第30話

桐也と早川が知恵を出し合えば、きっと不可能なことなどないような気がした。


 兄弟勝負は直哉が立案を出せず、そこで勝負は決まる。直哉は候補地の者たちと大きく揉めて話を一つも進めることが出来なかったのであった。


 しかし桐也の案とて、尚人が諾と言わねば負けと同じ。


「やはり私の血をひいているのだな……」


 尚人の呟きは桐也には聞こえなかった。尚人の脇に控えていた家令の水戸が苦虫を噛んだような顔を一瞬だけ見せたのを不思議に思った。


 そしてその顔がふてくされる直哉の表情と重なって見えたのは気のせいかもしれない。



「温乃」


 シヅの隣で卵を混ぜている温乃を呼ぶと、ふわりとした表情で振り返った。

 ここ最近、頬がよく上がるようになったことを桐也が一番嬉しく感じている。


「きりや! あのね、だしまきつくるの」

「そうか。出来たらいただこう」


 温乃の語彙も増えていた。最近では絵本であれば温乃ひとりで読めるようになっていた。


 廊下をバタバタと走る音がする。


「桐也殿、いらっしゃるか?」

「ここだ」


 広い調理場から桐也が廊下に出ると、大きな男は足を止めた。服装からして番頭だろう。黒地の羽織の襟には『春来ホテル』と白抜きされている。


「次のお客様がいらしたぞ」

「分かった。安治も一緒に出迎えに行くぞ」

「承知!」


 温乃が桐也と安治の背中を見つめる。


「安治、うらやましい。桐也のとなりはあたしなのに」

「まあまあ、ふふふ」


 嫉妬する温乃の横でシヅが笑う。

 己の感情についてよく口に出すようになったことをシヅは微笑ましく思っていた。


「シヅ」

「なんですか?」

「あのね、あるくれんしゅう、せいこうしたのよ」

「まあ、おめでとうございます」


 あの山での一件で立つことができた温乃。次は歩く練習を繰り返し頑張っていたのだ。


「桐也がもどってきたら、おひろめするの。びっくりするかな?」

「それはもう、驚いて抱き締めて離してくださいませんわね」

「うふ」


 想像して温乃の頬が緩む。乙女の顔をする温乃にシヅも嬉しそうな顔をした。

 シヅや桐也、人と話すことが増えた温乃の語彙もいつの間にか増えている。


 調理場の窓には大きなガラスがはめこまれており、山の景色が絵画のように一望できた。


「温乃!」


 出て行ったばかりの桐也がもう戻ってきた。


「桐也、おむかえは?」

「温乃も来てくれ。母上が到着されたのだ」


 桐也がいつものように手を伸ばす。温乃は抱きつきたいのを堪えて、両手をびしっと前に伸ばした。


「行かないのか?」

「いく。まって。桐也にみてほしいの!」


 何を? と思いながら桐也が足を後ろに引いた。


 温乃は、温乃専用の椅子のような台の上で膝立ちになって作業していたが、膝下を台から下ろして足裏を床につける。

 肩幅に開いた足に力を入れ、腹筋や背筋も使う。


「よっこっしょ!」


 掛け声とともに温乃はゆっくりと立ち上がった。ここまでは桐也も、もう何度も目にしている。


 そして温乃は、右足を少しだけ浮かせて半歩ほど前に出してみせる。


「ぉおぉお~」


 桐也から変な声が出ているが、温乃は自分の足に集中する。動かした右足に体重を移して、今度は左足を半歩前に出す。


「はっ、はる、のぉぉ〜!! おぉぉ〜!!」


 膝は若干曲がりぷるぷると震えているが、自力で二歩も歩くことができた。

 桐也は大袈裟に喜んで、それから涙をこぼし始める。


 温乃は桐也に抱きしめられるのを待っているのが、桐也はなかなか迎えにこない。

 温乃は頑張ってもう一歩進め、抱きとめてもらえるよう桐也の胸に手を伸ばした。


「桐也!!」

「すごいぞ、温乃! ちょっとそのまま待ってろよ! 今から従業員全員呼んでくるからな!!」

「もう、むり……」


 抱きとめてもらおうと身体は前に傾いている。

 斜め後ろにいたシヅが手を出す前に、桐也が俊敏な動きでもって温乃の腰を支え、そのまま頭上に抱え上げた。


「温乃〜〜!! すごいぞ! すごいぞ!」

「じつの母、まってるよ」

「そうだな。では一緒に出迎えようか」


 温乃は笑顔で首肯した。破顔したと言ってもいい表情だった。


 出迎えに行った玄関前からは海が眺望できる。

 桐也の実の母である霧野は人力車から下りるところであった。


「良い所ですね」


 霧野がつばの大きな麦わら帽子を押さえながら感嘆する。


「母上、長旅お疲れ様です」

「わたくしがもっと若ければ、こんな素敵なところのお座敷に呼ばれてみたかったわ」


 芸妓として活躍したころの矜持を思い出したような凛々しい顔を、桐也は眩しく見つめた。


「桐也、おりたい」

「大丈夫か?」


 任せて、という自信に溢れた顔を見て桐也は腕の中からゆっくり温乃を下ろす。

 温乃の体勢が整うまで腰に手を当てていたが、桐也の支えがなくとも立てると判断して、手を離した。


「霧野様、いらっしゃいませ」


 お辞儀は出来なかったが、温乃は精一杯の笑顔を浮かべている。


「こんにちは温乃さん。足が良くなったのね」

「はい! 桐也のおかげなの」

「良かったわ」


 お部屋に案内します、と霧野を促した桐也は、温乃を再び腕に抱え上げる。


「桐也」

「なんだい?」

「ねがい、ひとつ叶ったね!」


 桐也は笑みを温乃へ向ける。


「いや、二つも、三つも叶っているさ」


 眼前に広がる海を見下ろすと、澄んだ青い海に銀の光が瞬いていた。

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供物乙女は食べられたい 風月那夜 @fuduki-nayo

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