先生ではありません

七月三日 昼


 目黒の雅叙園脇からJR目黒駅方面への昇り階段付近でスーツ姿を探していると、イタリアの高級ブランドのポロシャツを着た爽やかな男性から声をかけられた。見覚えがあるかと思えば、さっきまで玉砂利の喫煙スペースで一緒だった人ではないか。朝ドラに出てくる俳優を思わせる精悍な顔つきと佇まいに、四十代に差し掛かるということだったが相応の貫禄に若々しさを兼ね備えている。



「坂本と申します」

「片石です。あ、もうこの会社は退職してるんですが」

「結構ですよ。ありがとうございます」


 辞めてしまった会社だが名刺を差し出して交換した。在職中はそんな場面などほとんど無かったので枚数だけはたくさん残っていたのだ。まさかこんな風に役に立つなんて思っていなかったから人生は何が起こるかわからない。名刺を使用することを社長には了承を得ている。なんなら新しいのを刷ろうかと持ち掛けられたが辞退した。坂本さんの名刺にはコンサルタントと書かれていた。ご自身でも会社を経営しているようだ。


「経営と言っても私一人なんですよ。自由業なんで時間は作れるんです。よろしくお願いいたします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」



 名刺交換の後お互いのこの後のスケジュールを確認した。僕は夕方から出張帰りの会社員に会う予定になっている。場所は赤羽で乗り換えは一度だから時間には余裕があった。それを伝えたところ、坂本さんの提案でランチ会議と称して近くのカフェに入ることになった。経費で落としてくれるとのことも然り、時間を無駄にしなかったり、次の予定を確認した上での店選びであったりと、どこを取っても坂本さんの身のこなしはスマートに感じた。選んだ中目黒のカフェバーも洒落シャレている。夜の時間帯になれば更に雰囲気は深まることだろう。僕にはランチのカジュアルさだけでも爪先立ちの精一杯だった。それでも追いつけないでいるのだけれど。



「この件について、どんな方とお会いすることが多いですか?」



 席に着くと坂本さんは腕時計に目を落とした。さりげない仕草はドラマのワンシーンみたいだった。ドラマほとんど見ないんだけどね。



「四十代や五十代以上の方が多いです。といってもまだ坂本さんが二人目なので、実際お会いするのはこれからなんですが」

「あの掲示板の利用者ってどんなイメージ持ってました?片石さんのようなお若い方からの印象を教えてほしいのですが」


 故意に見せたであろうヤンチャ少年の面影に悪戯っぽさが浮かんだ。この人はモテるんだろうな、と思う。自分の見せ方を知っている。僕とは生きる世界の違う人だ。

 質問に対しては、坂本さんのような爽やかな好青年がいることは意外だったという感想を正直に伝えた。冴えない人が多いように勝手にイメージしていたのは自分がそうだから、皆そうだと思っていたからだ。コンサルタントが何をする人か僕にはわからないけれど、先生と呼ばれたり講師をしたりしていそうなイメージがある。



「先生なんかではありませんよ、全然」



 はにかんだ坂本さんは謙遜しているというよりも照れ臭そうに見える。い人そうだな、と安心する。



「坂本先生って呼ばれちゃうと、ほら」

「3年B組みたいなことになっちゃうから?」

「ええ。金八きんぱっつぁんとか呼ばれても咄嗟にはモノマネできないんで」


 確かに「なんですかぁー」と肩まで伸びた髪を払う仕草は坂本さんには似合わないが、醸し出しているオーラとは裏腹な物腰の柔らかさと年下の僕にも丁寧に接してくれるところに好感が溢れている。



「お若いのに随分と古いことを知っていらっしゃいますね?」

「昔に戻ったらテレビが面白いって皆さんが教えてくれたから調べてるんです」

「なるほど。それは楽しみにしておくといい」


 テレビもラジオも面白いのだと皆が口を揃えて言う。その感動を一人で抱え込み、誰かと共有できるまでの時間をもワクワク過ごすのだそうだ。それはどんな気持ちなんだろうか、想像できないが今から楽しみで仕方ない。ただ僕には過去で感動を共有する知人もいないのだけれど見たい番組はたくさんある。



「僕が大学生になった年にね、あの掲示板ができたんですよ。しばらくは利用者のイメージはすこぶる悪くて、毎日覗いているとか書き込んでいるなんて人にはとてもじゃないけど知られたくなかった」


 それでも覗いていたのは何か理由があったのだろうか。ガラスのデキャンタでライムの浮かんだり沈んだりする冷水とグラスが二つ席に運ばれてきた。テーブルクロスはワインレッドの布だということに気付く。この布には僕の知らない何か他の洒落た呼び方がありそうだと思った。僕はピアノの蓋と鍵盤の間にある赤い布の名前を知らない。


 窓の外に生えている木はなんでしょう

 あれは桜なんですよ

 この席から夜桜を見ながら飲めるんです

 本を読みたくなると来るんです

 窓際にいると雨の日にはボトルの底にいるみたいで




 そうか、通りに面した席に通されるのにも選ばれなければならないのだと初めて知った。坂本さんは目黒のオシャレカフェが文句なしに似合っている。通行人が窓の外から見ても店の景観を損なうことは決して無いだろう。


 

 それからランチのプレートが下げられてコーヒーが運ばれてくると僕はノートと付箋と筆記用具を取り出してテーブルに置いた。場違いな気はしたが商談に見えないことはないかもしれない。本題について聞き取りを始めるのだ。坂本さんも察してくれたらしく高価そうなペンを胸ポケットから抜きテーブルに置いた。



「ボイスレコーダーなんかは使わないんですか?お薦めはしませんが」

「仕事で受注する時に使ってたことはあるんですけど、自分の声って気持ち悪くないですか?」

「わかります。僕もそうだったから自分のセミナーの動画なんて見たくなくて、だから薦めないんですが」



 坂本さんは気さくで話していて楽しくて、忘れるほどではないものの流れる時間は速い。店員さんへの接し方も丁寧で、一緒に居れば勉強になりそうな人だと思えた。今までさぞかし洗練された人生を送って来たことだろう。これからだって、きっと。





「小学生の頃にね、近所に三十代くらいの知的障害の男性が住んでたんです」

「・・・はい」



 父親はいないようで、二人暮らしの母親は近所のかまぼこ工場で働いていた。坂本さんと同級生たちはその人と一緒に遊ぶことが多々あった。かけっこをしたり鬼ごっこをしたり。年齢は違っても大切な友達の一人だった。




「ある日、からかったら泣かせてしまったんです」

「そんな」

たわむれれているつもりだったんです。馴れ合っていただけで」


 

 思わず拳を握ったのと一緒に胸がキュッと締め付けられる。そんなことが起こってはならない。そんな残酷なことが―――――なんてことを。



「僕も友人たちも誰もそんなつもりではありませんでした。そういう意識がいけないんだと今でも死ぬほど後悔しています」


 

 年上の友人を泣かせてしまったことで坂本さん達は途方に暮れた。どんなに謝っても伝わらず、泣き止まない彼をどう慰めて良いのかわからなかった。とんでもないことをしてしまったということだけは察した。そこへ仕事帰りの母親が彼を迎えに来た。



「駆け付けた彼のお母さんからは鬼の形相で怒鳴られて、これは大変なことをしてしまったと恐ろしくなりました。家に帰ったら親にはぶん殴られるし、首根っこ掴まれて彼らの家まで謝りにも連れて行かれました。自分のやらかしたことで親が頭下げてるの見るのって本当にキツイですよ」



 幸いか僕にはそういった過去は無かったが、想像するだけで吐き気がするほど胃への重圧がかかる。僕は喉が詰まってしまい言葉が見つからなくて、無言で彼の話を聞くしかなかった。メモは取る。


 不用意に友人を泣かせてしまった小学生と、大事な人を傷付けられた彼の母親の気持ち。どっちを考えても辛い。僕は声を振り絞った。


「・・・考えただけでトラウマになります」



「本当にそうなんです」



 

 嵐が丘の映画音楽が流れている。物語の壮絶さにそぐわない可愛らしい歌い出しが印象的だった。坂本氏が神妙な苦笑いを浮かべて言葉を続ける。

 

 



「でもこの話のトラウマなところはそこじゃないんですよ」


 

 その一件以来その親子は片時も離れず一緒に行動するようになった。母親は工場を辞めて彼に付きっ切りになり、スーパーへの買い物にも散歩にも二人で出かけるのを見かけるようになった。彼はいつも楽しそうに笑い、とても嬉しそうな姿は一見して幸せそのものだった。

 子供だった坂本さん達はその光景に救われた。雨降って地固まるではないが、落としどころを見つけたと疑っていなかった。彼と一緒に遊ぶことはなくなったけれど会えば手を振り合うし「また遊ぼうね」と言葉を交わした。だがしかし、その口約束が叶う日は来なかった。どんな家庭にも生活というものがある。





「ある日突然、その親子は行ってしまったんです」






「———―――そうですか」

 



 あらかじめ書かれていた文章を読み上げるみたいな坂本さんの言葉は無機質で、僕はそれ以外何も言えなかった。店内のお喋りや流れる音楽のおかげで沈黙にならずに済むことに、ほんの少しだけ救ってもらえた気になる。



 そうですか、遠くに。



 



「サイレンの音が妙に気になったんです。今でも耳に残っている」



 登校中にサイレンのけたたましさが気になった冬の朝。その日の内に噂が聞こえてきた。翌日には新聞に載っていた。あるいは当日の夕刊にも掲載されていたのかもしれない。周囲の大人たちは坂本さんや同級生の前でそのことに触れることはしなかった。



「初めて人に話せました」




 こんなことを聞いてくれてありがとうと言う坂本さんの、コーヒーカップを持つ手元を見てはいけない気がして僕は目線を伏せる。




「スッキリはできないけどね」

「はい」




 まともな神経を持って生きているのならばそうだろう。人を死に追いやる原因の一つを作ってしまったという罪深さを僕ならば背負い切れる自信が無い。今のはきっと彼の人生に於いて重要なカミングアウトだった。

 宮前さんのような案件ばかりを想定していたせいか戸惑う気持ちが顔を覗かせた。でも果たさなければならない、俺に託せよと言ったのは僕だ。





「だけど、ひとつ乗り越えました。よね?」



 二十も年下の僕の言葉に重みなんて無いのは重々承知している。それでも、そうであってほしいと願いを込めて。坂本さんは顔を上げて僕と目を合わせてくれた。やはり彼の所作は絵になる。



「―――――うん、そうだね。ありがとう」



 店を出る時には三時を回っていた。あんなに綺麗なごはんを食べたのは初めてだと正直に告げると、坂本さんはまだ強張っていた頬を緩ませて笑ってくれる。だから少しだけ安心した。図らずも人を傷付けてしまった過去は傷付けた当人をも斬りつけ続けている。いたんだ気持ちは少しずつでも元に戻ってゆくのだろうか。最初の形に近づこうとして、でもやはり傷む前とは違ってしまうのかもしれない。また胸が締め付けられる。坂本さんが僕なんかに話したことを後悔するのではないかとも心配になった。



「そんなことない。聞いてもらえてよかった、本当に」



「・・・坂本さんは、もしがあったら押しますか?」


「押すよ」








「押す。」



 迷わず答えた坂本さんの顔は小学生みたいだった。僕の目を真っすぐ見たまま泣き出しそうな顔をして笑う。託した、と言われたような気がした。僕が少しでも請け負うことで軽くなればいいと願う。言葉でも罪でもなくて心のことだ。



「ごちそうさまでした」

「いいえ。この度は、よろしくお願いいたします」

「承りました。必ず」




 それには坂本さんは何も言わず、肩幅に開いた膝を抑えるようにして深く頭を下げる。僕も同じようにして返す。 



 必ず助ける。過去に生きるその親子と坂本さんの過去も現在も、必ず。今の僕は無力ではないのだから。






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