第32話 前に進むために
吉川と付き合いだしてからの日々は、以前に増して輝きを増して見えた。
プライベートが満たされれば、仕事の活力に繋がり、心にゆとりが持てれば、自分にも他人にも寛容になれる。
狭まっていた視野は広がっていき、小さな幸福を見つけることもできるようになる。
道路の脇に咲いていた花が綺麗だった。
通勤時にすれ違った散歩中の犬が、目が合ったときに笑うような表情を浮かべていた。
コンビニで流れていた曲がとても好みだった。
当たり前にそこにあったもの、見落としていたものに気付けた。
吉川との日々は、そういう幸福の積み重ねの上に成り立っていた。
一緒に食べるご飯が美味しく感じる。
ソファーに並んで座り、隣から感じる気配や触れた箇所か感じる温もりに心が安らいだ。
晴れた日は並んで、雨の日はたまに一つの傘の下で身を寄せ合うように歩いた。そんなただ一緒に歩いている時間ですら特別なものに思えた。
肌が触れ合う喜びを、心を重ね合える幸せを日々感じていた――。
そうやって、吉川との絆を強く深いものにしていくたびに感じる、かすかな違和感と苦しさ。
誰かと似たようなことで、幸せを感じていた日々があったなという思い出せない靄がかった幸福の記憶。
吉川と恋人になり半年以上が経ち、吉川との未来を考えるにしても、まずはこの妙な感覚の正体を知りたいと思った。
そのために、休日を利用して、一度実家に帰ることにした。
「そういえば、俺はなんで帰ってくることを避けてたんだっけ? 会社近いから、一人暮らしする必要も本当はないんだよな」
一人暮らしを始めたきっかけが何故か思い出せなくなっていた。
一人暮らしをすることのメリットはたしかにある。実家より会社に近いとか、自分だけの空間と誰の目も気にしなくていい気楽さや自由が保障されていることだとか、いくつかあげることができる。
実家に住んでいたら、吉川と付き合うことも何かと不便があったに違いない。
きっと社会人として独り立ちしようと過去の自分は思ったのかもしれないと、結論付けることにした。
そうして、久しぶりに帰ってきた実家は、俺が生まれ育った家で、いつ帰ってきてもいい場所で、たまに面倒だと思うこともあったけど、尊敬と感謝を抱く大事な両親がここで今も暮らしている。
「ただいまー」
学生時代に学校から帰ってきたように、遊びに行って帰ってきたときのように、今まで幾度となく口にした言葉を玄関扉を開けながら口にする。
反応がないことが少し寂しく、ただそれも思い返せばよくあることだったと笑うことができる。
リビングに入って、もう一度口にすると、ソファーでお茶を片手にテレビで再放送のドラマを見ていた母さんが驚いた表情を浮かべていた。
「びっくりした! 帰ってくるなら言いなさいよ」
そう小言を言われるが、次の瞬間には「おかえりなさい、悠」と優しい母親の顔で迎え入れてくれる。
「それで急にどうしたの?」
「ちょっと自分の部屋に探し物」
「そう? 晩ご飯は食べる?」
「いや、それまでには帰るよ。それで父さんは?」
「弓月さんと釣りに行くって、朝早くに出掛けていったわ」
「そうなんだ。ねえ、部屋はそのままだよね?」
「ええ、軽く掃除してるくらいよ」
「ありがとう、母さん」
そう感謝を口にして、リビングをあとにした。
平静を装っていてけれど、“弓月”という名前を聞いた瞬間、俺の心臓は大きく鼓動を打っていた。
そして、久しぶりの自分の部屋に入る。一人暮らしの部屋に色々と持って行ったので荷物は減っているけれど、見慣れた部屋に懐かしさがこみ上げる。
好きだったサッカー選手のポスターを貼っていた壁に残る小さな穴。
扉の脇に置かれたラックもそのままで、今もかつて着ていたアウターや高校時代まで愛用していたマフラーが掛けられていた。
本棚にはサッカー雑誌や漫画、参考書などが隙間を空けて、雑多に並んでいる。
机の上は綺麗に片付いていて、置かれているのは写真立てだけだった。
そこに飾られている写真は、中学校時代に今も仲がいいみんなで撮った写真だった。
それも何か特別な行事やイベントのときに撮ったものでもなく、何でもない日の放課後に教室で撮ったものだった。
そのときのことを今も思い出すことができる。
放課後に教室で残って話していたら、先生に早く帰れと急かされ、「まあ、来年の今ごろは受験、受験で遊んでる余裕はないだろうけどな」と軽い口調で言われた。当時の自分たちには言葉の意味は正しく理解できておらず、
「それなら、今のこの楽しい時間を残そう」
そう誰かが言い出した。それから、渋い顔をする先生に頼みこんで、誰かのスマホで写真を一枚だけ撮ってもらうことになった。
まず俺と健太が椅子に座ったまま肩を組んでバカみたいに笑いながらピースサインをした。健太のすぐ後ろに立っていた横沢が健太に覆いかぶさるようにしながら、満面の笑みを浮かべながら顔の横でピースをしてポーズを決めた。乗り遅れないように高山は横沢に抱きつくようにポーズを取った。
それを近くの机に浅く腰かけて見ていた拓也が「お前ら、ノリよすぎんだろっ! まじでバカじゃん!」と大笑いしながら、親指をカメラに向けて立ててポーズをする。
最後に吉川がみんながやってるからという感じで、控えめに身体の前でピースサインを作ったところで先生がスマホのカメラで、その楽しい一瞬を切り取った。
写真は、撮ったときの空気感や思い出も一緒に閉じ込める。
だから、この写真を見るだけで、明るく楽しい気持ちになれた。
そのはずなのに、今はこの写真を見ると胸の奥にわずかながら疑念が湧いている。
この写真を見て、当時のことを思い返したとき、横沢が健太にやっているように俺の背中に誰かが覆いかぶさってきたような重みと温もりをなぜか思い出している。耳元で誰かが楽しそうに笑っていたような気がしてしまう。
だけど、もちろん写真にはそんな人間は写ってはいない。
ふと中学校の卒業アルバムを確認したくなった。
本棚を探してみるも、高校の卒業アルバムしか並んでいなかった。
「どこに置いたっけな……」
そうぼやきながら、机の引き出しを上から順に探していく。
使いかけの文房具に暗記用の色付きのシート、お菓子か飲み物に付いていたであろうおまけのシールやミニチュア。とりあえず突っ込んだであろう、ノートの切れ端やルーズルーフ、いつのものか分からない小テストの答案も出てきた。
一番下の引き出しに手を掛けたとき、ふいに指が強張った。
息を一つ吐いて、気を引き締め直し、最後の引き出しを開けた。
まず目に入ったのは、昔使っていたスマホと、学校の外観の写真と校名が印字された中学校の卒業アルバムの外箱。
スマホを机の上に置き、中学校の卒業アルバムを取り出すと、その下には市販のアルバムが、さらにその下から小学校の卒業アルバムも出てきた。
自分でここに収めたはすなのに、その記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
椅子に座り、中学校の卒業アルバムをペラペラとめくっていく。
クラスごとの集合写真や個人写真。そこに今から見れば幼い表情をした自分や仲のいいみんなが写っている。
文化祭でみんなでダンスをしている写真が載っていて、これぞ青春という感じで
懐かしさを感じながらページをさらにめくる。
体育祭のページには、アンカーで走った自分の写真があった。前の走者が健太でバトンを渡されながら声を掛けられたことや、クラスのテントからの応援の声がすごかったことを思い出す。
チアをした横沢たち女子の写真を見ながら、体育祭の数日前の休憩時間に隣のクラスから来ていた高山が、振りを覚えられないと愚痴りながら、横沢に泣きつこうとしていたことを思い出した。
部活の集合写真と練習風景の写真を見て、きつかったけど楽しかったことを思い出す。
ソフトテニス部には横沢や高山、拓也が所属しているから、サッカー部の休憩時間に健太とテニスコートに練習を見に行き、拓也に野次を飛ばしていたことも今は懐かしい。
修学旅行のときの写真もあった。京都に奈良にと古都を巡り、USJでの自由時間がとても楽しかった。ずっと笑っていた記憶しかない。
ぽたりと、アルバムに涙が落ちた。
「……あれ?」
自分でも泣いていると気付いていなかった。手の甲で涙を拭うも、涙は止まることなく流れ続けた。
どうして泣いているのか分からなかった。
ただ胸の奥が苦しかった。
それでも、アルバムをめくる手は止められなかった。
最後の寄せ書きで真っ黒になったページに、折り畳んだルーズリーフが挟まっていた。
それを手に取り、開いてみると、まるで記憶に残っていない、自分に宛てた手紙だった――。
その手紙を読んだ瞬間、
――ユウくん
そう誰かに呼ばれたような懐かしい気配を感じた――――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます