地面を噛む
バーニー
地面を噛む
地面を噛む
毎朝五時に目が覚める。この癖というか肉体に叩きこまれた本能は、二十五歳になっても治ることはなかった。
四時五十七分。
僕は布団から這い出し、ざらついた畳に足をつく。右足に痺れるような痛みが走ったから、慌てて枕元に置いていた杖を掴んだ。
杖に体重を預けて立ち上がると、新鮮な空気を取り込むべく窓に歩み寄る。
借家の向かいには大きな川がある。山が近いから、その水は薄浅葱に澄んでいた。その上を東からの朝暘が滑って、水面は時々白く煌めいていた。
僕は網戸を開けて、今に折れそうな手すりに体重を預け、上体を出した。苦かった空気が、一瞬にして甘くなる。空は子どもが絵の具を零したように青く、何処からか聞こえる雀の声を吸い込んでいた。風は吐息のように弱いけれど、軒先の風鈴が応えるように鳴いている。
いつもの光景。三文には満たないだろうが、僕はこの光景が好きだ。早起きの利点と言える。とはいえ、気色の悪さは拭えない。定職についておらず、事故で右足が動かせない男には不相応な光景だった。
早起きをしたのだ。爽やかにトーストでも齧りたいところだったが、食欲が湧かない。
せっかく早起きをしたというのに、僕は壁に背を持たれて、時間が過ぎるのを待っていた。足の痛みが引けば、買い物に行こうと。
カラカラカラ…と、引き戸の開く音が聴こえた。窓の外からだ。それと同時に、風が咳をして、チリンチリンと風鈴が鳴る。
誰かが出てきた。
今度は引き戸が閉まる音。軒の陰から。
ああ、今日もか。
僕は身を捩ると、窓枠に手を掛けて身体を支えた。甘い空気を吸いこんだ後、絆創膏を剥すみたいに、身を乗り出して、真下の玄関を覗き込む。
若い男の子が、後ろ手に引き戸を閉めて、河川敷へと歩み出てくるのが見えた。臙脂色のジャージを纏っていて、身体の線は細いが、筋肉は良い形をしている。特に足が良い。遠目からでもわかる。浮き出た下腿三頭筋はまるで羚羊のようにしなやかだった。
坊主頭って程じゃないけど、短い髪をした彼は、東から差し込む陽光に目を細めつつ、骨張った頬を撫でた。それからしゃがみ込み、蛍光色のシューズの紐を結び始める。
背中には「第三北高校陸上競技部」とプリントされていた。
四月から下の階に引っ越してきた高校生だ。借家を借りるってことは、推薦入学だな。
あの学校のことはよく知っている。陸上の名門。特に長距離が盛んで、都大路予選会では優勝候補として名が挙がる。
可哀そうに。きっと受験期になってもこき使われる。もし推薦が貰えなかったら…なんて考えるとぞっとする。
しっかりと靴ひもを結んだ彼は、向かいの川面を眺めながら、その場でストレッチを始めた。前屈、屈伸、アキレス腱、肩回りとほぐして、股関節、肩甲骨周りの筋肉も伸ばす。そうして、「よし」なんて呟くと、河川敷沿いに、紫色の太陽の方を見て走り出した。その勢いたるや、驚いた腱が引きちぎれるのではないかと心配になるほどだった。
いつも彼は外に出てきて走り出す。朝練だ。向かいの川は直線が長い上に車両の通行が禁止されているから、走るには絶好の場所なのだろう。僕もきっと、現役の頃なら利用する。
彼は、毎朝四十分ほど走る。最初はゆったりとしたペースなのだが、一往復、三往復とするうちに、筋肉が温まって、その速度を上げる。最終的には、自転車も追い抜くくらいのスピードになって駆け抜け、この借家の前で緩めるのだ。その時には、頬は蛸のように紅潮し、臙脂色のジャージの胸の部分が汗で黒っぽく染まっていた。
クールダウンは? 快調走は? 彼は膝に手をついて止まると、木枯らしのような音を洩らし、肩を上下させていた。
朝練で出す呼吸音じゃないなと、僕は顔を顰めるしかなかった。
「毎朝、精が出るわねえ」
箒を掃く音と共に、大家さんの声が聴こえた。どうやら、軒下にいるらしい。
「こんな朝から走ってるの? 立派ね」
「いえいえ当たり前のことです」
「私には無理だわ」
そんな会話が聴こえた。
「ああ、そう言えば、二階に住むお兄さんも、元陸上部なんだって」
そんな声が聴こえて、僕はドキリとした。慌てて窓から顔を引っ込めて、まるで銃弾を躱すかのように畳に伏せる。
「そうなんですか?」
「昔、長距離を走っていたんだって。駅伝の全国大会で区間賞を取ったこともあるって」「え、そうなんですか? すごいですね」
大家さんの口からぺらぺらと話される僕のことに、高校生は興奮して食いついた。
「ほら、玄関の真上の部屋。あそこの窓」
見えなかったが、大家さんが僕の部屋の窓を指す姿を想像する。
「走ることに関すること教えてもらいなさいよ。怪我でもう走れないみたいだけど」
僕の部屋の扉が叩かれたのは、その日の夕方だった。ご丁寧に「ごめんください。下の階に住んでいる者です」と言った。
扉は暫く叩かれていたけれど、やがて去る足音が聴こえた。
僕は安堵して、横になって眠った。
翌日も五時に目が覚めた。いつもの通り、何もせずぼうっとした。高校生は走っていた。
その日は調子が良かったから、杖を掴んで外に出た。急な階段を降り、玄関へ向かうと、ちょうど掃き掃除をしていた大家さんに出くわす。腰の曲がった彼女は僕を一瞥するや否や、「おはよう」と笑い、下駄箱から僕のサンダルを取り出して置いた。
「いってらっしゃい。転ばないように」
僕は頷き、サンダルを履いた。
すぐに帰るつもりだったのだが、スーパーを出たところで右脚が痛んで動けなくなった。イートインで休んで、結局、帰るのは夜の八時を回った。これがいけなかった。玄関先であの高校生と出くわしてしまったのだ。
「もしかして、二階に住む方ですか」
部活帰りなのか、酸っぱい匂いを漂わせた彼は、彼は目を輝かせて聞いてきた。
「もしかして、陸上をされていた」
僕は頷いた。
「やっぱり、体形でわかりますよ。種目は長距離ですよね」
僕は頷く。サンダルを脱いで靴箱に入れると、彼に背を向けて歩き出す。「お前なんか知るか」という意味だったのだが、なるほど社会経験が無いらしい。彼は金魚の糞のように僕の後をつけてきた。
「五〇〇〇のタイムって何秒ですか?」
「十五分五秒」
「もしかして一万メートルって…」
「三十一分四十秒。八分五十四秒。四分十四秒。三障は九分五十七」
聞かれる前に、三〇〇〇と一五〇〇と三〇〇〇障害のタイムを答える。首だけで彼を振り返ると、自嘲した。
「大したことないだろう」
「凄いですよ。俺なんてまだ十五分四十秒なのに」
「まだ一年だろう。すぐに十四分台が出る」
「都大路で区間賞取ったって、本当ですか?」
「嘘だよ」
彼の言葉を遮るように言った。
「区間賞を取ったのは県予選。当時は僕の調子が悪かったから、本来一年生が走る七区を貰っただけ。周りが弱かっただけ。都大路には記念大会で出場したけど、どべ二位。大したことない。出場も僕の功績じゃない。周りが速かったからだよ」
軋む廊下を進み、階段に辿り着いた。大家さんが僕のために付けてくれた手すりを掴み、右手で杖を突きながら登っていく。
「脚、悪いんですか?」
高校生は僕の部屋までついてきた。僕は「それじゃあ」と言って、鍵を使って扉を開ける。数センチ開いた隙間から、彼が覗き込むのがわかった。僕の部屋に何を期待していたのか、失望したような色を浮かべる。
「面白いものなんて無いよ」
そう言ってやった。そのままの意味だ。僕の部屋には本棚も机も、箪笥も無い。段ボール箱が二つだけ。
部屋に踏み入れようとしたとき、高校生が「あ」と声をあげた。
「それ、ソーティージャパンですか」
彼が指さした方、扉を開けたすぐ足元に、黒のランニングシューズが置いてあった。正確にはレーシングシューズ。ソールは足袋を彷彿とさせる程に薄く、アッパーは丁寧に縫い付けられていて、買った時の形を保っていた。もう二年以上放置しているから埃もぐれだ。
「旧モデルですよね。実物見たのは初めてだ」
「要るならやるよ。確か、試走と、県予選と、都大路でしか使っていない。もう七年も経ってるから、中が朽ちてるかもしれないけど…」
「え、良いんですか」
高校生はしゃがみ込むと、そのシューズを手に取った。ぱっぱっぱと埃を払い、うっとりとした目でそれを見つめる。
「カッコいいなあ。薄くて、軽い。靴紐は変えてるんですか? 他と色が違う」
「前に使ってたソーティマジックRPのやつを継いだ。あいつも相棒だったから」
「あ、でもダメだ。サイズが合わないや。俺、二十七センチだから」
高校生は顔を顰めると、サイズが二十五センチのシューズを元あった場所に置いた。
「だろうな、背、高いから。お前タイム伸びるよ」
彼の身長は、僕よりも拳二つ分ほど高かった。脚も無駄な筋肉が付いておらず、真っすぐ。胸板は薄く、肺を最大限に膨らませられる形をしていた。伸びしろしかない体型だ。
僕に褒められた彼は、「ありがとうございます」と無邪気な笑みを浮かべた。
「第三高校って、朝練やってないの?」
「やってますよ。でも、それだけじゃ足りないので、朝は河川敷で走っています」
「ああそう」
オーバートレーニングで怪我しそうだな。
「自主練のメニューは?」
「ビルドアップです」
目測三分十秒までは上げていそうだ。
「朝からそんなに。凄いな」
「いや、まだ足りませんよ。俺より速い奴ごろごろいるから。もっと頑張らないと」
「やめとけ」
そうか…と相槌を打つつもりだったが、思わず嘲笑が洩れていた。無かったことにするわけにはいかないから、全部絞り出す。
「気負うな。それで結果が出なかったらどうする。やってきたこと全部無駄になる。部活なんて勉強と遊びの合間にすればいい」
当然、高校生は面食らったような顔をする。
「結果が出ない、とは」
「報われないことなんて山ほどある。長距離だけでどれだけ選手がいると思ってる。その中で一番になるのか。無理だね。そういうのは大抵、才能と天に恵まれた奴だけだよ」
僕は早口でそう吐き捨てた。これで良いと思った。きっと彼は僕を軽蔑して、二度とこの部屋に立ち寄らない。
「俺はそうは思いませんね」
高校生は、苛立ちというよりも、何か不思議なものを見るような顔をして、僕の言ったことを否定した。
「頑張ればきっと結果はついてくると思いますし、例え出なくても、きっと、僕の心は強くなっていると思います」
もう結構。僕は高校生から視線を逸らすと、片手を挙げて「じゃあな」と言い、強引に話を終わらせた。
扉を閉じようとしたとき、彼が聞いた。
「先輩はどんな朝練をしていたんですか」
「ビルドアップ。時々インターバル」
扉を閉めた。
その日は昔の夢を見た。高校生の時の夢だ。僕の周りには陸上部の仲間がいて、合計十四人、隊列を組んでグラウンドを走っている。最初はゆったりとしたペースだったが、段々と速くなって、競い合うようになって、僕が最初に隊列から脱落して、彼らの背中を追う…。そんな夢。無理して追いつこうとすると、現実でも足が動いて、その振動に驚いて目を覚ます。時計を確認すると、やっぱり朝の五時で、なんだか神様に笑われているようで腹立たしい気持ちになった。
そう言えば、同級生の中で、僕が一番弱かった。先生はよく、僕のことを「駄馬」と呼んだ。競馬が好きだったのか、それとも、古文の先生だから、駿馬の対義語を使っただけなのかは知らない。僕はその「駄馬」って言葉が嫌いだった。
窓際でぼーっとしていると、玄関の引き戸が開いて、ジャージ姿の高校生が出てくるのが見えた。覗いていると、目が合った。
「おはようございます!」
彼は朝日に似合う、爽やかな笑みを浮かべた。
一週間くらい経った。
その日は日曜日で、朝から大家さんにお使いを頼まれた。
「右脚が痛いんだけど」
「タクシー代出してあげるから。余ったお金で饅頭買いなさい。後でお茶にしよう」
甘いものは好きだ。現役の頃、太るから食べることを禁止されていたから。
杖を突きながら、商店街を巡る。肉屋、八百屋、文具屋の順に足を運び、最後に堂々咲製菓に寄って饅頭を買った。さて後は帰るだけだったのだが、その途中右脚が裂けるように痛くなって、歩けなくなった。
仕方なく、スーパーのテラス席で休む。自分用に買ったどら焼きを食べて気を紛らわせようとしたのだが、だめだ。一口噛んで、飲み込むこともできず、僕はテーブルに額を擦りつけて悶えた。
「あの、大丈夫ですか?」
聞き覚えのある声。顔を上げると、あの高校生が見下ろしていた。いつものジャージ姿ではなく、ジーパンにTシャツとラフな格好をしていた。ショルダーバッグを掛けていて、右手にはポカリスエットのボトルが握られている。そうか、フリーの日か。
彼は額に浮いた汗を拭うと、また聞いた。
「大丈夫ですか? 右脚、痛いんですか?」
「いつものことだから」
僕はそっけなく言い、テーブルの下に隠れた右脚をパチンと叩いた。
「現役時代の怪我ですか」
「いいや、五体満足で戦力外通告受けて引退したよ」僕は首を横に振る。「怪我は大学の時に、バイクで横転したんだ。肉が抉れて、骨が砕けた。今は金属が入っている」
事故の話に、彼は痛そうに顔を顰めた。
「バイク、好きなんですか?」
「いいや、その方が速いからだよ」
僕はただそれだけを答える。
「バイクの方が、速く走れるからな。走る行為がバカバカしくなる」
完治とまでは行ってないけど、もうほとんど治っている。リハビリにはもう二年も行っていない。
話はそこで途切れた。途端に狂騒が迫って来て僕を包み込む。向かいを走る車の音、自転車の音、テラスの楽しそうな会話や、場を弁えないセミの鳴き声。鼓膜の三センチ先で混ざり合って、目の前の彼の輪郭が歪んだ。
傍にあった自動ドアから、誰かが出てくる。漏れた冷気が、汗ばんだ頬を舐めた。
彼はしつこく口を開いた。
「あの、一つ聞きたいんですけど、先輩って、陸上やってたこと後悔してるんですか」
「しているね」
即答だった。
「何の成果も得られなかった。毎日三十キロ走っても、自主練しても、疲労骨折で動けなくなっても、何も残らなかったから」
パタパタ…と足音がして、また、店から誰かが飛び出してきた。エプロンがちらりと見えたから、多分店員。そいつは、先に出た者の腕を掴んで引き留めた。
僕は話を続ける。
「頑張ることは良いことだと思っていたけど、結局、何処にも行けなくて、馬鹿にされて、歩けないゴミが残ってた」
店を後にした者を引き留めた店員は、「ねえ、まだお金払ってない商品あるでしょ」と言った。喉にものを詰めるみたいなうめき声が聴こえた。店員は物怖じせず、強い口調で言う。「ちょっと事務所まで来て」と。
そんなやり取りには構わず、将来有望の彼は口を開いた。
「じゃあ、先輩、もう一つ聞くんですけど…」
その時だった。視界の隅で店員が突き飛ばされた。よろめいた彼は、踏みとどまろうと千鳥足を踏んだが、タイルの段差に踵を引っかけて、盛大に尻もちをつく。突き飛ばした方はと言うと、店員に目も暮れないで踵を返し、逃げ出していた。
「先輩って、走るの好きですか?」
瞬間、僕は椅子を倒して立ち上がっていた。
「待てよ! クソが!」
握っていた杖を、逃げて行った男へと投げつける。一直線に飛んで行ったそれは男の足に当たった。縺れて、男を転ばす…とまではいかなかったが、大きくよろめく。
逃がすまいと、僕は走り出した。ダメだ、サンダルだから踏ん張りが効かない。一秒の躊躇もなく脱ぎ捨て、焼けたアスファルトに母指球を押し付けた。
それはまるで、地面を噛んでいるかのようだった。エネルギーが皮膚の下で弾ける。つんのめった僕の身体は、一瞬にして最高速度に到達。雑踏の歩道へと飛び出していた。
酸欠で視界が白く褪せる。火花が散る。贅肉がこびり付いた男の背中を捉えると、獲物を見つけた猫のように飛び掛かった。
何とか、男のシャツの裾を掴んだ。
その時だ。右脚に激痛が走る。思わず呻き声が洩れる。瞬間、指の力が抜けた。
離せ! と男の声がくぐもって聴こえたかと思えば、胸を突き飛ばされた。踏ん張ることもできず、腰を強かに打ち付ける。痺れるような痛みに顔を歪めている間に、その後ろ姿は遠く遠くへと離れていく。
「待てよこの野郎」と叫んだ僕は、すぐに立ち上がる。だけど脚に力が入らず、アスファルトにキスをするような形で転んだ。舌を噛んだようで、鉄の味が込み上げる。
「先輩、僕が追いかけます」
僕の横を、高校生が通り過ぎた。羚羊のような脚をしならせて、黒いアスファルトを踏みつけた時、スニーカーとは思えない鋭い足音が弾け僕の鼓膜を揺らす。横目で僕を一瞥した彼は、風を切り裂くように加速し、雑踏へと消えていった。僕はそれを、激痛の余り涙を滲ませながら見つめていた。
食いしばった歯からはずっと「クソ」と、自分に対する悪態が漏れ出ていた。
彼が戻ってきたのは、その五分後だった。
「すみません、逃げられました」
ばつが悪そうにそう言った彼の手には、大蒜チューブの箱が握られていた。それを見て、僕を介抱していた店長さんが歓声をあげる。
「ああ、取り戻してくれたんですね」
高校生に追いつかれそうになった犯人は、盗んだものを諦めて投げつけて来たらしい。
一応警察を呼んで、僕らはその場を離れた。
「凄かったです。先輩」
歩きながら、彼が僕を褒める。その顔には玉のような汗が浮かんで、目は煌めいていた。
「男が逃げ出した時、真っ先に走り出しましたよね。判断が早かったこともそうですが、フォームですよ、フォーム。凄く洗練されてました。それでいて力強さがあって…。流石区間賞保持者」
「もういいもういい、言うな」
恥ずかしくなって、僕は彼を手で制した。
「結局、百メートルと走れなかった」
「無駄じゃありませんでしたよ」
僕の言葉を遮るように彼が言う。
「無駄じゃありません。先輩がやってきたことは、何も無駄じゃありません。ちゃんと、あなたの役に立ちました」
「何の役にも立っていない」
先生は、よく僕を「駄馬」と呼んだ。
「無駄じゃありません」
それでも、彼は力強くそう宣言する。
「無駄じゃ、ありませんでした」
「うん、わかったよ」
僕は頷いた。
三か月後、新人戦があるというから、僕は隣町の陸上競技場まで彼の試合を観に行った。
杖を突きながら第三北高校の陣営に歩いていくと、先に気づいた彼が駆け寄ってきた。
「先輩、来てくれたんですね」
「ああ、うん。来たよ。頑張れよな」
「どうやってきたんですか?」
「電車」
「あれ、でも、借家から駅まで、二キロくらいありますよね」
「ああ、うん。歩いた」
そう答えると、彼は信じられない…とでも言うような顔をした。それから視線を落とす。僕の足元を見た時、「あ…」と声をあげ、また顔を上げた。
「そのシューズ」
「うん、ソーティージャパンだよ」
僕の足は、もう七年も使っていないレーシングシューズを履いてあって、黒いアッパーが日の光に当てられて重い光を放っていた。爪先で地面を叩いた後、ストレッチをするように足首を捻る。
「やっぱり良い。吸い付くような履き心地だ」
「でも、大丈夫なんですか? レーシングって、ソール薄いから、足の負担になるかも」
「だろうね」
僕はそれを理解した上で、彼に言った。
「なあ、こいつを履いて駅まで歩いた時、思い出したんだよ」
「何をですか」
「レーシングシューズって、地面をしっかり捉えないといけないから、ソールに小さな突起が大量についているんだ。スパイクみたいにさ」
「ええ、付いてますね。僕もルナスパイダー使っていますからわかります」
「少し踏み込むだけで、その突起が地面を引っ掻いてさ、音がするんだよ。ガリリ…って」
「ええ、しますね」
彼は目をぱちくりとさせながら相槌を打つ。
「それが、どうしたのですか」
僕は頷く。
「好きだったんだよ。この感触がさ」
地面を踏みしめた足。ゆっくりと上げると、ソールの突起が地面を掻いて、ガリッ! と音を立てる。
「僕は好きだったんだ。大事な試合の時に、こいつを履いて走るときにする音が。ガリリ…、ガリリ…って」顔を上げる。「まるで、地面に噛みついているみたいで」
僕の言っていることを理解していない彼は、口を半開きにして、「はあ…」と曖昧な相槌しか打たない。でも僕はそれで構わなかった。
「好きだったんだ。地面に噛みつくことが」
本当に、大好きだった。
一番になりたかったわけではない。有名な大学の推薦をもらいたかったわけでも、ちやほやされたかったわけでもない。
ただ僕は、走ることが大好きだった。
「なんで忘れていたんだろう」
そう呟いた時、僕と彼の間を、秋の風が吹き抜けた。冷たかったけれど、僕の右脚には、焼けるような熱が宿っていた 了
地面を噛む バーニー @barnyunogarakuta
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