第24話 それでも今日も月は昇る
先に戻ったバスの中で、ずっとスマホを見ていた。
自分で送っていたことすら、記憶から消えかけているメールの数々を読み返した。
毎日の生活のこと、ハルちゃんがいたらどうしていただろうかという想像の話、幼い頃から積み上げてきた思い出。
どれだけハルちゃんのことを大事に思っていたのか、好きだったのか、よく知っていたのかは、メールの文面を見れば、痛いほど伝わってくる。
そして、何度も『ハルちゃんのことは忘れないから』、『あの花火の日のハルちゃんの姿は忘れない』と書かれていた。
それはまるで、忘れたくないという思いを自分に言い聞かせているようだった。
だけど、今の俺には、そこに書かれている自分の気持ちや記憶を、完全に理解することはできなかった。
ただ文字による情報としか、捉えることができなかった。
俺の修学旅行はこうして終わりを迎えた。
楽しいはずの修学旅行は、表向きは体調不良による途中離脱ということになった。
同じ班のみんなからは、俺が言ったからか写真や動画が送られてきたが、それを見ても羨ましいとも寂しいとも思わなかった。
きっと大事な人を忘れてしまったショックで心に空いた穴が大きすぎて、どんなことも素通りしてしまっているからかもしれない。
空港に向かうバスの車内でも、帰りの飛行機の中でも、修学旅行中ずっとそうだったように、吉川が隣にいた。
吉川は無理に話しかけてくることもなく、ただ隣にいて、寄り添ってくれていた。
その距離感が、時折触れる膝や肩から感じる温かさが、今は心地よかった。
飛行機を降り、空港で点呼を取り、そのまま解散になった。
先生が連絡していたこともあり、母さんが車で空港まで迎えに来てくれていた。
先生と母さんが話している間、他の生徒が帰り始める中で、吉川だけが残って心配そうな顔をして、俺の隣にいてくれた。
「
先生との話を終えた母さんは、今度は吉川と話しだした。
「私は何もしてないですから。ただおばさんに連絡して、羽山くんのことを見守るくらいしか……」
「それで十分よ。本当にありがとう。初玖ちゃんが悠と同じ学校でよかったわ」
母さんは吉川に笑顔を向ける。吉川も照れたように笑い返していた。
それからお礼に吉川を送っていくことになった。
母さんの運転する車の中でも隣に吉川がいて、母さんと修学旅行のことを楽しそうに話していた。
きっと少し前のメールを毎日送っていた自分なら、今のこの状況や空間に苦痛を感じていたのかもしれない。
だけど、吉川とは幼稚園からの付き合いで、吉川が俺の親と仲良く話せるほどの付き合いがあるのと同様に、俺も吉川の両親とそれなりの面識がある。
友達を含めてだが、何度もお互いの家に行ったことだってある。
今の俺にとっては、この世界こそが普通で、霧がかった記憶の向こう側の世界のことは分からない。
それなのに、心の奥底になにか晴れない思いや、沈み込んでしまった感情があることだけは感じていた。
吉川を送り届け、久しぶりと思える自宅に帰ってきた。
自分の部屋に戻ると、立っていられないくらいの疲労感を感じ、目を開けているのもしんどくなりそのままベッドに身を預けて眠った。
目を覚ますと、部屋の中は静かで真っ暗だった。
手探りでスマホを見つけ、電源キーを押し、ロック画面を表示させる。
時間は深夜三時過ぎで、LINEの通知が溜まっていた。
内容を確認することなくスマホをズボンのポケットに突っ込み、いつものように扉の脇のラックに掛けてあるマフラーを手に取り、家をそっと抜け出した。
どこか行きたい場所があるわけでもなく、散歩をしたいわけでもなかった。
ただ今はそうしないといけないという強迫観念にも似た心のざわめきに従っての行動だった。
「さむっ……」
家を出てすぐに、上にもう一枚羽織ってこればよかったと後悔した。
腕をさすりながら歩き、何も考えずともすぐに辿り着く場所にある家の前で足を止める。
そこは弟のような存在の翔の家で、ハルちゃんという思い出せない女の子が住んでいたはずの家で。
誰もいない深夜なのに、すぐ近くに誰かの気配を感じる。
いつも誰かとここで話したり、待ち合わせたような不思議な感覚。
見上げた二階の右の部屋の窓に、懐かしい気配を感じる。
「もう覚えていないはずなのに、もう何も思い出せないのに、どうして……」
こんなにもハルちゃんの存在を感じるのだろうか――。
もう声も姿も思い出せないのに、心の中に残るわずかな気配に愛おしさを感じている。
俺にとっては、
その弓月悠という女の子と一緒に育ち、恋人になったというメールの文面にしか残っていない記憶の底の、さらに向こう側にある世界のことを知るはずもない。
それなのに、俺の中にはたしかにハルちゃんを好きだという気持ちが残っている。
どんなに世界がハルちゃんの存在を否定しても、消せなかった想いが。
修学旅行先で倒れて目が覚めた後も、家に帰って眠りについたときも、目を開けているのがしんどいと思ったのは、ハルちゃんのいない世界を見たくないと無意識に思ってのことなのかもしれない。
「
もう名前しか分からない。それもスマホの連絡帳にあったから覚えているだけだ。
俺が好きになった女の子は、どんな女の子だったのだろうか。
笑顔がかわいい女の子だったかもしれない。髪をあまり長く伸ばさない女の子だったのかもしれない。美味しそうにものを食べる女の子だったのかもしれない。
それは俺がいいなと思う女の子のポイントで、もしかするとその基準になった子なのかもしれない。
「会いたいなあ……」
そう言葉にした瞬間、涙が溢れてきた。
泣いているせいで体が熱いのに、体の奥底は凍えるほど寒かった。
鼻をすすりながら、ふいに空を見上げた。
「“ハルちゃんの月”だ……」
そんな知らない言葉が口をついて出てきた。
覚えていないだけで、心にはまだハルちゃんの記憶が刻まれている。
そのことが嬉しくて、同時に思い出せないことが悲しくもあって、相反する感情にただ泣きながら立ち尽くすことしかできなかった。
空には、下弦の月が涙の海に浮かび、世界を照らしていた――――。
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