第五章 温もりを探して
第25話 パラドックスと決意
ハルちゃん――
ハルちゃんのことを思い出そうにも、思い出すためのきっかけがなく、そもそも思い出せるエピソードが今の俺の中にはなかった。
ハルちゃんの顔立ちや体型を知らない。
ハルちゃんの声も分からない。
ハルちゃんの性格も知らない。
それでも、ハルちゃんをぼんやりとした影のような存在として感じることがあった。
朝、学校に行くために玄関に行くと、玄関の段差に座って見上げてくるような視線を。
夜、コンビニに買い物に行くときは、ずっと隣に一緒に歩いている誰かを。
中学校の脇を通りながら、外からグラウンドを見れば、横沢や吉川たちがソフトテニス部の練習の休憩中に、サッカー部に野次や声援を飛ばしていた木陰から名前を呼ぶ声が。
神社の前でふと立ち止まれば、誰かが近づいてくるような。
時々、名前を呼ばれる。
笑い声が聞こえる。
視線を感じる。
誰かの気配を、目で追いかけている。
でも、現実では何も聞こえないし、誰もいない。
それらはきっと記憶の残滓で、思い出の欠片なのかもしれない。
同時にそれは幻聴や錯覚と呼ばれるものであることも確かだった。
それでも、そういうことが続けば――そこに、俺自身が送った覚えのない、過去に毎日のようにハルちゃんに送っていたメールの内容と合わせて考えれば、弓月悠という女の子がいたということは確かなのだと思えた。
だけど、この世界に存在していたことを、俺も含めて誰も知らないし、覚えていない。
弓月悠という女の子は、幼稚園から中学校までずっと一緒だったと俺のメールに書いてあったので、同じようにずっと一緒だった親友の
駅前のファストフード店で、雪がちらつく中を学生や仕事帰りの人が行き交う姿が見えるカウンター席に健太と隣り合って座った。
「学校帰りに悠と話すの久しぶりな気がするな」
「そうかもな。俺はバイトや塾、健太は部活で忙しいもんな」
「いや、主な原因はお前だからな、悠。分かってるか?」
健太は本気のトーンの声音で、作ったような不満げな表情を浮かべていた。
そのまま顔を見合わせると、すぐに噴き出してしまい、声を出して笑い合った。
健太は緩みきった空気と途切れた会話を一度仕切り直すように、買っていた飲み物に口をつけた。
「それで、急に呼び出して、聞きたいことってなんだよ? 電話とかじゃダメだったのか?」
「それでもよかったけど、久しぶりに顔を見て話したくなったんだよ」
「嬉しいこと言ってくれんじゃん。それで?」
「なあ、“弓月悠”って女の子、知ってる?」
「知らないけど――いや、待って。前に同じ名前を悠の口から聞いたことがあったな。あれ、いつのことだっけ?」
健太は腕を組んで、本気で思い出そうと悩んでくれている。
それはありがたいことだけれど、健太の反応で健太自身はハルちゃんのことは知らないということも分かり、悲しくもなった。
「ごめん。思い出せないわ」
「いいよ、気にすんなって」
健太は謝ってくれるが、そもそも俺は健太にハルちゃんの名前を言った覚えがなかった。
それから、誤魔化すようにすぐに別の話題を振って、雑談で盛り上がり、進路をどうするかという真面目な話で会話の内容を上書きして、久しぶりに一緒に帰った。
健太と俺の不自然すぎる記憶の食い違いが、ハルちゃんと恋人だった別の俺がいたんだということを示しているように思えた。
それにたまに見る影や、感じる気配に、ハルちゃんはいたという感覚的な実感はたしかにある。
ただハルちゃんがいたかもしれないという証拠は、過去の自分が送ったメールとスマホに登録された名前しかない。
それだけしかないのだ。
だからといって、ハルちゃんが俺の想像の産物で本当はいなかったということにもならない。
なぜならハルちゃんがいなかったことを、誰にも証明することもできないからだ。
誰にも相談のしようがなく、誰とも共有できなくて、誰からも共感されない――。
日々、影に惑わされていては、心も身体も休まることはなく、すり減っていくのを感じていた。
ハルちゃんという存在に縛られ、囚われ、影を見ては存在しないものを追いかけ続けている。
呪われている――。
きっと今の俺を表すには、これ以上ない言葉なのだと思う。
好きな人に呪われ続ける。
それは悪くないように思えた。
しかし、ハルちゃんと過ごしたのは、幼稚園から中学三年の夏までなので、単純計算で十年と少しだ。長いように思える時間だけれど、平均寿命が八十歳として、これからの人生を考えれば、ハルちゃんと過ごした時間よりも圧倒的に長い年月が残っている。
このまま思い出せない過去と今ここにはいないハルちゃんを見続けていては、現在も未来も、友達も家族も、自分さえも見ていないということだ。
冷静に考えれば考えるほどに、それではダメだと理性が正論を吐いて、夢見がちで未練がましい感情を殴りつける。
もしハルちゃんが戻ってくることがあったとしても、もしこのままハルちゃんがいないままの人生を送るにしても、まずは自分ありきだ。
生活力や経済力のような基盤がなければ、支えることも力になることもできない。
そもそも、それらは普通に生きていくうえで必要なものだ。
だからというわけではないが、大学進学を機に、一度地元から、ハルちゃんの気配の残るこの場所から離れようと思った。
俺が
そうやって、独り立ちすることができて、何者かになれたら、胸を張ってハルちゃんと、ハルちゃんの影と向き合えるような気がした。
ただ人間は変わり続ける生き物で、過去を忘れていく生き物だ。
ここを離れたら、それこそ他の人たちと同じようにハルちゃんのことを忘れてしまうかもしれない。
そのときは
「ハルちゃん、行ってきます。そして、もしかすると、さよなら――」
引っ越しの日に、これが最後になるかもしれないと思い、一番ハルちゃんの気配の濃い、ハルちゃんが住んでいた家の前でそう別れの言葉を口にした――――。
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