仮面の裏側

紫乃 煙

仮面

淳は、いつも人からの視線を避けていた。人と関わることに、深い恐怖を抱いていたからだ。クラスメートたちが何気なく自分に視線を送るだけで、彼の心はざわつき、胸が締めつけられるようだった。「自分がどう思われているんだろう?」その問いが頭を離れず、彼の心をいつも不安で満たしていた。しかし、外側からはそんな苦悩は微塵も見えない。淳は、いつも「普通の少年」として振る舞っていた。


明るく、適度に愛想よく、深くは踏み込まず、それでいて誰からも気にされないように立ち回る。表面では、周囲に馴染んでいるように見えるかもしれないが、内心は常にギリギリのバランスで保っていた。自分を守るために、仮面をかぶり続けているのだ。


「無能」この言葉が淳の心を長い間支配していた。何をしてもうまくいかないという感覚が、彼の中で常に渦巻いている。授業で発言をすると、声が震え、何かしら失敗する。部活でも、思ったように成果を上げられず、そんな自分に苛立つ。そして、友達付き合いでは、会話が続かず、どこかで相手の顔色を窺ってしまう。そんな自分が嫌いで、しかし変わる勇気もない。


「お前、最近元気なくないか?」


ある日、クラスメートの健太がそう声をかけてきた。椅子に沈み込むように座っていた淳は、慌てて顔を上げて、機械的に笑顔を作った。だがその笑顔には、温かさや感情は一切なかった。


「大丈夫。ちょっと疲れてるだけ。」


本当は、大丈夫なんかじゃない。毎日が虚しく、どれだけ眠っても疲労感が抜けない。それでも淳は、健太の前ではそれを隠した。誰にも自分の内面を見せたくない。心の奥にあるもやもやとした感情を知られるのが怖いのだ。パーソナルスペースを侵されることが、彼にとっては何よりも恐怖だった。


それでも、淳には一つだけひそかな楽しみがあった。人の失敗を聞くことだ。誰かが失敗した話や、予想通りにいかなかった話を耳にすると、なぜか心が軽くなる。もちろん、それは他人の不幸を望んでいるわけではない。ただ、他人も自分と同じように無力で、思い通りにいかないことがあるのだと知ることで、彼は少しだけ救われるのだ。


ある日、クラスの人気者で、何事も完璧に見える美咲が、ぽつりとこんなことを漏らした。


「実は、うちのお母さんが病気で入院してて、私が全部家のことやってるんだ。ほんと、大変でさ…」


その瞬間、淳の心に小さな快感が走った。美咲も完璧じゃないんだ。彼女が抱える問題を知ることで、淳はなぜか安心していた。「自分だけが苦しいわけじゃない」と。


しかし、次の瞬間、美咲は続けてこう言った。


「最近、淳くんも元気ないよね。何かあったら話していいんだよ?私、聞くから。」


彼女の言葉に、淳の心の中にざらついた感情が広がった。美咲が自分に向けるその純粋な善意が、彼の心に無遠慮に踏み込んでくるようで、強い拒絶感を覚えた。


「いや、大丈夫だから、気にしないで。」


またしても仮面をかぶり、笑顔で応じたが、心の中では美咲を遠ざけていた。「これ以上、俺の中に踏み込むな」と、そう自分に言い聞かせながら。


日々が過ぎ、淳の無気力さはますます深くなっていった。周りの人々の笑顔や会話が、自分とは無関係なものに思えて仕方がない。自分はその輪の中には入らないし、入ろうとも思わない。それでいい、と彼は自分に言い聞かせ続けていた。だが、どこかで「本当にそれでいいのか?」という疑問が頭をもたげることもあった。


ある日、美咲が学校を休んだ。最初は特に何も感じなかったが、彼女の欠席が数日続くと、ふと、あの時の会話が頭をよぎった。


「もし、俺がもっと話を聞いていたら、何かが変わったのか?」


その問いが心をかすめるが、すぐにそれを打ち消す。自分には関係ない。何も変わらなかっただろう、と。


美咲の不在を感じながらも、どこかで安堵する自分に、淳は気づいていた。彼女の不幸を知ることで、少しだけ自分が救われていることに。だが、その自分を嫌悪する感情もまた同時にあった。こんな自分は嫌だと思いながら、そこから抜け出すことができない。そして、また仮面をかぶり直し、無気力な日々をただ受け入れていく。


そして数日後、美咲が転校するという知らせが届いた。その場にいたクラスメートたちはざわついたが、数日もすると日常に戻っていった。淳は心の中で、「もう戻ってこないんだな」と思ったが、それ以上何も感じなかった。


しかし、その夜、ふと鏡を見た時、彼の表情はかすかに歪んでいた。美咲の存在が、自分にとって少しだけ大きなものであったことに気付いたのだ。だが、その感情を深く掘り下げる勇気はない。ただ、いつものように仮面をかぶり続けることが、彼にとって一番楽なのだ。


「俺は誰とも関わらない。それでいいんだ。」


暗闇の中、そう自分に言い聞かせながら、彼は再び目を閉じた。

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