第23話 不条理な世界で

 意識がゆっくりと戻ってくる――。

 頭がきりきりと痛み、胸が締め付けられるように苦しい。

 いつの間にか横になっていて、目をゆっくりと開けると知らない床が見えた。

 体を起こそうとするけれど、頭痛のせいか、そんな気力も元気もなく、このまま横になっていた方が楽だなと思い直し、ゆっくりと寝返りを打つように上を向いた。

 照明の光が眩しくて思わず目を細めていると、


「あっ、羽山! 目が覚めたんだね。よかったぁ……」


 隣に座っていた吉川が心配そうに俺の顔を覗き込んできた。


「目が覚める……? どういうこと?」

「羽山、急に倒れたんだよ。それで今は店の奥の廊下で寝させてもらってたんだよ」

「そう……だったんだ。俺はなんで倒れたんだ?」


 吉川は小さく首を横に振る。


「羽山……急に、バタって倒れたからさ。もしかして、ずっと体調悪かった?」

「そんなことはないと思うんだけどな。少し疲れてたのかも。それでどれくらい倒れてた?」

「えっと……だいたい十五分くらいだよ」


 吉川は手に持っていたスマホを見ながら答えてくれた。


「それで先生にも羽山が倒れたって連絡したから、こっちに来てくれてるところ」

「そっか……なんか迷惑かけたな。それに修学旅行を台無しにしちゃって……後でみんなに謝らないとな」

「謝らなくてもいいんじゃない? さっきまで、羽山が倒れたのは、もしかしたら自分たちが負担掛け過ぎたせいかもって、みんな顔青くしてたから」

「急な体調不良だろ? あいつらと何の関係があるんだよ?」

「さあね。何か思い当たることがあるんじゃない?」


 吉川はスマホを持った手で口元を隠し、目を細めながら、いつものようにクスクスと控えめに笑う。

 昔からの付き合いの吉川と話して、気持ちが楽になったのか頭痛もかなり和らいだ。

 ゆっくりと体を起こし、廊下の壁にもたれかかるように座った。吉川は俺が起き上がるのをサポートしてくれ、そのまま隣に同じように壁に背中をつけて座った。


「辛かったら肩貸してあげるから、私にもたれかかってもいいよ」

「いや、いい。さすがにそこまではね」


 吉川の優しさは素直に嬉しいけれど、今は吉川からの厚意に甘えることはできない。

 というのも、俺は一昨日の夜に吉川が俺のことを好きだということを不可抗力で知ってしまったからだ。俺は吉川の気持ちには応えられないので、こういう状況であっても期待させるような行動は取りたくないと思っていた。


「…………?」


 そこで思考が止まる。

 なんで吉川の気持ちに応えられないのだろうか。

 俺には付き合っている相手もいないし、好きな人も今はいない。

 いや、好きな人はいた……ような気がする。

 自分の気持ちなのに曖昧だなと思うけれど、自分の気持ちを自覚するというのは難しいときもあり、人に指摘されて初めて知る自分の一面というものあるのだから、気付けないということは何も悪いことじゃない。

 そして、そういう無自覚に好きな人がいると思っていて、それが吉川ではないので、吉川の気持ちを知らなかったことにして、距離を取ろうとしていた。

 吉川は幼稚園からずっと一緒で、同じ仲のいいグループに属していて、俺がさっき倒れる前も別の高校に通うその仲のいいグループの友達へのお土産を、一緒に買おうと選んでいたはずだ。

 吉川の気持ちを知る前から、友達のはずの吉川のことを遠ざけるような行動を不思議と多くしていた。

 朝の電車を一本早い時間に変えたり、吉川といる時間をできるだけ避けるようにバイトをし始めたり、さらに吉川が通う塾とは別の塾にわざわざ通い始めたりしていた。

 そんな面倒で無駄としか思えないことを、どうして俺はしていたのだろうか。


「おっ!? 羽山、生き返ってるじゃん。心配したんだぞ」


 様子を見に来たのか小野がやって来て、俺の前にしゃがみ込み顔をじっと見つめてくる。


「心配かけて悪かったな。にしても、生き返ったかはないだろ。元々死んでないっての」

「そうやって、言い返せるだけの元気があるなら、大丈夫そうだな。それに顔色もだいぶいいし。お前、倒れたときの顔色、白すぎてやばかったんだぞ。あれはまじで死んだと思ったわ、うん」

「だから、死んでないんだわ」


 小野が分かりやすくととぼけてくれるので、俺もいつもの軽いノリで言葉を返せる。

 小野のおかげで張りつめていたものが薄れたのか、表情や口元が緩んでいく。目の前にいる小野も隣の吉川も笑顔を浮かべているので、さらに気持ちが軽くなっていく。


「それで班の他のみんなは? なんか俺のせいで迷惑や心配かけたよな」

「まあな。そこはおあいこだから、気にすんな。みんなは今、店の前で先生が来るのを待ってるよ」

「そっか。じゃあ、それまではもう少しゆっくりしてていいんだな?」

「ああ。先生が来たら、呼びに来てくれるだろうしな」


 それから頭も壁に預けて、目を閉じた。

 眠たいわけではないが、目を開けているのがしんどかった。

 目を閉じたまま、深くゆっくりと呼吸をする。

 ちゃんと息ができているのに、胸の辺りが苦しいのはなぜだろう。

 何かを失くしてしまったような、何かが足りていないような気持ち悪さを感じていた。


 それからすぐにバタバタという足音が近づいてきた。

 目を開けると、店員と担任の先生、班のみんなが慌ただしく近づいてきていた。


「羽山、倒れたって聞いたけど、大丈夫なのか?」


 さっきまで小野がいた場所に先生が膝をついて、俺の顔をまじまじと見てくる。


「はい。まだ頭は重たい感じはありますが、大丈夫だと思います」

「念のために、病院に行くか?」

「そこまではしなくてもいいと思います」

「そうか。じゃあ、とりあえずバスのところまで戻ろうか。もしおかしいと思ったら遠慮なく言えな。すぐに病院に連れていくし、親御さんにもしっかりと説明しないといけないからな」

「……はい」


 先生は立ち上がり、店員に丁寧なお礼とお詫びの言葉を口にしていた。

 さらに俺以外の班のメンバーには、


「羽山のことはこっちでちゃんと見てるから心配しなくていい。羽山がこんなことになって素直に楽しめないかもしれないが、お前たちだけで残りの時間を回ってきなさい」


 と、優しい声で諭すように口にしていた。

 俺もそうして欲しいと思ったから、


「みんな楽しんできてくれよ。俺はここで離脱だけど、何か面白いもの見つけたらLINEに写真とか動画で共有してくれよ。それ見ながら、俺もみんなと回ったつもりになるからさ」


 俺の言葉に班のみんなの表情から少しだけ強張りが取れたように見えた。

 先生の手を借りて立ち上がり、小野が俺の鞄やお土産の入った紙袋をタクシーまで運んでくれた。


「あっ、羽山。これ」


 タクシーに乗り込む俺に吉川がマフラーを渡してくれた。そこで初めて自分の首元にマフラーがないことに気付いた。


「マフラー……そういや、してなかった」

「うん。枕代わりにしてたのは私のマフラーなんだけど、羽山のは横になるときに外して、そのまま私が持ってたんだ」

「そうだったんだ。ありがとな、吉川」


 お礼を言いながら、タクシーに乗り込み、マフラーをいつものように巻いた。

 中学二年生の冬に買った大切なマフラー。

 マフラーを巻く手が止まり、指先が小さく震えだす。

 先生が隣に座り、タクシーの運転手に行き先を告げると、タクシーが動き始めた。


「どうした、羽山? 寒いのか?」

「い、いえ……」


 マフラーから手を離し、慌ててスマホを取り出した。

 連絡帳を開き、下にスクロールしていく。


 見つけた――。


 そのまま登録情報を表示させる。

 名前とメールアドレスしか登録されていない、大事な人との唯一の繋がり。


「消えてなかった……」

「何か言ったか、羽山?」

「いえ、何も……」


 自分の手で登録し直した『弓月ゆみづきはるか』という名前とメールアドレス。

 大事な人のはずなのに、もう声も、顔も、姿も思い出すことができない。

 思い出すらも、俺の中から消えてしまった。

 本当にいたのかさえ曖昧だ。


 それでも、たしかにいたはずだ。

 何度もこうやって名前とメアドを見たことは覚えている。

 そして、毎日のようにこのメアドにメールを送って、それがエラーとして戻ってきた悲しみも。


 自分で送ったメールを読み返す。

 そこにはハルちゃんに向けたメッセージと、ハルちゃんとの思い出話に溢れていた。

 会いたい気持ちと好きだという気持ちに満ちていた。


 涙が自然と溢れだしてきて、視界を滲ませ、スマホを持つ指や液晶に落ちて濡らしていく。

 消えていったものへの悲しみか、忘れていくことへの絶望か、まだわずかでも残っていることへの安堵からかは分からない。


「羽山、本当に大丈夫か?」

「はい……大丈夫……なんだと思います。まだ……」


 先生は怪訝そうな目を向けてくる。

 タクシーの窓から流れる景色は、知らない景色だった。

 最初からこの世界に、俺が本当に知っているものは何ひとつなかったのかもしれない。

 マフラーを巻き直して、その暖かさだけは本物だと思えて、今はそれをしっかりと感じるために目を閉じた。

 まぶたの裏には何も映ることはなく、タクシーが目的地に着くまでの間、真っ暗な世界でずっと誰かを探していた――――。

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