第19話
吾輩は、疲れ切っていた。そりゃあそうである。あの凍てついたベーリング海峡を、ふらふらと命を削るようにして渡り切ったのである。吾輩がもとより家犬であることを思えば、この旅はあまりに過酷であった。寒さに震えながら、日本の家族を思うたび、胸が温かくなるような気もしたが、結局は冷たい風がそれを奪っていく。吾輩はついに力尽き、ユーラシアの大地に倒れ込んでしまった。
目を閉じると、温かな日々が蘇ってくる。キッズの無邪気な笑顔、スマホママの柔らかな手の温もり、なんJニキのからかい…。吾輩は懐かしさに胸をしめつけられながら、そのまま眠りに落ちた。
気がつくと、吾輩の目の前には見知らぬ少女が立っていた。淡い髪に澄んだ瞳をしたその娘は、吾輩をじっと見つめ、にっこりと微笑んでいる。「君、ひとりでここまで来たの?」と、彼女は驚いたように吾輩を抱き上げた。どうも人なつっこい雰囲気であるが、その目の奥にはどこか強い意志が宿っているように見えた。
吾輩は少女の腕の中で再び眠りに落ちた。疲れ切っておると、つい他人の温もりに頼りたくなるものらしい。
目が覚めると、吾輩は見知らぬ列車の中にいた。窓の外には広大な凍土が広がり、永遠に続くようなシベリアの景色が目の前に流れている。見覚えのない光景に驚き、吾輩は思わず身を起こした。
「おはよう、元気になったみたいね」と、少女が優しく声をかけてくれた。彼女は「アンナ」と名乗り、サーカス団の一員だという。吾輩は彼女の言葉に一瞬心を落ち着かせたが、窓の外を見やり再び驚愕した。この列車、どうやら日本とは逆方向に走っているらしい。
「逆やんけ!」吾輩は心の中で叫んだ。しかし、アンナの懐かしいような仕草がどこかキッズに似ており、吾輩はそのそばを離れる気にはなれなかった。
アンナとサーカス団の一行はシベリア鉄道に乗り、旅の途中で小さなショーを披露している。列車が停車するたびに団員たちは軽やかな衣装に身を包み、ジャグリングや軽妙な踊りを見せるのだが、実に愉快であった。何度も列車が停まり、彼らがパフォーマンスを披露するたびに、吾輩も一緒になって観客の反応を楽しんだのである。
しかし、ショーを見守る観客の中には、痛ましい包帯を巻いた若い兵士たちが混じっているのも吾輩の目にとまった。どうやらこのシベリア鉄道、ウクライナで戦った兵士たちも運んでいるらしい。兵士たちはアンナたちの陽気な踊りに微笑みを浮かべているものの、その目の奥にはどこか疲労が滲み出ていた。
「ロシア軍の兵士たちを慰問するために旅をしているの」と、アンナがぽつりと教えてくれた。どうやら、この列車は戦場に向かう兵士たちを励ますための慰問公演を担っているらしい。
列車が長く続くシベリアの凍土を滑るように進む中、吾輩の胸の中に不安が芽生えてきた。日本とは反対方向の道を辿り、しかも向かう先が戦地であると知ったからである。家族に会いたい一心でここまで旅してきた吾輩が、なぜか今、戦場へ向かっているとはどういうことだろうか。
しかし、そんな思いを抱きつつも、アンナの傍を離れることができない自分がいる。アンナはふとした時に吾輩を撫で、笑顔を向けてくれる。その小さな手が吾輩を温めるたび、吾輩の心も静かに落ち着いていった。窓の外にはただただ続く白い凍土が広がり、荒涼とした景色が吾輩の心を包むようだった。
ある日、列車が小さな駅に停まると、アンナたちはそこで即席のショーを行うことになった。凍えるような寒空の下で、アンナは踊り、団員たちは手に楽器を持って軽快な音楽を奏でる。観客の兵士たちは傷を負い、体力も衰えているようだが、ショーの間だけは微笑みを浮かべ、歓声をあげている。
吾輩はその様子を見ながら、静かにアンナの足元に座っていた。彼女は一生懸命に踊り続け、兵士たちに少しでも希望を与えようとしている。その凛とした姿を見ていると、吾輩も自然と彼女の支えになりたいと思うようになった。
列車の旅が続くにつれ、吾輩の心には複雑な思いが募っていった。この旅は日本からどんどん遠ざかり、戦場へと向かっている。家族に会いたい気持ちが吾輩を前に進ませてきたが、今はキッズに似たアンナのそばにいることで、不思議と安心感を覚えるのである。
しかし、アンナたちが向かう先には、確かに危険が待ち受けている。窓の外には広がるシベリアの凍土が、無限に続くように見える。遠くには吹雪が巻き上がり、木々がわずかに動く気配すらなく、ただ冷たく凍りついた大地が広がっている。果てのないこの景色を見ていると、吾輩は自分がどこに向かっているのかが分からなくなり、不安が募るのだ。
夜になり、列車が一時的に停車した時、吾輩はアンナと一緒に車窓を見つめていた。彼女は静かに息を吐き、少し疲れた表情をしている。「彼らが少しでも元気になってくれるなら、それでいいんだけどね…」と、彼女はささやくように言った。
吾輩は、彼女の小さな肩にそっと寄り添った。彼女もまた、兵士たちを慰めたい一心でこの過酷な旅を続けているのだろう。吾輩が彼女を見守り、彼女が兵士たちを励ます。そんな形で、それぞれがつながっていることに、吾輩は少しだけ救われる思いがした。
シベリア鉄道の旅が続く中、夜になると吾輩の心には家族への想いが溢れてくる。キッズ、スマホママ、なんJニキ…。彼らが待っている暖かな日本の家に戻る日が、いつ訪れるのだろうか。
しかし、吾輩は窓の外の白い凍土を見つめながらも、心のどこかでアンナのことを思っていた。
列車は戦場へと近づいている。
吾輩はイッヌである 犬ティカ @inutika
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