第16話 初めてのキス

 窓から差し込む朝の光が、急速に身体を覚醒させる。


 手元のスマホを確認すると、まだ朝の6時前。

 やれやれ、昨日の夜は殆ど眠れなかったのに、と身を起こすと、隣のベッドを眺める。


 そこに横たわるのは美しい少女。

 スースーと可愛い寝息を立てながら、梨沙姉があどけない寝顔を見せていた。


 昨日、軽井沢の別荘に到着し、そこで初めて寝室が二つしか無いと聞かされた。


 最初は剛さん、沙耶香さん共、心配して、男部屋、女部屋に別れようかと言っていたのだが、梨沙姉が「了君が変なことするわけが無いでしょ!」と強硬に主張して、結局、夫婦部屋、従姉弟部屋に分かれることになったのだ。


 いや、梨沙姉の信頼は有り難いし、その信頼を裏切るようなことは決してしない。


 だけど、従姉妹とは言え、梨沙姉みたいな美少女と同じ寝室なんて、こっちの心臓がもたないよ。

 昨夜は、心臓バクバクでなかなか寝付けなかったし、今朝もこんな時間に目が覚めてしまった。


 さて、二度寝もできそうに無いし、起きるかとベッドから立ち上がり、もう一度梨沙姉に目をやる。


 全く、こっちは意識しまくって眠れなかったと言うのに。安心したように眠っている姿に、ちょっとだけ恨めしくなる。少しは男として意識してくれてもいいのに、ただの弟と同じような感覚なんだろうな。


 梨沙姉を起こしてしまわないように、そっと部屋を出ると、リビングを通って外に出る。


「走るか」


 日々のランニングは今は夕方やるのが習慣だが、目が覚めてしまって、やる事も無いし、旅先の早朝にランニングするのも乙なものだろう。と、準備運動もそこそこに走り出す。


 5月の軽井沢、朝はまだ寒い。5,6℃くらいしか無い澄んだ空気の中、吐く息が白い。その白さが、通り過ぎていくカラマツの林の中に消えていく。


 そうやって、小一時間程走ったところで、別荘に戻って来た。


 キッチンにはもう、沙耶香さんが起きて来ていて、朝食の準備をしている。


「あら、了君。走ってたの? 早かったのね」


「ええ、ちょっとよく眠れなくて早く目が覚めちゃったんで」


 その言葉に、何故眠れなかったのか察したのだろう。口に手を当て、クスクス笑っている。


「そうかあ。了君も男の子だもんね」

「……」


 その言葉にどう反応していいかわからず、口ごもってしまう。沙耶香さんは、そんな俺に生温かい目を向けると話題を変えた。


「とりあえずお風呂入ってきなさい。後、着替えとって来る時に梨沙を起こしてきて」


「わかりました」


 確かに寒いとはいえ、走って汗かいてるしな。時刻も7時になってるし、そろそろ梨沙姉も起こした方がいいだろう。


 着替えを取るために、いったん寝室に戻る。梨沙姉が起きて着替えでもしているところに踏み込んだりしたらいけないから、一応軽くノックして、反応が無いのを確かめてから部屋に入った。


 梨沙姉は相変わらず平和そうに眠っている。

 普段は早起きしてお弁当とか作ってくれてるから、この時間まで寝ていることは珍しい。


 さて、起こすかとベッドに近づいて彼女の横顔を見たところで、ついつい悪戯心が芽生えてしまった。


 よし、いつもやられてるばかりだから、今日はこっちが同じことをしてやろう。


 まずは梨沙姉のほっぺたをツンツンつついてみた。

 滑らかで張りのある頬に指が沈み込み、すぐに押し返してくる。


 その柔らかな頬の感触に感嘆するが、梨沙姉が起きてくる気配は無い。むにゃむにゃと口が動き、もぞもぞと寝返りを打ったが、眠ったままである。


 よし、それなら最後の手段だ。


 俺は梨沙姉の耳元に口を近づけ、フーっと息を──


「ひゃあっ!」


 梨沙姉が飛び起き、表情を見ようと顔の方を見た俺と──


 ガッ!!


「「つーっ!」」


 二人して口を押えてベッドに突っ伏して悶絶する。


 歯が、いや、口がぶつかってしまった。

 固い歯の感触だけでなく、柔らかい唇の感触が……


 え? あれ?

 これ、事故とは言え、梨沙姉とキスしてしまったってことだよな……。


 ──とんでもないことをしてしまった。


 痛みが治まるのを待って、俺は梨沙姉に土下座した。


「ごめん、梨沙姉。ごめんなさい!」


「き、気にしないで。ノーカン、ノーカンだから、これは。了君も忘れて!」


 真っ赤になった顔を両手で覆っている梨沙姉を見てられない。


 もう一度、「ごめん!」と叫ぶと、着替えを持って部屋を飛び出したのだった。





 湯船につかりながら、頭を抱えている。

 まさか、あんなことになるなんて思いもしなかった。


 梨沙姉とキス……キス……


 いやいやと頭を振って雑念を振り払う。

 梨沙姉だってノーカンだから忘れろって言ってたじゃ無いか。


 そりゃ、事故とは言え、ただの従兄弟とのキスなんか、彼女だって忘れたいよな。


 だけど、だけど……

 俺にとってはファーストキスだったんだ。

 事故だけど、キスと言うより、ただ口と口がぶつかっただけなんだけど、それでも……


「忘れられる訳無いよ……」


 はぁ~と、深い深いため息が浴室に響いた。





 その日の昼過ぎ、梨沙姉と二人、旧軽銀座の方にやって来た。


 あんなことがあったにも関わらず、梨沙姉は元気いっぱいである。

 俺は恥ずかしくて、彼女の顔すらまともに見ることができないのに。


「了君、ほらあれ、『らくやき』やって見よ!」


「らくやき?」


「そ、陶器に絵を描いて焼いてもらうんだよ」


「えー、そう言うのって子供向けじゃ無いの?」


「そんなこと無いって。大人の人も結構やってるよ」


 俺の手を取ってズンズンと店の方に向かう梨沙姉。「いや、俺、絵苦手だから」と思いつつ、楽しそうな彼女の顔を見ると何も言えなくなってしまった。


 さて、店の中に入ると、確かに大人と言うかカップル客が一定数いる。俺達はカップルじゃ無いけど。……いや、俺達の関係を知らない人たちから見ると、俺達もカップルに見えるのかな?


 そこで、また朝のことを思い出して赤くなっていると、目の前に素焼きのマグカップが置かれた。


「二人でそれぞれ絵を描いて、交換しよ」


 そう言う梨沙姉の手元にも同じマグカップ。彼女は早速絵を描き始めている。


 しかし、絵ね。何を描こう。図工の成績はいつも評点Cか、良くてBだったし、絵心は全く無い。梨沙姉は何を描いているんだろうと、彼女の手元を覗き込むと、どうやら子供?を描いているようだ。


 視線を上に上げると、絵に集中している梨沙姉の美しい顔。その唇を見て、また変な気分になりそうになるのを、頭を振って振り払い、とりあえず、彼女の似顔絵を描こうと心に決めた。


 そう思って、描き始めたのだが──


「うう、難しい」


 鉛筆で平面に下書きできる紙の絵と違い、曲面に筆で一発描きをしていくのでは、まるで要領が違う。梨沙姉の似顔絵と言いつつ、似ても似つかないどころか、子供の落書きみたいな絵になってしまった。


「何描いたの?」


 絵が完成したのか、梨沙姉に聞かれる。こちらも絵は完成しているが、とても見せられたもんじゃ無い。でも、見せないわけにもいかないから、絵を描いたマグカップを渡すと、ちょっとびっくりしたような顔をしてから、クスッと笑った。


「もしかして、これ私?」


「……うん。ごめん、絵が下手で」


「ううん、凄く嬉しいよ」


 優しく微笑む彼女に、またまたドキリとしてしまう。全く、今日の俺、何やってるんだろうな。とにかく、話変えなきゃ。


「それで梨沙姉は何描いたの?」


「ん? これ」


 そう言って差し出してきたマグカップに描かれるのは、街の中を手をつないで歩く男の子と女の子。


「あれ、これって俺と梨沙姉の子供の頃?」


「そうだよ。覚えてる?」


「え、でも、俺の方が梨沙姉の手を引っ張ってる? そんなことあったっけ?」


「ふふ、あったんだよ。そんなことが」


 ええ? 俺いつも梨沙姉の後をついて回ってただけだと思うんだけどな。でも、梨沙姉がそう言うなら、そんなこともあったんだろう。


 それから、俺達はそのマグカップを焼いてもらい、受け取って家路についたのだった。



 ❖ ❖ ❖



 今はもう、夜中の1時過ぎ。眠れない。


 目の前では了君が寝息を立てている。あんなことがあったのに、眠れちゃうんだ。

 私は朝のことで心臓バクバクで眠れないってのに。


 昨日の夜だって、私は君のこと意識して、明け方近くまで眠れなくて、だからあんな時間まで眠っちゃってたのに。さっさと起きて走って来たって、私、意識されてないのかな?


 ──キスのことも。

 あれ、私のファーストキスだったんだよ。

 事故みたいなもんだけど。口と口がぶつかってしまっただけだけど……。


 初めてのキスは、ちゃんと告白されて、ロマンチックな雰囲気の中でって思ってたのに。


 あんなのノーカンだよ、ノーカン。

 ……だけど、忘れられない、君との大切な思い出。


 思い出と言えば、あの日のことも、君はやっぱり覚えていてくれなかったけど、それでも、あの日から私はずっと君のことが好き。


 了君を起こさないように、そっとベッドから降りると、彼のベッドの横に座り込んだ。

 マットレスに身体を預け、横向きで寝ている彼の顔を覗き込む。


 男の子らしく薄い、でも艶やかな唇。

 この唇と重ねちゃったんだ。


 ねえ、了君。


 私は眠っている彼に語り掛ける。心の中で。


 その唇は、いつか私に愛を囁いてくれますか?

 その唇は、いつか今日を上書きするような情熱的な口づけをくれますか?


 答えは無い。彼は眠っているし、私は声に出していないのだから当然だ。


 そっと立ち上がり、彼の横顔を眺める。

 いつか彼は答えをくれるだろう。でも……


 初めてのキスの思い出があれじゃやっぱり嫌。

 せめて答えをくれるその日まで、これで上書きすることを許してね、了君。


 私は身を屈めると、彼の横顔に、柔らかいその頬に、彼を起こしてしまわないように、そっと、唇を落とした。 



========

<後書き>

次回は12月27日(金)20:00頃更新。

第17話「「あーん」が怖い」。お楽しみに。

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