不快害虫
惟風
根絶やし
夫と口論していると、彼の口からぽろりと何かがはみ出した。
黒く、もぞもぞと口角から這い出して、それも一匹だけでなく何匹も何匹も列を成して、顎から首筋を伝って夫のシャツの内側に行進していく。
私はそれに気を取られて黙り込んでしまった。夫はここぞとばかりに声を荒げる。
「何がサプリだインプラントだ、今月もいくらつぎ込んだ! いい加減お前も働いたらどうだ!」
ああうるさい。私は今やそれどころじゃないっていうのに。
夫のシャツの裾から顔を覗かせた黒い列は、チノパンの上をステッチ柄のように尚も進む。私は目が離せない。あっという間に床まで降りてきて、私の足元に忍び寄ってきた。ひっと喉の奥から悲鳴が漏れた。
蟻は嫌いだ。
夜中に足に噛みついてくるあいつらが私は大嫌いだ。噛まれた時の鋭い痛みが思い出されて腹が立ってきた。あんなちっぽけな存在のくせにひどく腫れて、しばらく悶絶する屈辱ったらなかった。
実家の布団は
蟻は
「おい聞いてるのか!」
夫が私の肩を掴んだ。その指先にも黒い昆虫が集っていて、私は反射的に振り払った。
ああ汚い。甘い匂いを嗅ぎつけて家の中に入り込んで、腹に溜めた毒をもって喰らいついてくる虫けら。汚らしいったらない。
夫を無視して戸棚に取り付く。中身を引っ掻き回して殺虫剤を取り出した。予備に購入していた未開封の分も全てビニルを剥いていく。
「何をしている、話を聞……っが」
無駄口を叩いている夫の顔面目掛けてスプレーを吹き付ける。無防備に薬剤を吸い込んだらしく、夫は背中を丸めて咳き込んだ。咳の振動に合わせて口からぼとりぼとりと蟻が落ちる。
ああ気持ち悪い。一刻も早く退治しなきゃ。
目につく黒い虫達を手当たり次第に踏み潰す。一匹一匹が小さくてまるで手応えがない。それでも足を踏みならす。真っ黒になってしまった夫の足の甲まで踏みつけると、夫は叫び声をあげて倒れ込んだ。その身体を虫が這いずり黒々と覆っていく。
ああ忌々しい。一匹だって許さない。
上からめいいっぱい殺虫剤を振りまく。夫の全身に浴びせかける。早く殺さなきゃ。スプレー缶が空になる。すぐに予備を手に取る。何本も繰り返した。
夫は逃げるようにごろごろと転がった。
ちょっとそんなに暴れてたら殺虫剤がかからないじゃない、じっとしてよ。追いかけてスプレー缶の底面で頭を何回か殴りつけて、夫はやっと静かになった。
手持ちの殺虫剤が尽きてきた頃、大量の蟻達はついに動きを止めた。夫は人型をした黒い塊と化していた。咳と涙が止まらない。目が痛い。
ああ。ああ。どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの。
時間が経って冷静になってくると、猛烈な怒りが込み上げてきた。
許せないこの蟻ども。こんなに夫に群がって、夫は私のものよ。
この家も、財産も、夫の持つ全てが私のもの。誰にも渡さない。
夥しい数の死骸を睨みつけてみたところで部屋も気持ちもどうにもならなくて、私は渋々掃除機を出してきた。でも、ろくに吸えなかった。踏み潰した奴らから出た汁と薬剤でベタベタに貼り付いて、余計に汚くなっただけだった。
こいつらはどこまで苛立たせるんだろう。死んでまでこんなに私を苦しめて。
床の染みが実家を思い出させた。不衛生で散らかっていて、いつだって身体のどこかしらが痒くって、掻きむしると爪の中に垢が入り込んで、爪先でそれを掻き出すと黒くぽろぽろと落ちるのだ。それこそ虫みたいに。
やっとこの家に潜り込んだのに、必死に這い上がってきて掴んだ綺麗な生活なのに。
動かない夫の背中を蹴り付けた。ばらばらと蟻の死骸が剥がれて少しだけ夫の身体が露出した。また床が汚れてしまった。ため息しか出ない。
とりあえず掃除機を戻そうとクローゼットを開けると、奥の方にまだ殺虫剤のスプレー缶が埃まみれで転がっていた。
全身を掻きむしりたい気持ちを必死で押さえつけて、缶を手に取った。死骸に向かって中身を振りかける。家中の収納をひっくり返すと、あちこちから使いかけのものがいくつも出てきた。
全部が許せなかった。全て、空になるまで夫達にスプレーした。使い切る頃にはくたくただった。床に転がるいくつもの缶。側面に描かれている虫達のイラストにすら憎しみが湧いてくる。
蟻だけじゃなくて他にもいるかもしれない。ゴキブリ、ハエ、チャタテムシ……ゾッとする。
隙間から私のテリトリーに勝手に侵入して、暗がりに潜んでいる。私の資産を掠め取ろうと狙っている。そんなの耐えられない、害虫駆除の燻煙剤を買ってこなくちゃいけない。
でも、今日はこれからエステの予定が入っているから続きは明日にすることにした。
ああ疲れた。今日は何て日なんだろう。
気持ちを切り替えるために、私はその場で煙草に火をつけた。
不快害虫 惟風 @ifuw
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