スクールカースト・オブ・ザ・デッド

さめしま

第1話

ぐぷん、と耳障りな音が響いた。途端に漏れ出す強烈な臭気と漏れ出す液体。目に映る光景に耐えきれなくて、思わず目をそらす。それでも耳と鼻は律儀に働くものだから不愉快極まりなかった。


「慣れないね、いつまでも」


「……ごめん。情けないよな」


「そんなことないよ。というか、麻木くんは来なくていいって言ってるじゃない。全部私がやるから」


「いや、そんな」


「私平気だよ。少しも怖くない。得意不得意は誰にでもあるんだから、分業が大事でしょ」


 彼女が手にしたそれを振り抜く。へばりついていた液体が辺りに散乱した。黒くてぐちょぐちょでドロドロの、数ヶ月放置した排水溝の淀みみたいな。口の中で悲鳴を噛み殺し、思わず一歩後ろに下がる。彼女はそれを見て軽く笑う。それが余計に恥ずかしかった。


「早いね。もう一ヶ月になるんだ。世界がこうなってから」


 彼女が校門の先を見やる。白い歩道に連なる先で、うぞうぞと蠢く何かがいる。人と呼ぶにははばかられるけれど、しかしそれ以外に言いようがないー泥人形のような不気味な体躯が、数匹蠢いていた。



 最初は担任。次にほかの先生。最後は町の大人たち。いや、正確な順番はわからない。気がついたらこうなっていた、以外に説明しようがないのだから。


「では教科書58ページを開イテッ」


 教卓に立つ先生の体が溶けた。馬鹿馬鹿しい表現だったけど、それ以外に言いようがなかった。


 教科書を開く先生の体が硬直し、頭のてっぺんから黒いヘドロが湧き出した。先生の体が崩れていく。元の人型を保てなくなって、その場に泥の柱が現れる。そして、太い一本の泥から小枝が一本分け放たれてー蛇行しながら伸びた枝が、最前列の前川くんの頭を貫いた。


「え」


 前川くんが発せたのはその言葉だけだった。あとは悲鳴すらない。ぐりんと黒目が裏に周り、口から黒いヘドロを吐き出したあと、彼の体も同じように溶けた。頭のてっぺんから染み出した黒い泥が、椅子に座る彼の体を覆っていく。気がついた時には前川くんの席に蟻塚のような黒い泥の塊が出現していた。


 教卓に立つ先生ーいや先生だったヘドロは無造作に腕を引き抜く。そしてぐるりと当たりを見回した。目も鼻も口もない頭部らしき部位が、そういう仕組みの玩具みたいにすりこぎ運動をする。


 みんなが静かにしてられたのはそこまでだった。爆発するような騒ぎが巻き起こって、教室は狂乱に包まれた。


 机から立ち上がって一目散に逃げる奴、恐怖で椅子から転げ落ちる奴、あまりの光景にその場で嘔吐する奴。反応は種々さまざま、しかし一言で言うなら阿鼻叫喚。地獄の様相と化した教室で、唯一泥人形だけが冷静だった。声もあげず、狼狽の仕草も見せず、泰然とその場に直立している。何考えてるのかわからない。そもそも何かを考えてるのかすらわからない。ただ、でも。そいつが何をし出来そうとしてるかはわかる。


 殺戮だ。


 感情を映さない泥人形の顔が、品定めするように教室を眺めていた。気がする。


 その後のことはよく覚えていない。


 ただ無我夢中だった。走った。転んだ。逃げた。必死だった。とにかくアイツらの手の届かない所へ。逃げなきゃ。逃げて逃げて逃げまくって、そして追い詰められた。階段の踊り場、足を取られて座り込む俺を、階上から見下ろす泥人形がいる。


「あ……」


 声が出ない。悲鳴があげられない。ホラー映画の役者はすごいなと思った。怖がるべき時に、怖がるべきタイミングで、恐怖の声を上げられる。俺には何も出来なかった。悲鳴を上げることも、怯えた表情を見せることすら、引きつった顔面のせいで上手くできていなかったと思う。


 ずろ、と何かを引きずる音。これが泥人形の足音らしい。決して動きは早くない。でもどうしても逃げられない。根源的な恐怖を刺激するその音が、一歩一歩、階段を降りてこちらに迫ってくる。


 ここまでだ。死ぬ。


 思わず目を瞑った。ずろ、と先程以上に近くで音がする。死ぬ。殺される。俺も前川くんみたいに貫かれていなくなる。あれ、そう言えばこの泥人形も、この学校の誰かだったのかな。そんなことを考える余裕はあるのに体は動かなくて、ただただ冷や汗の感覚が煩わしがった。


 ぐちょん。


 気味の悪い音が響いた。人間が死ぬ時ってこんな音するんだ。俺は咄嗟にそう思って、今後の人生で二度とその音を聞かなくて済む幸運に感謝した。そもそももう今後の人生自体がないんだけど。そこまで考えてはたと気づく。俺、死んでなくないか?


 目を見開く。視界に突然光がなだれ込んできて、反射的に目を細めた。階段踊り場の窓から夕日が差し込んでいる。いつのまに夕方になっていたんだろう。逃げ始めた時は確か、昼にすらなっていなかったはずなのに。その夕日の散乱の中、1つの暗い影が立ち塞がっていた。橙の光条に埋もれそうな一筋の黒い線。まるで救世主か救い主かのように、凜然とそこに立ち塞がっている。


「大丈夫?麻木くん」


 ナタを手にした周防さんがそこに居た。 



 こつ、こつ。


 静かな靴音を立てて周防さんが降りてくる。さっきの泥人形の不快な足音とは雲泥の差だった。二つに分かれた人間の足が、規則正しく歩を進める音。進む足取りに迷いはなく、周防さんは少しも怯えや狼狽の様子を見せなかった。


 周防さんの足が泥人形の真横に差し掛かる。あとほんの僅かで泥人形と接触しそうな至近距離。生きてるんだか死んでるんだかわからない泥の塊を、周防さんはじっと見つめている。


 そして、迷いなくナタを振り下ろした。


 ぐちょん、と。ナタが泥の中に沈んでいく。あんなにぬかるんでいたら意味無いのでは、と思ったが、そうでも無いらしい。泥人形だったものはナタで二つの分かたれた後、唐突に固形を失った。ドロドロ溶けだして辺りに広がっていく。周防さんは無感動にそれを見下ろすと、片手で軽くナタを振るった。刃に付着した澱のようなドロが飛沫となって辺りに飛び散る。


「こいつら、ここまでしてようやく死ぬみたい。泥っぽいだけにほっとくとくっついて復活しちゃう」


「す、おうさん。怖くないの……?」


「うん。なんか平気。麻木君、立てる?」


 いつの間にか目の前に来ていた周防さんが俺に手を伸ばす。夕陽を背に逆光になっている周防さんは、なんだかまるで救世主のようだった。床にへたり込む自分の情けなさと言ったらない。伸ばされた手を取るのが妙に気恥ずかしくて、それでも縋らなければ立ち上がれそうになかった。


「ほんと、ありがとう周防さん。来てくれなかったら絶対死んでた……」


「気にしないで。恩返ししただけだから」


「え?」


「なんでもないよ。とりあえずこいつらの少ないところに行こうか。ここじゃおちおち話もできない」


 肩にナタを担いで、周防さんが歩き出す。慌てて俺も後を追った。夕暮れの校舎は不気味なほどに人気がなく、いつもの学校との違いを歴然と浮き彫りにさせていた。


「周防さん。そのナタどこにあったの?」


「用務員室。草刈り用の鎌とかもあったけど、あれって振るには扱い辛そうで。一番まともに武器になりそうなのがこれだったから」


「ああ、鎌は自分の腕までざっくり行きそうだもんね。……用務員のおじさん、は」


「いなかった。泥の跡があったけど、どっちになったのかはわからない」


 どっち、というのは。一つしかないだろう。担任の先生みたいに泥人間になってしまったのか、泥人間に襲われたのか。でもさっきの前川君のように襲われた時も泥人間になってしまうなら、結果は同じだと思うが。


「それが意外とわからないんだよ。見て」


 つい、と周防さんがナタでどこかを指さす。つられて見た先の光景に思わず悲鳴が漏れた。おびえる俺とは対照的に、周防さんは淡々と続けた。


「泥人間に襲われても前川君みたいになるとは限らないみたい。この人たち、人間のまま死んでる」


 折り重なる死体の山。あたりにはぐちょぐちょ粘つく泥の跡。思わず倒れ込みそうになって、廊下の壁に寄りかかる。周防さんは死体を静かに見つめている。ほんの少しも怯えた様子がなかった。


「なんなのかなこれ。前川くんが先生に攻撃されてから発症してたから、全員そうなると思ってたけど。普通に殺されてる人もいるし。そもそも外傷が要因なら最初の先生がなんで発症したのかもわからないんだよね」


「周防さん。こわく、ないの」


「うん。あんまり。自己防衛本能的なやつなのかな?色々麻痺してるのかも」


 ついさっきもした質問をもう一回してしまった。強がりや虚勢の気配は見られず、周防さんはハキハキと俺の質問に答えた。死体を見つめる目が揺るがない。目をそらすことも伏せることも無く、まじまじのその様を見て観察している。泥人間の発生原因に考えをめぐらす余裕すらあるらしい。


「なんで……?」


 周防さんの視線がようやく逸れた。今度は自分へ。常日頃は伏し目がちで、どこか浮世離れした印象のあった周防さんの目。いや、そもそも。彼女はこんなに性格だったろうか?


 違う。


「なんで平気なの、周防さん」


 彼女は。俺のクラスメイトの周防さんー周防あかねは、ひっそりと教室の隅で本を読んでいるような子で。静かで、無口で、何も言わなくて。運動も勉強も目立つタイプじゃなくて、部活もやってなくて、あとそれから。


 周防さんが軽く笑った。


「何でだろうね」


 目立たない子だったのだ。ナタを振り回して泥人間をー元人間を躊躇なく切り殺す子ではなかったはずだと、俺はどうしてか泣きそうになっていた。



 校内は酷い有様だった。そこらじゅうを泥人間が徘徊していて、死体もあるだけ散乱していた。もう終わりだ、と俺は悲観した。周防さんはそのままだった。そのまま冷静に状況を把握し、冷徹になすべきことを成した。


「あいつら、腰より高い障害は越えられないみたい。変なの」


 ザクザクと泥人間を切り捨てて、周防さんはぐんぐん進んでいく。俺は後ろで見ているしかできなかった。怖かったし、そもそも手を出す隙がなかった。周防さんが振り下ろすナタで泥人間は瞬く間に崩れ、通過した後には溶融した泥人間の残骸だけが残っていた。


「だからとりあえずバリケード作ろうよ。場所は……一階のどこかの教室がいいかなぁ。いざと言う時の逃げ道の選択肢が多いし、バリケードの材料も運ばなくていいし。ほんとは備蓄食料があるから体育館がいいんだけど、今どうなってるか分からないしね」


 テキパキと、恐ろしいほどの手際で物事が進んでいく。道行く障害を切り伏せて、あっという間に動線を確保する。教室に蠢いていた数匹もあっさりと排除してしまった。バリケードが築かれて、そこからはさらに加速する。拠点を手にした周防さんは水を得た魚のように学校内を巡回し、気がついた時には校内の掃討が完了していた。


 それから、今に至る。


 地面にスコップを突き立てる。白い地面は意外と固くて、スコップの先が全然埋まらない。てこの原理で掘り起こしても、僅かに水たまりのような凹みが出来るだけ。同じだけ凹みそう。スコップの柄に体を預けて、ガックリと項垂れた。


「麻木くん、何してるの?」

「花村さんと市来さん。穴掘ってる」

「見ればわかるよ。相変わらず麻木くんってズレてる」


 ケラケラ笑う彼女たちは一緒に避難しているクラスメイトだ。花村さんと市来さん。よかった。最近は笑える余裕も出てきたらしい。避難し始めて最初の頃は、いつも脅えて震えるばかりだったから。


「二人はどうしたの?」

「体育館に備蓄食料取りに行こうかなって。そろそろ無くなるじゃん」

「ああ、でもそれなら夜の集会の時で良くない?周防さんが議題があるって言ってたよね」


 周防さん、の名前を出した瞬間、二人の表情に緊張が走った。ピリついた空気があたりに漂い始める。予想外の反応に、俺は思わず目を瞬いてしまった。


「麻木くんさぁ、よくあいつとまともに話せるよね。まじ尊敬」

「まともにって、二人も普通に話してるよね?こないだの校内の洗浄確認のときだって」

「そりゃ仕方なくだよ。あいつがいないとあいつらに勝てないんだから」


 ちら、と花村さんが校門の外へ視線を移す。俺たちのいる中学は幸いなことに周囲をぐるりと柵で囲まれており、学外の泥人間は侵入できないらしい。だから校内の泥人間を全員排除したここは貴重な安全地帯になった。その陣頭指揮をとったのが周防さん……というか掃討も全て周防さん一人だったと言っていい。怯える俺たちが見ている先で、周防さんは顔色変えずに泥人間を全員屠ったのだ。


「ほんと意味わかんない。教室にいた時から変なやつだったけど、こんな世界でも落ち着いてるし」

「すごいよね、周防さん。いつも冷静で憧れる」

「いやそういう話じゃないんだけど」

「え、そうなの?」

「そうだよ。麻木くんほんとウケる。まあそういうとこがいいとこだけどさー」


 花村さんが軽く笑って俺の肩を叩いた。はは、ととりあえず俺は笑った。


「とりあえず食料運ぶのは夜にするわ。んーじゃあ教室戻ろっかな。麻木くんも来たら?」

「いや、俺は」

「麻木くん」


 びくり、と大袈裟なぐらいに花村さんと市来さんの肩が跳ねた。俺は背後を振り向いた。予想通り、そこにいたのは周防さんだった。


「どうしたの、そのスコップ。何掘ってるの?」

「ああ、その。……せめて埋めてあげられないかなって。ずっと晒しっぱなしは気の毒で」

「ああ。泥人間に殺された人達、なんでか腐ったり変化したりしないもんね。でも掘るなら校庭はやめた方がいいよ。結構底が浅いって聞くから」

「え?そうなの?」

「うん。白い砂をあとから敷きつめてるだけだって聞いた。それに固くて大変でしょ。掘りやすいとこ探しとく」


 じゃあ、と言って、周防さんはさっさと歩いていってしまう。言葉のとおりに場所を探しに行ってくれるらしい。俺は慌てて後を追った。俺の発案なのに、周防さんだけ働かせる訳にはいかなかった。


「あ、花村さん、市来さん、また夜に!」


 大慌てで振り向いて手を振った。その時、俺は少しびっくりした。振り向いた先のふたりは、なんというか……怒りというか、敵意に満ちたというか。怖い表情を浮かべていた。


 なぜ。どうして、急に?訳が分からず振りかけた手が落ちそうになる。それに気づいたのかなんなのか、二人はハッとした顔をして表情を弛めた。いつもの二人だ。俺は妙にほっとして、やっぱり手を振った。そして大慌てで周防さんを追った。周防さんの足は早くて、ぐんぐん遠ざかっていってしまう。


 残されたふたりがどんな顔をしていたのか、俺は知るよしもなかった。



「大丈夫?俺、上の方やろうか」


 黒板の上に届かない。背を伸ばしてかかとをあげて、めいっぱい手を伸ばしても届かない。仕方なく自分のイスでも持ってこようかと思っても、そこに別の人が座っている。後ろの席の友達と話そうとが不法占拠しているらしい。落胆して諦めて、そんな姿を見ていたら手を出さずにはいられなかった。


 周防さんが俺の声に目を丸くした。隣に立った俺を見て、パチパチと瞬きする。俺は脇に置かれていたもう一つの黒板消しを手に取った。俺の身長なら、黒板の上だって楽に手が届く。


「……ありがとう」


 小さな小さなか細い声だった。少し顔を赤くして、周防さんがうつむいている。


「全然いいよ。こんなの面倒でもなんでもないし」


「麻木くん、いつも助けてくれるね。こないだノートを運んだときも、理科室の掃除してたときも」


「いや、ははは。困ってるかな−って思ったらつい……」


「うん。本当にありがとう。助かってる」


 周防さんがこちらを見た。眉毛が重力に負けたように下がって、目も何かをこらえたように潤んでいる気がする。呼吸が浅いのか、上半身が小刻みに動いているような気さえした。


 教室で見た彼女はいつもそうだった。苦しそうだった。


 そして今、彼女は正反対の顔をしている。


「外に行こうと思うの」


 眉毛はきりりとつり上がり、目にはギラギラと意思の光が灯って、そして体に震えは一つもない。怖いぐらいに真剣な声音で、ハキハキと、迷いなく、まっすぐと意見を口にする。


 教室ではついぞ見たことのない周防さんの姿だった。


「外、って」


「校門の外。学外。物資の調達のためにスーパーとドラッグストアまで」


「無理!!!」


 周防さんが言い終わるより先に叫び声が上がった。広野君だった。一緒に避難した生徒の一人で、元サッカー部、大柄で運動神経抜群。でも今は恐怖に色をなくしている。ぶんぶんと大きく首を振って、体躯に見合うだけの大声で叫んだ。


「外って外だろ!あいつらがうようよしてる外!無理だよ!死ぬ、絶対死ぬ、死にたくない!」


「でも物資がもう足りない。食料も日用品も。出て行かなきゃ待つのは餓死か、それよりもっとひどい何かだよ」


「だからってあいつらのいるところに行くなんて無理だ!畑野も川奈も、みんなあいつらに殺されて……」


 ああ、と声にならない苦悶の声。体育館の天井に届いて、そこからわんわん広がる共鳴。不安の種も一緒に広がっていくようだった。花村さんと市来さんが、ぶるりと震えて恐怖に身をすくませたのが見えた。


「別に平気だよ。あいつら鈍いし知能も低い。動作も雑で大ぶりだし、動くたびずるずるうるさいし。接触を避ける、逃げ道を確保する、耳を澄ませる。それだけしてればまず死なない」


「じゃあお前だけ行けばいいだろ!俺は絶対あいつらのところになんか」


「そうだよ。私だけ行くの。準備ができ次第明日にでも」


 体育館の中が静まりかえった。誰も彼もが口を開けて一人を見つめている。全員の視線を集める先、そこにいる彼女だけが淡々としていた。


「私が外に行って私が物資取って私が帰ってくる。それだけ。広野君には何の危険もないよ」


「それ、って。一人で行くってこと」


「さっきからそう言ってるじゃない。周防一人だけで行きますよ。念のため言づてだけでもと思って」


 またも沈黙。今度は動揺がさざ波のように広がっていく。花村さんたちが困惑したように話し始めた。広野君が目をぐるぐると泳がせている。ようやく事態が飲み込めたとき、俺は反射的に叫んでいた。


「危ないよ!死んだらどうすんの!?」


 周防さんは少しだけ、なぜか目を見開いた。だけどそれだけ。すぐに冷静なモードに戻ると、淡々としたいつもの語り口で話し始める。


「さっきも言ったとおり。泥人間は十分気をつけてれば避けられるし、大丈夫」


「いや、でも一人でって!なんで周防さんだけがそんなに」


「……ていうかさ。あんたがいなくなったらその間ここはどうなんの?危なくない」


「だから校内の泥人間は全員倒した。この中は絶対に安全。危険に合うのは私だけ。何か問題あるかな」


「問題しかないよ!周防さんが死んじゃうかもなんて駄目だろ!」


 耐えきれなくてついに立ち上がってしまった。どうして周防さんがそこまで冷静なのかわからない。動揺して叫び上がる俺を見て、周防さんはどういうわけか笑った。


「やっぱり麻木君はそうなんだね」


 どういう意味かわからなかった。そして周防さんは説明する気がないようだった。話は終わり、と言うと、俺から視線をそらして全体を見据えた。


「集まってくれてありがとう。それだけだから。明日にでも適当に出て行くから、よろしくね」 


 解散、のかけ声一つ、周防さんはそのまま歩き始めた。本当に今ので終わりらしい。待って、と俺は反射で追いかけた。体育館の中の人たちからは、一言も声が上がらなかった。


「待って。待ってよ周防さん。待ってってば!」


「麻木君。君の寝床は1Bでしょ。私は1C。不法侵入」


「え、あ。ごめ」


「嘘だよ。いつでも入っていい。からかっちゃった、ごめんね」


 驚いた。周防さんが冗談を言う日が来るなんて。俺は1Cの戸口で立ち止まった。学内を相当してから、一人一つで個室を持った。教室が丸々一つ一人のものだ。贅沢だけど、嬉しくはない。友達もクラスメイトもいない教室は、ただただ物寂しいだけだ。


「周防さん。行くのやめてよ。危ないよ」


「でも麻木くんもわかってるでしょ。このままじゃジリ貧。いずれ食料がつきてみんな死んじゃうよ」


「でも、だからって、周防さんだけが危険を冒すなんて。だったら俺も一緒に……」


 ふふ、と。笑い声がした。周防さんのものだった。


「私の生存は義務なのかな」


 言われた言葉の意味がわからなかった。かくんと小首を傾げ、周防さんを見る。周防さんは緩やかに微笑んだままだ。


「麻木くん。私が死んだら悲しい?」

「あ、当たり前でしょ!周防さんが死んだら悲しいに決まってる!だから今俺だって止めてるし…」

「そうだよね。そうよね。麻木くんはそう」


 周防さんの髪が揺れる。前髪は前より短くなった。切ったらしい。教室にいた頃は目元に落ちかかるほどだったそれが、眉上でざっくりときり払われている。不思議な程に、以前の彼女よりも表情が明るく見えた。


「じゃあ花村さんと市来さんは、広野くんはどうかな。私が死んだら悲しいのかな」

「そりゃそうだよ。誰だって周防さんが死んだら悲しいよ。だからさっきだって、みんな止めて」

「そうだね。今は悲しいね。私がいなきゃあいつら殺せないもん」

「え?」


 周防さんのスカートの裾が翻った。踊るような足取りで、周防さんが教室の中を横切る。持ち主を失って沈黙するばかりの机と椅子。物寂しいはずの光景の中で、どうしてか彼女はこの上なく綺麗だった。


「だけどさ。私がきっと前のままなら……教室の中にいたなら、あの子たちにとって何の役にも立たない人間だったら。止めないし悲しまないよ。わかるもの」

「な、にそれ……そんな、こと」

「ねぇ麻木くん。私の生存は義務なのかな。誰にとっての義務なのかな」


 スカートが踊る。周防さんが回る。花村さんたちより随分と長いそれが翻ると、大きなカーテンがはためいているようにも見える。どうしてだろう。誰もいない教室。不気味で怖くて恐ろしくて、かつてあった日常がバラバラに砕けてしまった象徴のような場所。


 それなのに、そこで笑う周防さんは誰より嬉しそうだ。


 教室にいた時より。かつての世界だった時より。この壊れた世界での方が、周防さんの笑顔は綺麗だった。



「死んじゃえばいいと思ってたの。全員」


「いじめてくる奴らも、無視するクラスメイトも、可哀想な奴って見下す他人も。『ああこいつはまともに相手してやる価値のない側の人間だな』って、それが透けて見える態度の人が全員、嫌いだった」


「誤解だって?そうだよね。私の性格が悪いだけで、世間の人はみんなそこまで冷たくないよね。こっちがひねくれて考えてるだけで、誰も私を悪く扱ってやろうとはしてないよね。そう、全部私の勘違い。明確に嫌がらせをしてこない人まで恨むのは筋違いなんだよね」


「いつまでそう言わなきゃいけないの?」


「ねぇどうして?だって事実じゃない。私と関わりたくないなって思ってたでしょう。違うならなんでため息ついたの。なんでそんなに嫌そうな顔で振り向くの。ほんの少し話しかけただけで、その視線の敵意は何?口には出さない態度にも出さない、でも全身が言ってる。『迷惑だ』って。それも私の気のせいなの?本当に、私を疎ましく思ってなんかないって、言えるの?」


「虐めてきた奴らは許さない。地獄でも生ぬるいほどの責め苦を味わって死んでもらう。だけどそれ以外の人達は?傍観してたことはまだいいわ。私もあなたたちの立場じゃどうなってたかわからない。でも私を嫌がった人。面倒がった人。邪険にした人。その人たちの方がよりタチが悪い。行動に移して攻撃するほどの熱意はないけど、存在してるだけで目障りなんだよね。私が。察してくれって、手を汚さずに不快の意思だけを押し付けて、いざとなったら気にしすぎで逃げられる立場にいて。卑怯者。最低。死んでしまえ。世の中そんなやつばっかりだわ」


「だから死んでしまえばいいと思ったの。全員。余すことなく。この学校にいる奴ら全て」


「ずっとずっと思ってた。死んじゃえ。死んじゃえって。学校に突然刃物を持った不審者が来て、顔をずたずたに切り裂かれればいいのにって。突然机に隕石が降ってきて、何もわからずに潰れちゃえばいいのにって。もしもーもしも、意味のわからない怪物が来て、そいつらを全員食い殺してくれたらいいのにな、って」


「そしたら、来た」


「来た。来たの。びっくりしちゃった。意味のわからない怪物が。来て……湧いて?どっちでもいいや。殺した。殺したの、全員!ううん、全員じゃなかった。手当たり次第に殺し回って……しかも、そのうち一部は同じく怪物になって。学校が一日でひっくり返った。地獄になった」


「私、びっくりして、怖くて、怯えて、驚いて、それで……あ、殺していいんだ、って」


「殺していい。なんの憚りもなく。正当防衛で。仕方なくて。生き残るために。殺していい。殺せる。無視した森下さんも笑った前川くんも睨んできた山崎さんも。みんなみんな殺していい。泥人間だから。もうそうなってしまったから。そう思ったら、私」


「この世界、ほんとに居心地がいい。やるべき事をやればいい。誰も私を押し潰せない。遠慮も我慢もしなくていい。なんて素敵な世界だろう!って」


「そうしてるうちにね、思った。なんで私、泥人間に限定してたのかな?って」


「そうだよね。仕方ないもの。いつ泥人間に変化するかわからないんだから、正当防衛。いや専守防衛?なんでもいおや。とにかくーークスクス話をしてた花村さんも、彼女と笑ってた市来さんも。私が教室に入るだけで笑って仲間内でゲームの種にしてた広野くんも。殺しちゃったっていいんだよね」


「ねぇ。私やろうとしたの。仕方ないから?嘘。やりたくて!殺したくて殺したくて殺したくて!もうどうなったってよかった!世界がこんなにぐちゃぐちゃなら、私が好きにやったっていいじゃない!今までずっと我慢してきた、仕方ないって飲み込んでた!普通の日常普通の生活、家族の今後教室の空気人としての倫理!我慢しなきゃってそう思ってたけど、もうそんなものどうでもいいんだから!だから」


「だから、だけど、でも」


「麻木くんが生きてる。この世界、まだ麻木くんが生きてるの。私に笑ってくれた時と同じように、優しい麻木くんのままで」


「麻木くんは違うの。私みたいにろくでなしじゃないから。ちゃんと優しい人と笑いあって、皆と仲良くしながら、そうやって生きていく人。ダメだよそんなの。麻木くんがいるのに。これ以上世界をぐちゃぐちゃにできないよ」


「だから頑張る。頑張って殺す。泥人間を排除する。麻木くんが生きていける世界を作る。そのためにも他の人には生きててもらわなきゃ。花村さんも市来さんも広野くんも他の人たちも。麻木くんが悲しくて泣かないように、寂しくて死んじゃわないように。私が全員殺すから」


「殺して。殺して。殺し回って。排除して切り裂いてぶち殺してーそれで、それで最後には」


「傷になりたい。麻木くんの傷になって、終わりたい。私のことを一生忘れないでほしい。この先生きてて何度でも思い出して、そういう形で生きていきたい。そうでもしなきゃ麻木くん、私のこと忘れちゃうよ。私みたいなのそうでもしなきゃ覚えてもらえないもん――そうでしょ?」




「ねえ。あんたー誰と話してるの」





 部活棟の更衣室には、今やかつての賑わいはない。生徒はほぼ全て泥人間と化し、あるいは殺され、校内に立てこもっているのは残りわずか。そしてその彼らも明日にはいなくなっているかもしれない。尽きた食料を確保するため、危険に満ちた外に踏み出さねばならない。飛び出すのは一人だけ、だけどその際に何があるか。これほど予測不能となった世界では、明日に何が起こるかなんて誰も予測できなかった。


「今の何。随分長々独り言しゃべってたけど。あんた何を言ってるの?」


 更衣室の入り口に立ちふさがって、花村が問いかける。薄暗い更衣室に人の気配はない。呼吸の音も衣擦れの音もせず、死んだように静まり返っている。だけど違う。無いように見えるだけで、そこには確かに人影がある。


 周防。


 ただ一人。周防が更衣室の中に立ちすくんでいた。花村に背を向けて、ぼんやりと更衣室の壁を見つめている。そこには何もなかった。人も動物も、植物の花の一本すらなく、わずかに焼けた更衣室の内壁が存在しているだけ。先ほどの語り掛けるような口調はなんだったのか。きゅっと、花村の目が細められた。


「花村さん。こんなところで何してるの?」


「たまたま通りかかっただけ。それよりあんたのほうでしょ。何してるの」


「それじゃあ私も同じだね。たまたま通りがかっただけだよ」


「茶化さないで!さっきべらべらしゃべってたあれは何って聞いてるの!」


 じれたように花村がその場を踏みつけた。瞳は鋭く周防をにらみつけている。通学していたころはいつでも可愛らしくセットされていた髪の毛が、今は無造作に下されているだけ。持ち主の怒りに呼応するかのようにばさりとその場に広がった。


「随分めちゃくちゃ言ってくれてたよね。卑怯者とか、傍観者とか。何あの恨み節。被害妄想にもほどがあるでしょ!」


「へえ。そう。被害妄想」


「そうよ!あんたが人から邪険にされるのって、自分の日頃の行いじゃない。話しかけてもいつも暗くて、目も合わさないし返答もおざなり。まるでこっちが悪いことしてるみたいにわざとらしく怯えたみたいなフリして!そんな態度されたらこっちだって気分悪いわよ!何にもしてないのに悪者扱いされてるみたいでさ!」


 激昂する花村と裏腹に、周防の反応は鈍かった。相変わらず何もない壁を見つめたままだ。花村を振り向くことすらしない。苛立ちに任せ、花村が歯を食いしばる。ぐっと強く拳を握り、踏みしめるように更衣室の中に押し入った。


「勝手に殻に閉じこもって、自分から関わる努力もせず。そのくせ他人の態度にだけは嫌に敏感で過剰反応する。相手の話も聞いてないくせに、自分の中の価値基準だけで理解した気になって悦に浸る。なんでそんな繊細ちゃんにこっちが気を使わなきゃいけないわけ。そっちはこっちのことなんか少しも気にかけないくせに!」


「そう。そんな風に思ってたんだ」


「何。あんただってさっき散々私のこと貶してくれたじゃん。お望み通り直接言葉にして伝えてあげたけど、なんか文句ある?」


 花村が周防の背後で立ち止まる。周防は相変わらずその場に立っているだけ。花村の怒りが頂点を越し、ついには手が伸びた。周防の方を強くつかんで、強引に振り向かせようとする。


「殻に閉じ込めたのはどっち」


 ひた、と首筋に何かが当たった。ひゅう、と空気が喉を通る音。瞳孔が散大し、目の前の脅威の情報を少しでも多くとらえようとする。花村の体に起こった変化は上記のようなもの。恐怖に際して行われる動作が瞬く間に巻き起こされたが――一方で周防の反応はやはり鈍かった。


「あなたたちっていつもそう。自分たちが正義で正しくて少しも間違いなんかないって信じ切ってる。世界の中心は自分たちで、それ以外の人の事情なんか考えもしない。あなたたちの何気ない言葉や動作がどれだけ人を傷つけるのか、考えたこともないんだろうね」


 ぺち、と。軽く刃先が首筋を叩いた。叩かれたのは花村だ。そして叩いたのは周防である。最早トレードマークと化したナタが、周防の手に握られている。ぴたりと刃先を頸動脈の辺りにつけながら、周防はゆっくりと、不釣り合いなほどに緩慢な仕草で首を傾げた。


「人を殺したいと思ったこともないくせに、人を殺すようなことをして。お前らみたいな人間がのうのうと生きてられた世界なんて壊れて当然だ」


 唐突に周防がその場から離れた。首筋の冷たさから解放され、花村が大きく後ろに下がる。周防はどこか無気力にそれを眺めていた。


「……イカレ女!」


 捨て台詞のように吐き捨てて、花村がその場から駆け出す。いつの間にか夕暮れは終わり、夜のとばりが落ちかけていた。紫から黒に変貌する空を見上げて、周防はゆっくりと目をつむる。


「はやく、明日に」


 そうしたらもう。


 その先の言葉は闇に溶けて消えた。周防は満足そうに息を吐くと、花村と同じように更衣室を後にした。



 蠢く。


 かっこいい言葉だけど、一度も使ったことはない。現実世界でそんな場面に遭遇することはそうそうない……とまで考えて、かつて川に打ち上げられていた鯉の死体を思い出した。波打つように動く姿に生きているのかと思って近づいて、ひどく後悔したことを覚えている。死んだらああなるのだ。その記憶は幼心にも強烈に脳裏に焼き付いて離れない。


 そして今、死のその先が視線の先で蠢いている。


 うぞうぞと、細かく揺れながら、あるいは密集して、校門に集っている。かと思えば急に飽きたように散開し始める。行動に脈絡が無さ過ぎてわからない。というより脳が溶けて論理的な行動を取れないのかもしれない。何でもいいが、とにかく今は泥人間たちが集まったり散ったりしながら、校門の周りをぶらついていた。


「……ほんとに行くの?」


「行くよ。このままじゃじり貧だもん。それは麻木くんだってわかってるでしょ」


「でも周防さんが一人で行くことはないだろ。俺だって……」


「意味ないよ。麻木くんはあいつら殺せないんだから」


 ぐっと、唇を噛みしめる。そうだ。俺が行っても足手まといになるだけ。わかっている。けれど。だからってやっぱり、彼女を一人で行かせるのは。俺の迷いを見透かしたかのように、彼女はこちらを振り向いて笑った。


「大丈夫。私、何も怖くないの。適材適所って言ったじゃない」


「どうしてそんなに怖くないの。死ぬかもしれないのに」


 この問いにはいつも明確な答えは返ってこなかった。自己防衛本能とか、感覚がマヒしただとか、あるいはよくわからないと微笑まれたり。今回も答えを期待していたわけではなかった。けど。


「多分、だからだと思うよ。死ぬかも、じゃなくて死ねるから」


 断固とした物言いだった。意味を掴みかねて周防さんの顔を見る。どういうわけか怖いぐらい優しい顔をしていて――急に背筋に寒気が走った。笑顔が怖かったんじゃない。とんでもなく恐ろしいことが起こる、という、予感というよりは最早確信だった。


「じゃあね。麻木くん」


 周防さんは軽くそう言い放った。また後で、と言いそうな軽い声で、俺はそれで反応が一拍遅れた。気が付いた時にはもうすでに、周防さんが校門を飛び越えて泥人間に襲い掛かっていた。


「は――」


 飛び越え様、手前にいた泥人間の脳天をナタで勝ち割る。ぐしゃりといい音を立ててそいつが崩れた。どうも泥人間が散会しているタイミングだったらしく、周囲には襲い掛かってくる相手はいない。突き立てたナタを回収して、周防さんが次の泥人間に襲い掛かる。背後から袈裟切りにされたそいつはそのままの姿勢で前に倒れ、そのまま溶けた。


「アッハハ!」


 周防さんが笑う。軽快に、楽しそうに、この世の春だと言いたげに。何もかもから吹っ切れたような顔をして。ぐちょぐちょとナタにまとわりつくヘドロを振り払って、その動作すら踊るように軽やかだ。ギラギラと輝くその瞳は、この状況を心から楽しんでいるように見えた。


「死んじまえ……死ね、死ね!お前らみたいなやつら、さっさと死んじゃえばいいんだ!」


 そんな言葉、心のどこにしまっていたんだろう。叩きつけるような憎悪と殺意はどこから湧いて出たんだろう。


 なんで君は、教室にいる時なんかより今の方がよっぽど楽しそうなんだろう。


 死ねるからなんて、どうして言わせてしまったんだろう。


『私の生存は義務なのかな』


 そう言った君はどういう気持ちだったんだろう。


 わからない。この世界になってからずっとわからない。見たことのない周防さんを、何よりも生き生きと泥人間を殺す周防さんを――ずっと眺めていた。眺めているしかできなかった。




「そんなことしてやる価値なかったじゃん」


 上から声が聞こえる。頭上はるか上から。この学校にそんな背の高い人いたっけか。違う。俺がうずくまってるんだ。地面にうずくまって倒れこんでるから、立ってる相手の声が高い位置から聞こえる。


 わかってるのに顔があげられなかった。手足が萎えて少しも動かせない。体力がないとか怪我をしてるとかではない。単純に気力が萎えて、ほんの僅かも動けなかった。


 周防さんが帰ってきた。死体で。車の中で眠るように息を引き取っていた。


 どこで見つけ出したのだろう。彼女はまだ動く車をどこぞから見つけ出して、ありったけの物資をそこに詰め込んだらしい。トランクから後部座席まで、あるだけの食料やら日用品の類が詰め込まれていた。そして彼女は運転席で死んでいた。何が起こったのかはわからない。ただはっきりしているのが、彼女がきっと最後まで俺たちのために物資を集めていたこと。それを学校のすぐ近くまで運転して持ってきてくれたこと。それだけだった。それだけで十分だった。


「麻木くんは知らないと思うけどさあ。あいつとんでもない奴だったんだよ。わかる?殺したい、って言ってたの。クラスメイトも先生も道行く人も何もかもみんなみんな――自分を助けてくれなかったから憎いんだって。馬鹿みたい。いじめた奴だけ恨めばいいのに、ただ底にいた人までも逆恨みして。被害妄想甚だしいっつーの」


 頭上からの声が何か言っている。何だろう。誰だっけ。確かそう、一緒に生き残った、花村さん。クラスでも中心になる明るい子で、でも意外とさばさばしていて付き合いやすくて。友達も多いし頼れる姉御肌というような。そんな彼女が何を言っているんだっけ。わからない。誰の話を――そう、周防さん。周防さんの話をしていたはず。


「あいつがなんであんなに強硬に外に行きたがってたか知ってる?麻木くんの傷になりたいんだってさ」


 かっと目が見開いた。さっきまでほんの僅かも動かせなかった全身が、急に針金が入ったかのようにしゃんとする。折れるんじゃないかという勢いで顔をあげた自分の前に花村さんがいた。


 見たことないぐらい冷たい目をしてた。


「意味わかんない。気持ち悪い。傷?何がしたいの、それ。身勝手じゃん。一生忘れないでって、最低最悪の呪いだよ」


 ぺらぺら花村さんが語りだす。周防さんが言っていたこと。こぼした言葉。心情。そうでもしなきゃ覚えてもらえないから、って。累々と流されるそれは彼女の欠片のようだった。教室という檻の中で、つもりに積もった傷の山。それが彼女。


「だからそんなに落ち込むことないって。あいつ、自己犠牲できる自分に酔ってたんだよ。だってほんとに君のこと思うなら、一人で外に向かうなんて無茶しない方がいいのに」


「……そうだね。花村さんが正しいよ」


「でしょ!?だからさ、麻木君も早く教室に戻ろうよ。あそこでなら落ち着いて話もできるから。ちょうど食料の心配もいらなくなったわけだしさ」


「そうだね。みんなで仲良く食べて。俺はいらないから」


「え?」


 校門の方に歩き出す。横付けされた車からは、物資はあらかた運び終えてしまってほぼ空だ。


 運転席側の戸を開ける。彼女が眠っていた。この世界の死体の中では、かなり穏やかな死に顔だと思う。その事実だけが救いだった。


「麻木君。何してんの」


「ナタ取ってる」


「なんで?」


「なんで……だろう。わかんないな。ただ、なんか。彼女の気持ちに答えるなら、これしかないのかな、って」


  背後で花村さんが爆発したように怒ったのがわかった。わかったが、無視した。というより耳に入らなくなった。彼女もこんな気持ちだったろうか。


 ナタを握る。結構重い。彼女はこれを振り回していたのか。早く慣れないと。だってそうじゃなきゃ、殺せないのだ。彼女のように。彼女と同じに。


「気づけなくてごめん。大丈夫。忘れないから」


 そっと彼女の額に手を置いた。冷たい。固い。生きてる人間というものがここまで暖かく柔らかいのだと――いや、違う。死んだ人間がどれほど固く冷たいのかと、俺はこの時初めて知った。ついぞ彼女の生きた体温に触れることは叶わなかった。


 ナタを揺らして、二歩、三歩。外に出たらすぐに泥人間の世界。怖くて恐ろしくてたまらない――それでも彼女には、ここが何より救いだった。こんな世界を救いに思うぐらい、元の世界は周防さんを圧迫していた。


 だったら俺も、世界なんか壊れちゃったままでいい。そう思ってしまう。


 うぞ、と揺れながら、泥人間が近づいてくる。辺りには珍しく他の泥人間はいない。ちょうどいい。こいつで練習しよう。殺す練習を。ナタを軽く振るいながら、そいつに向かって歩いていく。泥人間の目が、ようこそ、と言っている気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スクールカースト・オブ・ザ・デッド さめしま @shark628

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ