第29話

山神様への供物として人間が禁じられたため、温乃は正式にきようさまのお勤めを解かれた。

 安治にはどこへとも好きなところへ行くといい、と言われ村から解放される。


「それからあんた……、加藤さん」

「はい」


 安治は明後日の方を見ながら頭をガシガシとかく。


「山神様の怒りを沈めてくれて、その……、感謝する。それから殴って悪かった。連れの矢傷も後で手当させてくれ。……で、それからあんたには感謝したいんだが、村もまだ復興中なもんだからさ……」


 安治がちらりと桐也を見て、重たい口をまた開く。安治の頬は引きつっていた。


「宴も用意できねえし、……他になんかできることあったら言ってくれ」


 実は桐也はこの言葉が欲しかった。にんまりと笑って、営業用に培った仮面を装着する。


「でしたら私の仕事にご協力いただけないでしょうか? ご協力いただけるようであれば、村の復興に際しても援助させていただきますので」

「仕事……? どんな仕事だよ?」


 安治の顔が怪しいと言っている。


「難しいことではありません。皆さんが普段召し上がっている山の美味しいものがどこで採れるだとか、この土地ならではの調理法などを教えていただきたいのです」

「はっ? そんなことでいいのか? そんなことはいつでも教えてやる! で、他には何かねえのかよ」


「他にもいいのですか!」

「そりゃ村を救ってくれたんだ。それ相応の感謝を示さねえとなぁ……、あの、ほらよ、どこで山神様が見てるかわからねえからさ……」


「では」


 桐也が微笑む。本心の見えない表情に安治が息を飲んだ。


「近いうちに酒をたくさんお持ちいたしましょう。一緒に吞みながらこの山が如何に素晴らしいかを、皆さんからお話を聞かせてください」

「へ? 酒かい?」

「はい」


 桐也は楽しそうに首肯する。

 ホテルを建設する上で、土地の者に嫌われては話が中々進まない。


 桐也はやはりこの山にホテルをつくりたいと思った。




「温乃」

「ん?」


 真夜中の空に浮かぶ三日月が銀の砂を山間に注いでいる。

 村の男たちはそそくさと、村に帰っていった。紋次郎も手当のために村まで運んでもらっている。


「どうして勝手にいなくなったんだ、どれだけ心配したか分からないだろう」


 声は怒っているのに、桐也の顔は捨てられた子犬のように悲しみに溢れている。


「ごめんなさい。あたし、うさぎたすけたら、きりやのいえに、かえるよ」


 桐也は真顔になって、目をしばたたく。


「うん? 温乃どういうこと?」

「うさぎ、たすけて、きこえた」


 桐也は未だに近くにいる白狼へ視線を向ける。


「だっておいらの声をちゃんと聞いてくれるのって、この子しかいなかったんだよ。このまま誰も来なかったら野垂れ死んでたなぁ……」


 白狼の声を聞いて、桐也はぼそっと「喋り方が違う」と項垂れた。今の白狼に威厳などかけらもない。図体のでかい子どものようにも見える。


「痛、いてて」

「おくすりいる?」


 温乃は袂に手を入れるが乳鉢はない。先ほど落ちた穴の中に置き忘れていた。


「もういいよ。矢が深く刺さっていて……、先は長くないだろうね」


 悲しい声が聞こえて温乃の胸が痛くなる。


「うさぎ、ちょうちょ、おおかみ。つぎは?」

 

 桐也は何を指して温乃がそう言ったのか理解できなかったが、静かに二人の会話を聞くことに努めた。


「そうだね。でももう次はないかな。きようさまがいないからね、おいらの役目は終わりさ」

「きようさま、おやくめ?」

「そう。おいらはさ、山神なんかじゃないんだよ」


 温乃も桐也も白狼の言葉を待った。


「おいらは禁忌を犯したんだ」

「きんき?」

「実の姉を愛してしまったんだよ」


 自嘲気味に笑って、白狼は遠くを見た。


「おいらはこの村の長老家に生まれた、村の人間だったんだ。村には昔、占術師がいてね。占術師がいうことは絶対の決まりだったんだ。禁忌を犯したおいらと姉さんは占術師の占いで山神様への供物となることが決まった」


 ――気が触れてしまったのは神がお怒りだからじゃ。お怒りを鎮めるまでは、また次の触れ者が現れるじゃろう。二人を供物として捧げよ。神の怒りを鎮めよ。


「おいらは木に吊るされて朽ちるまで神様に捧げられた。姉さんは祠に閉じ込められて山神様への贄となった。村の人たちは姉さんがすぐに山神様に食べられてしまうと思っていたんだけどね。なぜかずっと生きている」

「うさぎが、まもったから」

「はは、そう。おいらの魂は姉さんを求めて山に居座り続けた。気付けばおいらはタヌキになっていたよ。いや、魂がタヌキに宿ったと言ったほうが正しいね」

「きのみ、くれた」

「うん。木の実を採ってはせっせと姉さんのいる祠に運んだんだ」


 あのう、と言って桐也が会話に入る。


「お姉さんは貴方を弟だと気付かれたんですか?」

「どうだろうね。その時おいらはまだこんな風に喋れなかったからさ」

「喋れるようになったのは?」

「姉さんが死んで百年くらい経ってからかな?」


 この白狼――男の魂は一体何百年という時間この山に繋がれているのだろうかと桐也は考えた。百年、二百年というと、それはもう神の領域に踏み込んでいるのではないだろうか。

 白狼に自覚はないのだろうが、これは立派な山神様である。


「あ、あぁぁ……いて……」


 白狼が顔をしかめる。矢傷が痛むのだ。


「矢は無理に抜かないほうがいいだろうが、何か出来ることはないか?」

「いや、構わないでいいよ。それより他に聞きたいことは?」


 それなら、とずっと疑問だったことを訊ねてみる。


「『きよう』とは何だ?」

「きようさまのことだな。『きよう』とは『きょう』だ。山神様への『ごちそう』『もてなし』という意味だな」

「そうか……」


 桐也は奥歯をぐっと噛んだ。

 きようさま、とはそのまま供物の意味であったのだ。良い意味などなくてまた腹が立つ。


「はるの?」

「うん?」

「良い名前を貰ったな」

「うん!!」


 温乃の口角が上がる。その顔を桐也にも向けた。名前をくれたのはこの人だと示すように。


「桐也」

「はい」

「悪しき連鎖を立ち切ってくれたことを感謝申し上げる」

「いえ、私がしたいようにしただけです」

「桐也と温乃に多幸があらんことを願う」


 それは神からの祝福に違いなかった。


「うさぎ?」


 白狼の目がすっと閉じる。


「山神様!?」


 疲れて眠るように頭が地についた。

 温乃が何度呼びかけてももう返事はない。


「ねえ、おきて? うさぎ?」

「きっとお疲れなんだ。寝かせてあげよう?」


 桐也の唇がわななく。

 温乃の目から大粒の雫が落ちる。温乃はふさふさの白狼の背中に顔を寄せた。毛並みが濡れるが、きっとうさぎなら笑って許してくれるだろう。


「おやすみなさい。ありがと」


 白狼の寝顔は穏やかだった。

 三日月から降り注ぐ光の砂が、白狼を優しく包んでいた。

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