第8話 世界から月が沈んで

「えっと……ごめん、悠くん。誰のことかな?」


 おじさんの言葉に全てを悟ってしまった。

 ハルちゃんは世界から消えてしまい、実の親の記憶から忘れ去られていた。

 そのショックの大きさに言葉を失ってしまった。

 そんな俺をおじさんは心配そうに見つめてくる。慌てて何か言わなきゃと、震える唇を噛み、言葉を絞り出す。


「本当に……本当に、ハルちゃんのことを知りませんか?」


 おじさんは明らかに困ったというような表情を浮かべる。それだけで演技やタチの悪いドッキリでとぼけているわけではないと分かる。


「ごめんね、悠くん。そのハルちゃんというのは……えっと……学校の友達かな? それとも、翔の知り合い? ちょっと心当たりがないんだ」

「そう……ですか。弓月ゆみづきはるかという女の子なんですけど……」

「弓月……ああ、なるほど。だから、聞いてきたんだね。親戚とかにそんな名前の子いたかな……ちょっとすぐには思い出せないな」


 おじさんはおばさんを呼び、玄関先に出てきたおばさんに「弓月悠って、女の子知ってるかい? 悠くんが探してるみたいなんだ」と協力要請をしていた。


「親戚には……いなかったと思うわ。珍しい名字だから、お義父さんに聞いたら、何か知ってるかもしれないけど」

「この近所で同じ苗字の人を聞いたことはある? 僕はないんだけど」

「私もないわ。そんな人に出会っていたら、どこかでうちと繋がっているんじゃないかって、興味持って話しちゃうもの」

「だよね。僕もきっと同じことしてるよ。苗字が被ることが少なかったから、名前が被るだけでも興味湧いちゃうくらいだからね」


 ハルちゃんと俺の家族が仲良くなった理由の一端に触れ、今はそれがただむなしいばかりだった。


「というわけなんだ。力になれなくてごめんね、悠くん」

「ごめんねえ、悠くん」


 おじさんとおばさんは本当に申し訳なさそうな表情をしていた。その変わらない優しさを向けられると胸の奥が苦しくなってくる。


「こちらこそ、突然すいませんでした。タオル……ありがとうございました」


 話を切り上げながら、タオルをおじさんに返した。この場を早く離れたかった。

 それなのに、おじさんはタオルを受け取ると再度「力になれなくてごめんね」と謝っていて、俺を元気づけようとしてくれているのか、夏休み明けにある日本代表のサッカーの試合を一緒に観戦しようと誘ってくれた。おばさんも「近所だけど、暗いから気を付けて帰ってね」と優しい表情で言葉を掛けてくれる。

 ハルちゃんがいたときもこうやってよく見送ってもらった。違うのはハルちゃんがいないことだけ。

 変わらなさすぎて、おばさんの横に「じゃあね、ユウくん。おやすみ」と笑顔で手を振るいないはずのハルちゃんが見えた気がした。

 だけど、それはやはり気のせいでハルちゃんはいない――。


 それからおじさんとおばさんに見送られ、家の方に向かって歩き出した。

 そして、角を曲がり、気を張らなくてもいいと思うと足に力が入らなくなり、近くの塀にぶつかるようにもたれかかった。このままずり落ちて座り込みたい気持ちを抑えて、ゆっくりとしたペースで歩き出す。

 そうやって、また歩き出したはいいが真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかった。

 しかし、どこに向かって歩いて行けばいいのかも分からなかった。

 仕方なくフラフラと歩いていると、俺とハルちゃんが通っていた幼稚園に行きついた。。

 俺とハルちゃんが出会った場所で、全てが始まった場所。ここに通っていた当時の記憶は薄れてしまっているが、いつもハルちゃんが隣にいたことだけは覚えている。

 こんな時間のこんなところにハルちゃんがいるわけはなかった。その当たり前のことに肩を落とし、またぼんやりと歩き始める。

 夜の遅い時間に出歩くことは少ないけれど、たまにハルちゃんの付き添いで近くのコンビニに買い物に行ったり、俺の家からハルちゃんの家までの短い距離を送ったりすることがあった。

 少しだけ悪いことをしているみたいで、ハルちゃんと世界で二人だけになったと思うほど静かな夜道を歩くのが好きだった。

 つい三日前も「急にアイスが食べたくなったんだもん。ユウくんにも分けてあげるから付き合ってよ」と連れ出されて一緒に歩いたばかりだった。

 それなのに、今は隣に誰もいない。隣から足音が聞こえてくることもないし、無駄話をする相手も、話しかけてくれる人も、話しかけたら楽しそうな笑みを浮かべてくれる人もいない。

 記憶の中のハルちゃんと現実の落差に孤独感と虚無感を感じながら、一人ぼっちで暗い夜道を当てもなくただ歩いた。

 そして、目指していたわけでもないのに、小学校に辿り着いた。

 新しい友達ができても、俺とハルちゃんは変わらず毎日一緒に学校に通った。同性の友達と遊ぶことが増えても、ハルちゃんといる時間は特別だった。だから、ただ顔を見るためだけに、適当な理由を付けてお互いの家に行くなんてことも少なくなかった。


「俺の中には、まだこんなにハルちゃんとの思い出が溢れている。それなのに……」


 それ以上は言葉にすることができなかった。

 悲しさに、寂しさに、空虚さに押しつぶされ、小学校の門にすがりつくようにへたり込み、膝をついた。


「ハルちゃんを返してくれ……ハルちゃんといた日々を返してくれよ……」


 悪い夢だと思いたくて、何度も鉄製の門に頭を打ち付ける。痛みは感じるのにこの悪夢はめてくれない。

 こんなことをしても無意味だと分かっている。もうハルちゃんと過ごしたあの日々は戻ってこない。それが分かっているからこそ、俺はきっと無意識にハルちゃんとの思い出を辿るように幼稚園や小学校に足が向いたのかもしれない。


 俺も同じようにハルちゃんのことを忘れてしまっていたら、こんなにも苦しい思いをすることはなかったのだろうか。

 それとも、俺だけでもハルちゃんのことを覚えているという奇跡を喜ぶべきなのだろうか。


 門にもたれかかるように座り、そのまま力なく空を見上げた。


「月、見えないや……今日は“ハルちゃんの月”だったのに……」


 神社でハルちゃんと見上げた上弦の月はいつの間にか沈んでいて、空は今の俺の心を投影するかのように、星もほとんど見えないただ暗いだけの空間が広がっていた。

 世界を――俺を照らしてくれていた月がなくなってしまったことに、涙が次から次へと溢れ出てくる。

 もうすぐ日付が変わり、ハルちゃんのいない明日がやってきてしまう。

 静かな夜に嗚咽が混じり、世界を涙が深く暗い悲しみの水底へと沈めていった――――。

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