第15話

エピローグ

  

 狩猟区の中には、一際危険な区域が存在する。通常誰もが足を運ぶ事を躊躇い、敢えて通過する事のない区域、その名を北の琥珀地区、南の瑪瑙地区と人は呼ぶ。

 狩猟区は人を喰らう獣の住処であり、その中でも一等危険な獣ばかりが住まう区域である為、余程腕の立つ獣売屋の他には迷い人しかその地を訪れないと言われる。

 瑪瑙地区を目前に、男は抱えた女を休ませる。

 大きな怪我が完治しておらず、しかも身重の女性であった。諸事情で国元にいる事が出来なくなり、狩猟区に逃げ込んだまでは良かったのだが、後から彼女が身重であった事を知る。子供が生まれるのだ。なんとしても生み月までに、出産の体勢を整える必要が出来た。

 女性の足の怪我はなんとか良好に推移しているものの、走らせるのは忍びない。無理をさせると傷が開いてしまう事は明白であり、一刻も早く彼女の体の為にも一箇所に落ち着きたいものであるが、狩猟区の中にそんな場所はそうそうない。

 賂族、という一族がいる。

 狩猟区の中に生活拠点を持っているが、幾つも拠点を有している為、あちらこちらに移動している。訪ねていっても良いのだが、無駄足を踏まされる可能性が高い。今いる場所から考えれば、近いのはやはり、瑪瑙地区内にある村、伽羅だ。だが、伽羅を訪ねて行ったところで入れてもらえるとは限らない。旅人を受け入れてはいないからだ。

「伽羅に入れたとして、伽羅の産婆さんで対応できないとなると、結局賂を訪ねなければならないのでしょう?」

 女性は木に凭れて座り込み、問うてくる。地面に座らせるのが申し訳なくて、頭が自然と下がる。

「はい。ですが、賂の当主は契約を持ちかけてきます。もちろん私が契約致しますが、万一貴女様にとんでもない要求をして来たらと考えると、気が気ではなく」

「でも、伽羅に入れるとも限らない」

「はい」

「危険な瑪瑙地区を越えてわざわざ出向いて、入れて貰えないかもしれない」

「はい」

 んー、と女性は小さく唸る。

「危険が少ないのは賂を訪ねていくことだけれど、探すに手間取れば子供を産むのに間に合わない可能性がある訳よね」

「はい。そもそも、国元に帰れない以上、どこか住まいを探す必要はどうしても出てきます。ずっと狩猟区の中を徘徊している訳にもまいりませんし、安全な家が、どうしても必要です。御子を育てるとなると、尚更です。伽羅村に滞在を願い出る他ないかと。賂に住処を用意してもらう事も出来ますが、毎日毎日履行すべき契約が積み上がっていくことになりますので、あまり現実的とは言えません」

「そうよね」

 女性、メアリはほぅ、と溜息を付く。

「伽羅の方がまだ、今後の事を考えたなら可能性はあるわよね。なんていっても、息子さんがいるのだし」

 男、ソウは苦く笑う。

「捨てていった息子ですので、顔も知りませんが」

「ふふふ。瑪瑙地区は危険だし、伽羅に到着しても入れて貰えなかったら無駄足だわ。でも私、伽羅に行こうって決めているのよ?だって貴方の息子さんに会ってみたいもの。もちろん、奥さんにも」

「妻ではないですが」

「貴方の子供を産んだのに、奥さんじゃないの?」

 ソウは口籠る。犯されたとはやはり、あまり言いたくない。言い淀むソウを見遣り、メアリはまぁ、と話を変えた。

「ともかく、入れてもらえる事を期待して、伽羅村に行きましょう。入れてもらえなかったら、その時はその時でまた考えたら良いもの」

 メアリは両手を伸ばす。手を貸してくれという意味だととって、ソウは同じように両手を差し出した。

 メアリは両手を無視し、ソウの胸に飛び込んでくる。ぎょっとするソウは、両手の行き場がなくて空で泳ぐ。

「寒いですか?」

「そんな事はないのだけれど。心細い。獣が後ろから来たらどうしようってつい考えてしまうから、貴方にくっついてないとまともに話も出来ないわ」

 だからといって引っ付かれても困るのだが、少しでも恐怖が和らぐのであれば仕方がないと諦める。

「息子さんは、なんていう名前なの?」

「分かりません」

「そうなの。それでは、会うのが楽しみね」

「楽しみ、という事はありませんが」

 憎まれているに決まっている。無事にポロから出たかどうかも知らず、名前すらも知らず、一度も会いに行かなかった父親など、立場があったものではない。父親と名乗る事すら烏滸がましい。

「私は楽しみ。だから、連れて行って貰える?ソウ」

 気乗りがしないのを見抜かれ、ソウは苦く笑う。

「ええ、もちろんです、姫様」

「その姫様というのはやめて頂戴。身元がばれてしまうじゃないの。ライラと、そう呼んで」

「人前では、そのように致します」

 彼女と自分の関係は、正直微妙だ。何が何でも守り抜く所存だが、距離感に戸惑いはある。気軽に触れて良い女性でもなければ、いくら偽名を使っていようとその名前を気安く呼ぶのも憚りがある。

「これからはずっと、貴方と生きていくのよ。直に慣れていくかもしれないけれど、最初はやはり、仲良くなれる努力をすべきだと思うの。名前を呼び合って、他愛もない雑談をしたり、お互いの事を話してみたり。距離を縮める努力をしなくちゃ、ね?ソウ」

「・・・左様で、ございますかね」

「ふふふ、左様でございます」

 メアリという女性は、とても屈託なく笑う。つらいことがあったばかりだというのに、笑顔には全く邪気がない。最近では塞ぎ込んでいる時間も長かった事を思えば、だいぶ状況は良くなってきたと好意的に受け止めるべきなのかもしれない。

「伽羅村、伽羅村。氷国は初めてだもの、楽しまなければ損よね。貴方の家族に会えるのも楽しみだし」

「期待は、なさらない方が宜しいかと」

 なかなかにぶっとんだ村だった。欲望に忠実な伽羅の女性達の姿など見せたら、彼女は卒倒しそうな気がする。悪影響まで与えかねない。

「どうして?ソウの愛した女性でしょ?さぞ素晴らしい人だったのでしょうね」

「いえ、私が愛したわけでは。素晴らしい、とはお世辞にも言えない人でして、姫様にお目通り叶うような人では」

 言いかけたソウに、がばっと胸の中で顔を上げたメアリは、力一杯首元に抱きついてくる。あまりの事に声も出ない。

「・・・ひっ」

「ひ?」

「ひ、ひ、いえ、ライラ!」

「そうね」

 メアリはくすくすと笑いながら、ソウを絡めた腕を解く。ずきずきと罪悪感に苛まれ、心臓が痛い。

「その方、生きていらっしゃったら、貴方を返してと仰るかしら?」

「ど、どうでしょうか。当時の彼女ならそう言ったかも知れませんが、気持ちが冷めるには十分な年月が流れました」

「返してと言われても、返さないけれど」

 ソウはとりあえず少し離れて下さいと、訴えるように言う。

「彼女は、生きているかどうかも分かりませんから」

 ぴたりとメアリは笑顔を引っ込め、眉根を寄せる。

「・・・お亡くなりかもしれないの?」

「ええ、ちょっと事情がありまして。確かめた訳ではないので、生きているのかどうか、それすらも定かではなく」

 まあ、とメアリは悲しそうに声のトーンを落とす。折角やっとの事で気持ちを立て直してきた彼女のメンタルダウンを心配し、ソウは慌てて話題を変えようとしたが、メアリが先に言葉を紡いだ。

「生きていらっしゃると、いいわね」

 今度はソウが黙り込む。

 最後の最後に、彼女にはとても酷な事を言った。そのまま逃げるように帰国してしまったソウは、結局彼女がどうなったのかを知らない。当主の呪いが解けていたなら、ソウの仮説が正しかったなら、彼女が仮説通りに他の男を選んでくれていたら、生きているかも知れない。

 彼女を心から愛する誰かと、幸せになってくれていたらどんなに良いだろうかと、願わずにはいられない。あの時の彼女は迫り来る死の影と、犯してまで側に置いたソウの事しかよく見えていなかったように思う。生き延びて、愛される喜びを知って、子供を大切に育て、新しい家族の輪の中で幸せそうに笑っていてくれたら良い。

「私の産む子とソウの子、仲良くなれるかしら」

 はっと、ソウは顔を上げる。メアリはお腹に手を当てて、ソウを気遣うように笑う。

「そんなに歳も離れていないでしょう?この子のお兄様になって、沢山遊んでくれたら嬉しいわ」

 ふふと笑うメアリに、ソウは苦く言う。

「・・・いえ、私の子は、おそらく七つにはなろうかと思いますが」

 メアリは溢れんばかりに目を見開き、叫ぶ。

「・・・えっ!?ええ!?あ、貴方、幾つの時の子なの!?」

「十四です」

「伽羅に滞在してた事があるって、七年前の話なの!?」

 ソウは今年二十一になったので、そういう事になる。随分と前の事のような、最近の事のような。瑪瑙地区を前にすると、あの頃の事が鮮明に思い出される。

「そ、そうなの。結構最近の話なのかと、勝手に思っていたわ。驚いた」

 メアリは頷く事で返事をしたソウを呆然と見遣りながら、視線を巡らせる。

「そっか、七つ。それは随分なお兄様よね。でも、大きなお兄様も良いわよね。色んな事を教えてくれるもの」

 どんな風に育っているのかも分からないので如何とも言い難いが、とりあえず黙っておく。

「返せと言われても返さないけれど、いい?」

「なにがです?」

 突然問われて、ソウは首を傾げる。

「貴方を、よ。貴方の奥さん、いえ、子供を産んだ方に返せと言われても、私も貴方を手離すつもりがないから戦うけれど、いいかしら?」

「・・・返せとは、言われないかと思いますが」

 当時なら、分からないが。

「貴方はあの人から借りているのだもの。落ち着いたらあの人に返さなくちゃいけないの。貴方を元いた場所に返してあげることが、私の責任。だから、取られる訳にはいかない」

 ぎらりと、メアリの目が光る。彼女は姫君だというのに、時折とても雄々しい強い目をする。強い意志が垣間見える時、彼女の目に光が宿る。その瞬間がソウは、恋愛的な意味では決してなく、とても好きだ。

「それでは、行きましょう。ソウの子と、その子を産んだ女性に会いに。えっと、彼女のお名前は?」

 メアリが腰を上げようとすると、ソウは手を添えてくれる。そして優しく微笑んで、どこか懐かしそうに言った。

「レイラです。伽羅の、レイラ」

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獣姫の最後の恋 みこ @miko-miko

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