あちらの世界
菜月 夕
第1話
紅葉を楽しみながら山々を巡る。
たどり着いたひなびた宿でゆったりと温泉につかる。
やっと取れた休みだ。しっかり日頃の疲れを取らなくては。
この宿は知る人ぞ知る名湯だが、意外とこの時期は空いているようだ。
宿には私ひとりしか宿泊客は無く、自分専用の温泉のようだ。
夕暮れで涼しくなって温泉から立ち上る湯気が露天風呂を覆っている。
私はそこに分け入り、じっくりと温泉のぬくもりに身を沈める。
身体を伸ばし、タオルで顔を蒸して眼の疲れも取る。
タオルを取ると湯気の向こうに人影が見えた。誰かお客が新しく入ったのだろうか。
その時、風が拭いて湯気を飛ばしてその人影があらわになる。
胸をたわわに湯から出して見せた美人が。え、ここ混浴だっけ。いや、男湯と女湯を間違って入ったのだろうか。
私は慌てて「失礼しました」と風呂を飛び出した。
「おや、どうしました、お客さん」
「いや、綺麗な女の人が裸で。ここの風呂、混浴でもないし、私が間違って女湯に入ってしまったかと」
「え、そんな筈はないですよ」
その仲居は風呂を覗いて「やはり誰も居ませんよ、湯あたりで幻でも見たのでは」そう言って去って行った。
たしかにここしか出入り口の無い温泉の中には誰も居なかった。
私は風呂に入り直し、部屋に帰ろうとした。
途中で賄いをやっている従業員室を通りかかる。
「あの人が見たらしいよ。あの人もあちらの世界へ呼ばれるのかねぇ」
私はギクッとしたがどうせ彼らを問い詰めてもここの不祥事になるかも知れないことは明かさないに違いない。
こう言う時は外に出てみるか。
ひなびた温泉だがちょっと離れた所にカフェがあった。
私は何気ないふりで店主に声をかける。「おい、あそこの露天風呂にアレが出たらしいぞ」
話を聞いてみると、あそこの跡取りだった男が性同一性障害で家を飛び出してとりあえずカミングアウトするために上半身は整えて家に戻り家族に認めさせて下半身も、というところで事故に会い亡くなったそうだ。
それ以来、偶に出てその手の男を誘ってあの手の世界へ導くのだそうだ。
近年ではかなり認められてきたとは言え、やはりちょっと怪しい眼で見られるようだ。
ましてこういう田舎ならその傾向は強いのだろう。
仲居たちが口ごもるのも判る。
まあ、私には関係のないあちらの世界の話だろう、
私はあの世にでも連れて行かれるのかも、との危惧に一安心してコーヒーを飲み干し、なぜかそこにあった薄い本を手に取った。
あちらの世界 菜月 夕 @kaicho_oba
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