35年前に行けるボタンがあったら押す?
一年前あのスレを立てたのは僕が務める会社の取引先の社長だった。
彼は経歴を鑑みても、どんなに若く見積もっても四十代の後半といった年齢であるはずだが、どうしても三十代の前半にしか見えない。僕が入社した時から見た目が変わらない不思議な人だった。色が白くて眼鏡をかけていて、その他の特徴といえば静かに話すことくらいだろうか。いつも無難なスーツを着ている姿は一見して“大手本屋か百貨店の社員さん”といった風貌だった。パートのおばちゃんからタメ口を聞かれても怒らないような大らかさと親しみやすさを醸し出す。そんな彼の経営する派遣会社ではいつも大量のコピー用紙を発注してくれていた。それだけにコピー機も頻繁に詰まって、それを修理するのは僕の仕事だった。
「いつもすまないね」
「いいえ、いつもありがとうございます」
「
「大丈夫ですよ」
この後は配達があるだけで、それも急ぎではなかったから時間があると言えば嘘にはならない。年度変わりでもない限り強烈な繁忙期というものは経験したことが無かった。いつも通りの静かな声で尋ねられた時は発注の追加があるのだろうと思っていた。修理のついでに文房具の受注をして帰るのは珍しいことではないからだ。
「じゃあちょっと、コーヒーでも飲んでいきなよ」
「え?」
奥の社長室へ通されるなんてことは入社してから初めてのことで、他の会社でもされたことは一度だって無い。確かに鳥海社長とは気心が知れている部分はあるが個人的な話があるわけでも無いだろう、気まぐれで
「社長とはよくここで話すんだ」
「あ、うちのですか?」
「そう、君んとこの」
この高級なソファを絶対に汚すまいということにだけ集中していた。服にも手にもインクなんて付いていない筈だけれど、どうしても落ち着かない。汚してしまいでもしたら一体お給料の何か月分を失ってしまうのか考えるだけで背筋が伸びた。
「そんなに緊張しなくていいよ。うちの社員なんて靴履いたまま上るよ」
「どんな」
教育してんですか。そう思わず問い質したくなった。誰かが土足で上がったソファに今座っていることも複雑だ。
「夏海くん」
「はい」
「35年前に行けるけど、もう戻って来られないボタンがあったら押す?」
「―――—―あっ、申し訳ありません!」
珈琲を吹いてしまった。そのくらい唐突で衝撃的な問いかけだった。社長が動じることなく内線をかけると、すぐに事務のお姉さんがダスターを持って駆け付けてくれる。よく行き渡っていると感じる。
「ビックリさせちゃったね。ごめんごめん」
「いえ、じゃあ社長もあのスレに?」
「うん。だってあのスレ俺が立てたんだもん」
釣られてくれてありがとう。
社長は少年のような笑顔を浮かべた。
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「このことは夏海くんに頼みたかったんだ」
「であれば、初めから」
あんな手の込んだことをしなくても。偉い人の気持ちなんて僕には理解できなんだろうな。
「それじゃ面白くないじゃないか」
それを聞いて一生かかっても理解できないと確信した。
「それに直接話しても真面目に聞いてもらえるとは思えなかったんだ」
「それは確かにそうです」
急に何を言い出すんだと恐怖を覚えたに違いない。今そうでないことが変に感じるくらいだ。それなのに僕がこんな提案を自然に受け入れているのは前置きがあったからに他ならない。目撃者が複数いるということも理由になるかもしれない。
「僕は可哀相だから選ばれたんですか?」
「そんなわけないだろう」
いつになくはっきりとした声の大きさで社長は答えた。嬉しくなかったと言えばそうではない。何かに当選したり誰かに選ばれたことなんて生まれて初めてだから
「その時代には生まれていない人が望ましくてね。それに君は真面目だし信用できる。人に流されたりしないところも良いしね、何より有意義に過ごしてくれると思ってるから」
僕はそんな風に見えるのだろうか。褒められたのも初めてだと気が付いて、なんだか照れ臭くなってしまう。
「信用していいんですか?休憩時間は一時間なのにファミレスにそれ以上いたりしますよ」
僕はそういう人間なんです。
「誰だってそのくらいはするだろう。そういうところが真面目なんだよ、そんなこと考えるところが」
「そうなんですか」
狐に抓まれるというのはこういう気持ちをいうのだろうか。こんなチャンスを与えられたことが信じられない。普通だったらきっと、こんな話自体を信じられないだろうに。ただ一つだけ気がかりもあった。
「僕がいなくなったら、母のことが心配なんです」
姉からも母のことを頼まれていた。母とは一緒には住んでいないが近くにはいる。足が悪いから買い物や通院は車に乗せて出かけている。それに災害などがあった場合にはどうしたら良いのだろう。
「任せておけ」
社長は自分の経営する会社について説明を始めた。ここからはまた耳を疑うような話になってくる。この会社で派遣しているのは特殊スペックを持った
―――———例えば、聞いたことがあるものではサイコメトラーであったり、比較的現実的なところで言えば超身体能力を持った殺さないアサシンであるとか、見た情報を一瞬で暗記するスパイであったり、どんな遠い音でも聞き分けるデビルイヤーであったり。自分の頭か耳にバグが生じたのではないかと疑いそうになる。それから、それほどの人材が多数いるのなら僕よりも適任がいたのではないだろうかと少し考える。そうした有能な人材は手離さずに近くに置いておきたい心情も想像できた。きっと社長にとって僕は手頃なのだ。
「金銭的な面では君への給与とは別に、君への給与という形でお母様へ振込むようにするよ」
「ややっこいですね」
「まあそうだな。あとは不便しないように日常的に社員を送るから、身の安全に関しても約束する。今よりも快適になると思うよ」
「よろしくお願いします」
保証する。ではなく、約束すると言ってくれたことが嬉しかった。僕もまた鳥海社長のことは信用している。僕は可哀相かもしれないけれど、人を見る目はあるから人間関係で失敗することはそう無かった。おまえらに詳しく聞いてもらえないのが勿体ない。
話せるのは此処からだ。何処まで信じてもらえるかわかんないけどね。
「時間を移動できる能力を持った人がいる」
「ああ、やっぱり」とはならなかった。
就業時間中に交わされる目上の人との会話でなければ、ああ、はいはい。と聞き流してしまっているだろう。
「ただ、ハイリスクなんだ。非常に」
「そうなんでしょうね」
通常できないことをやるからには、そういうこともあるだろう。想像もつかないので質問しようとも思えず、頷いて話を聞くだけだった。
「その人は移動した分だけ年を取ってしまう」
「相対性理論ですか?」
適当に言ったわけではないが、そんな理論があった気がする。双子の片方が宇宙に行ったら、戻ってきた時にどちらかが老け込んでしまっているとかいないとか。
「そうかも、俺はバカだからわかんないんだけどさ」
「一緒ですね」
鳥海社長は目を細めた。少年のような表情に刻まれた目尻の皺が年齢を少しだけ感じさせた。
「で、経過は違うんだけど結果的にはまさに夏海くんが言った通りなんだ。その能力者は力を使うたびに物理的に消耗してしまうことが明らかになった。その代わり自分以外の物質も時間を移動させることができるとも判明した」
それで誰かを送り込もうというわけか。目が合うと社長が頷いた。
「ただし1回きりだ。一緒に行くのは不可能だから連れて帰ってくることはできない」
「まあ生きてさえいれば現代まで辿り着けます。戻りたければですけど」
「君の、そういうところだよ」
社長は今度はニヤリと笑う。
「いくつかやってほしいことはあるんだけど難しいことじゃない。その他は本当に自由に過ごしてもらっていい、何の縛りも無いよ」
あのスレッドを思い出す。自分より10も20も年上かと思われる大人たちの、顔も知らないおまえらの吐き出した後悔と未練と心残りを僕ならなんとかできるかもしれないのだ。
「やってくれるかい?」
「はい。承知しました」
「君ならそう言ってくれると思ってたんだ」
こんなチャンスは自分だけではなく誰かの為にも使いたかった。そうすれば自分が生まれてきてしまったことに意味を持たせることができる気がした。
テキストに書き留めていた文章は全て書ききった。閲覧人数は増えたり減ったりしながら300前後に落ち着いている。応援してくれる言葉や持って行った方が良いものを書き込んでくれた人達には後で返事をしようと思っている。お釈迦様の言うように悪意は受け取らない。予定通り十二時を回って七月になっていた。
【今から一ヶ月後にボタンを押す】
[キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!]
[イッチ!!]
[マジだった]
[やばい鳥肌が]
僕が本当に去年あのスレにいた者か検証するのが目的か、あるいは一年前のスレを知っているおまえらを
暗黙の了解だろう、おまえらがボタンという単語をなんとなく避けていたのは察知していた。こんなところで場慣れなんてしてもしょうがないんだけどさ、でも嬉しかった。あのスレにいたおまえらに何かできるかもれないって思ったら嬉しかったんだ。今まで遠くから見てただけの、この妙な一体感に参加できたことに感動すらしているんだぜ。
【だから、おまえらのできなかったことを俺に託せよ】
[うぉぉぉおー]
[この>1になら釣られても構わない]
[サンキュー、イッチ]
[やっぱあのスレあったんだよな]
[やだ、目から汗が]
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