった一日しか目覚めることができない彼女。その一日が今日で、しかも私と出会った。
「さっきのオリーブ、食べたことある?」突然、彼女が私に問いかけた。
「いや……実は、ないんだ。これを持ってきたけど、食べ方も分からなくて……」私は少し恥ずかしくなりながら、カゴの中のオリーブを見せた。
彼女は微笑んで、カゴの中を覗き込んだ。「オリーブって、そのままだと苦いんだよ。ちゃんと手をかけてあげないと、食べられるようにならないの」
「そうなんだ……知らなかったよ」私は思わず、カゴを見つめ直した。
彼女は再び笑みを浮かべ、優しい声で言った。「ねぇ、外に行こう。お庭を見てみない?」
「庭……?」私は少し戸惑ったが、彼女の提案を断る理由もなかった。なぜだろうか、彼女に誘われると、自然と従ってしまう。彼女が立ち上がり、私もそれに続いて歩き出した。
「昔ね、このお庭にはいろんな植物が育ってたの。家族が手入れしてくれていたのよ。でも、私が眠ってしまってからは、誰も手を入れなくなって……」彼女は昔を懐かしむように、寂しそうに呟いた。
廊下を抜け、扉を開けると、荒れ果てた庭が広がっていた。かつてはきっと美しかっただろう場所も、今では草がぼうぼうと生え、どの植物も枯れてしまっている。
「ほら、ここ。ここにオリーブを植えてみましょうか」彼女は少し先を歩き、庭の中央あたりで立ち止まった。私もその場所に歩み寄り、彼女の隣に立った。
「でも……これ、木にはならないんじゃないかな……」私はためらいながら、実を見つめた。今になって、盗んできた自分がちっぽけで情けない存在に感じられた。
彼女は私の手の中のオリーブを見つめ、軽く首を振った。「そんなことない。ここに植えれば、きっといつか、時間がかかってもお庭を覆うくらい大きな木になる。そう信じればいいんじゃない?」
彼女の言葉に、私は少しだけ心が軽くなった。何もせずに諦めるよりは、ここに何かを残していくことの方が意味のあることのように思えた。彼女の示す場所に、私は手に持っていたオリーブの実をそっと土の中に埋めた。柔らかい土を手で押し固め、彼女もその隣にしゃがみ込んで、一緒に土をかけていった。
「今度目が覚めたときには、この木がきっと大きくなってるはずだから……その時は一緒にオリーブを食べようね」彼女はそう言って、私を見上げた。
私は彼女の言葉に一瞬迷ったが、すぐに頷いた。「うん、絶対に来るよ。次に会ったら、二人でオリーブを食べよう」
彼女は優しく笑い頷いた。その笑顔が私の胸の奥を温かくした。どれほどの時間がかかるかわからない。何十年もかかるかもしれない。それでも、ここに植えたものがいつか実を結ぶという約束が、未来に繋がっていると感じられた。
オリーブを植え終わり、私たちはしばらくその場所に座っていた。空がだんだんと暗くなり始め、冷たい風が頬を撫でる。日が沈んでいくにつれ、庭の影は長く伸び、周囲が静まり返っていった。空を数十年に一度、現れるオーロラが覆っていた。
メリーは、静かな声で話し始めた。
「眠っている間ね、私はいつも夢を見る。妖精たちが踊っている夢……」
「妖精……?」
「そう、小さくて可愛くて、羽が生えてるの。みんな自由に空を照らして、楽しそうにしているの」
彼女の声には、どこか遠くを見るような寂しさが漂っていた。
「妖精たちはすごく楽しそうに踊っていて、私もその輪の中に入って、一緒に踊るの。すごく楽しくて、嬉しくて……でも、どこかでずっと寂しいの」
私は彼女の言葉に耳を傾けた。夢の中での楽しさや喜びの中にも、彼女の心を包み込んでいる深い悲しみが見え隠れしているように感じた。
「私はね……踊りながら、誰かに助けてほしくて叫ぶんだけど……誰も助けてくれないの。妖精たちは笑って踊り続けてる。私の声なんて聞こえてないみたいにね」
彼女の言葉が、胸に重く響いた。夢の中の彼女は、深い孤独と絶望を抱えているのだろう。
「パパも、ママも、お兄ちゃんも、妹も……みんな死んじゃった。私だけがずっと生き残って、この夢を見るたびに思うんだ。悲しみって、終わらないのかなって……」
彼女の声が、次第に細くなっていく。その寂しさと悲しみに押しつぶされそうな言葉に、私はただ黙って聞くしかできなかった。どう言葉を返せばいいのか分からないまま、彼女が抱える絶望の深さが、突き刺さるように感じた。
「私は……ずっと一人で目覚めるのが怖いの。誰もいなくなっちゃったこの世界で、目が覚めても、また一人なんじゃないかって……」
メリーは涙を見せず、淡々とその言葉を口にした。
私はその言葉にどうしていいのか分からなかった。彼女の抱える孤独が痛いほど伝わってきて、何か言葉をかけたい、そう思ったが、言葉が出てこない。けれども、このままではいけないと感じた。
「そんなこと……ないよ」
自分でも驚くほど強い口調で、そう言っていた。メリーは私の方を見つめ、少しだけ目を見開いた。
「僕がいる。君は一人じゃない。僕、次に君が目を覚ましたら、またここにいるよ。絶対に約束する」
その言葉が、どれだけ彼女に届いたのかは分からない。けれども、その瞬間、私は本気でそう思っていた。彼女がどれほど長く眠り続けても、次に目を覚ました時、ここにいると誓っていた。
メリーは私の言葉に小さく頷いた。けれども、どこか虚ろな目をしている。次第に彼女の瞳が重くなっていくのを感じた。
「ありがとう……眠たくなってきちゃった……」彼女は静かにそう呟いた。
風が冷たくなってきて、メリーが身体を軽く震わせるのが見えた。私は彼女を支えるように手を差し出した。
「中に戻ろう。寒くなってきたし……」
メリーはゆっくりと頷き、私と一緒に立ち上がった。彼女の足取りは少しおぼつかない。眠気が彼女を次第に支配しているのが分かった。
私たちは再び館の中へと戻り、庭が見える寝室へと向かった。部屋に入ると、ベッドが1つ置かれており、窓からはオリーブを植えた庭が見渡せる。夕闇が完全に空を包み込み、薄明かりが部屋をぼんやりと照らしていた。
「ここで……休んだ方がいいよ」私はベッドを示し、彼女を促した。
メリーは微笑んで、ゆっくりとベッドに横たわった。窓の外に広がる庭をぼんやりと見つめながら、彼女は再び目を閉じようとしている。
「あなたに……会えて良かった……」
彼女の声は、次第に小さく、弱々しいものになっていく。それでも、その言葉には確かな温かさが込められていた。
「本当に……また会えたら……とても……素敵なことだね……」
メリーの言葉が、風に乗ってふわりと消えていきそうになりながら、最後の一言が私の心に深く刻まれた。
「また、会おう……絶対に」
私は彼女の手をそっと握り、優しく言葉を返した。彼女はもう、返事をすることなく、深い眠りに落ちていった。瞳は閉じられ、穏やかな呼吸が繰り返されている。その頬に一筋の涙が静かに流れていた。今度はいつ目覚めるのか、誰にも分からない。
ただ、彼女が眠りにつく姿を見つめながら、私は何度も心の中で約束を繰り返していた。
寝室の前に立ち止まり、私は一度深く息をついた。それからの私の人生は長く険しいものだった。あれからしばらくして私は保護されて別の都市に移住することを余儀なくされた。非情なことだが、新しい生活に慣れた頃には洋館での不可思議な一日のことをとうに忘れ去ってしまっていた。久しぶりにこの街に訪れて、洋館のまえを通り初めて思い出したのだった。
長い年月が経っているはずなのに、それでもこの扉の前に立つと、あの頃の記憶が一気に押し寄せてくる。今でも、この扉を開けるのが恐ろしかった。そこには、どんな光景が広がっているのだろうか。
扉を開けると、部屋の中は昔と同じように静まり返っていた。けれども、そこにいたはずの彼女の姿はもうない。ベッドは空っぽだった。かつて彼女が眠っていたあの場所には、今は何も残っていない。まるで、彼女がこの場所を離れて久しいことを、静かに告げているかのようだった。
私はベッドの脇に立ち、自然と視線が窓の外へ向かった。そこには、かつて二人でオリーブを植えた庭が広がっていた。
「きっといつか、時間がかかっても庭を覆うくらい大きな木になる。そう信じればいいんじゃない?」メリーの言葉が胸によぎった。
驚くほど立派に成長したオリーブの木が、庭を覆い尽くすように枝を広げていた。あの時、まだ小さかった私たちが、小さな手で土に埋めたオリーブが、今ではこんなにも大きくなっている。何十年もの間、この木だけが時間の流れを見守り続けていたのだと、私は静かに理解した。
私は手を伸ばし、窓からひとつのオリーブの実を手に取った。果実の表面は、あの日の記憶と重なるように艶やかだった。思わず、それをかじる。途端に、口の中に広がったのは、強烈な苦味。思わず顔をしかめた。あの日の彼女の言葉が脳裏に蘇る。オリーブの苦味は、過ぎ去った時間の重さと、果たせなかった約束を、私に突きつけていた。
「苦い……」
その言葉が、口から漏れた。かつての約束が頭の中で反響する。次に目が覚めたとき、二人で食べようと約束したオリーブ。だが、その約束が果たされることはなかった。今、ここに残っているのは、この木だけ。私たちの過去を、静かに語り続けているのだ。
ふと、ベッドのサイドテーブルに目をやると、そこにはいくつものオリーブの種が置かれていた。まるで彼女が一人で何度も実をかじり、約束を守ろうとしたかのように、静かに並べられていた。
私はその種を1つ手に取り、しばらく見つめた。彼女は……約束を守り続けてくれたのだ。私が忘れてしまっていた間も、彼女はずっと一人で、ここで待っていたのだと。
手の中のオリーブを見つめながら、私は目を閉じた。かすかに聞こえるのは、かつてのメリーの声。「また会えたら……素敵なことだね」
彼女は、眠りにつくときわかっていたのかもしれない。人はみな忘れゆくもので、私とはもう会うことはないだろうということも。彼女は、オリーブの木を眺めながら何を思っていたのだろうか。
その瞬間、彼女が目を覚まし、一人でこの庭に佇んでいる姿が浮かんだ。静かにオリーブの実を手に取り、かじった時の苦さ——そして、また眠りにつくまで待ち続けた彼女が感じた孤独。長い時間を超えて、この木だけが成長し、彼女を見守っていた。
「絶対にまた会おう……」
かつての言葉を噛みしめるように微かに呟いた。だがその声は風にさらわれ、オリーブの葉がざわめく音の中に溶けていった。空には美しいオーロラがただ揺蕩っていた。
おやすみ、メリーダンサー 佐倉遼 @ryokzk_0821
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