第2話
家に帰ってきた途端、疲労が大挙して押し寄せてきた。友人の弁舌は別れる直前まで止まらず、私はどうにかこうにか手術とやらを曖昧に避けることに神経を張り巡らせねばならなかった。
どうして突然あんな風になってしまったんだろう。多少ミーハーというか流行り物が好きな向きはあったけれど、盲目的に宗教を信じたりする子ではなかったはずだ。それが今やあんなにのめり込んで、どころかうさんくさい手術まで受けるようになっているとは。思わずこめかみを抑えてうめき声を上げてしまった。
「ミサキ様。お帰りなさいませ。お加減が悪いようですが……」
「ああ、大丈夫大丈夫。ちょっと気が重いことが増えただけだから。別に体調が悪いわけじゃない」
「左様ですか。ですが、今は大事な時期です。本日の夕飯は何か精がつくものに変更いたしましょうか」
「んー、今から用意するの大変でしょ。それに作業も大詰めだから、昨日と同じく手軽に食べられるものがいいな」
「かしこまりました。本当に大儀なことで、お疲れさまでございます。私どももミサキ様の代でこの日を迎えられるとは思わず感激の至りで……」
「そうだよねえ。私も自分が当主の代でこの日を迎えることになるとは思ってなかったよ」
お手伝いさんにコートを預け、自分の部屋へと向かう。板張りの廊下はこの季節ずいぶんと冷え込む。長い長い廊下を抜けて書斎のドアを開け、電気をまともにつける気力もないままデスクチェアに身体を埋める。スプリングが軽いきしみをあげた。
「無駄なのに。修繕なんか不可能だよ。人類はどうあっても故障するんだから」
薄暗い部屋の中、ディスプレイがぴかぴか光っている。隣に据えられた補助ディスプレイにはあふれんばかりの数式が流れていた。うなりを上げるコンピュータの稼働音に、冷却ファンの旋回が折り重なり、部屋を満たす。
「まさかあんなダミー組織に本当にだまされる人がいるとは思わなかったなあ。ちょっと悪いことしちゃったかも。まあ、でももう関係ないか。どうせ皆あと一ヶ月の命だもんね」
キーボードを叩き、メインディスプレイに今日の稼働状況を映し出す。世界中に散布予定のナノマシンの製造率は95.8%を示している。
吸って吐く、ただ生きていくために必要な動作をするだけでこれは体内に取り込まれ浸食し、単純な命令プロトコルを発する。普段ならばただのエラーデータとして排除される程度の微細な信号。だが、私たちの身体には致命の一撃だ。何せ造物主自らがあらかじめ組み込んでおいたデッドコードなのだから。
人間である以上-いや、かつて天才科学者に作られた生体バイオロイドの裔、かつての人類のイミテーションたる現世人類-であるならば、この破壊信号から逃れられるすべはない。
「人体設計図たるファブリカを読み解けるのは解読遺伝子の遺贈を受けた私たちの一族だけ。あんなインチキ組織が読み解けるわけない。そもそもあいつらの行動だってあらかじめ人類の数パーセントに埋め込んでおいた扇動遺伝子を賦活させてるだけだし。どうして自分たちがああしてるのかなんて、あの人たちもわかってないよ」
変な狂信者が信憑性の乏しい主張を続けている。そうやって思わせておけば、誰も本気であの話にとりあったりはしない。そのうちに全てが終わる。私たちの一族が代々受け継いできた使命を果たすために必要な時間は十分に稼げる。
「現世人類の始祖、我らが師。あなたの下した決断はこれなのですね。人類は与えられた二度目のチャンスをも棒に振った。もはや生存するにあたわず、と……」
ディスプレイに映し出されるファブリカの一部。緻密に構成された生体組織とバイオコンピュータの設計図。常人では考えつかない飛躍した発想と、それを現実にくみ上げた胆力、復活させた人類を生存のレールに乗せた手腕。どれをとっても神業だ。同じ人間とは思えない。いや、まさに私たちとは違う、本当の意味での人間はただ一人。グレートオールドワン。数千年の時を超えて彼の意思が変わらなかったのだから、私たちはその意向に従うのみだ。たとえ彼の思考と本意がわからなくとも……それは我々が師の高次の思索について行けないだけなのだから。
「あなたが作り上げたこの芸術的な躯体を壊すのは気が引けます。でも……五千年の時を超えるあなたの悲願。必ずや果たしてみせましょう。人類は確かに故障する。それが揺るぎない世界の真実なのですから」
そうだ。勝負は一ヶ月後。その日人類が故障する。あの街頭演説の言うとおり、そして友人の信じたとおり。もう誰にも止められない。確実に、何があっても人類は滅ぶ。誰も信じていないーいや、嘘にパッケージされて見えなくなっているけれど。これが世界の真実なのだ。
世界五千年前仮説 さめしま @shark628
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