9、帝都男子は勝ちたい
第28話
一時間に一本の汽車に桐也は飛び乗る。後ろから早川が追いかけてきたがギリギリ間に合わなかった。
こちらの仕事のことはあとは早川が何とかするだろう。それくらいの信頼は向けている。
ただ温乃のことに関しては早川へ怒りを抱いていた。今、一緒に汽車へ乗っていたならば、あらん限りの
汽車を降車すると脇目もふらずに春来山の祠を目指した。
温乃には紋次郎が同行していると聞いている。小柄だが脚力のある男だ。
温乃ひとりを抱えて軽快に走る姿が容易に想像できた。
「早川が紋次郎に『ゆっくり行け』と指示していない限り、あやつは最速で行くだろう」
時間を無駄にしない。人より多く働く。そういう男だ。使用人としてはとても優秀なのだろう。
人選も間違っていない。それを指示した早川もやはり優秀なのだ。
「温乃――」
隣にいないと思うだけで、心の空洞が広がっていく。この隙間を埋めるためには温乃の存在が不可欠となっていた。
村を避けるように迂回しながら山を登る。
日は落ち、登るごとに暗さが増していく。
どこかで遠吠えが聞こえた。
それからしばらくして揺らめく小さな灯りを前方で見つける。
温乃を探しているのかもしれない。あの火を追いかけなければならないと桐也の勘がそう訴える。
あの火より先に温乃を見つけなければ。
桐也は木の根に足をとられ、
山の静けさには似つかわしくない、ざわざわとした音が伝わってくる。同調するように桐也の胸もざわりと嫌な音を立て、呼吸が一瞬だけ止まる。
――やぁーー!
桐也は、はっとする。それは空耳などではなく、確かに温乃の叫び声だった。
「温乃!? 今助けに行く!!」
桐也は赤い火へと飛び込むように走りだす。
松明を掲げた男たちと、弓矢を持つ男、それから――。
「温乃っ! 安治、貴様何をした!!」
安治の肩には温乃が担がれているではないか。
村の男たちが松明をかざし、目を凝らして桐也を見てくる。
「お前、きようさまを奪った盗人だな! きようさまは我らのもの。手を出すな!」
「温乃は私のものだ」
「聞き捨てならないな。どうしてお前のものになる?」
安治は話にならないと言いたげに踵を返す。
「待てっ! 温乃!!」
安治の肩に担がれている温乃と目が合う。温乃の頬にはいくつもの涙がこぼれているではないか。
温乃が桐也に向かって手を伸ばす。
「温乃を返せ!」
安治の背中に向かって桐也は体当たりを仕掛けた。しかし体勢が崩れるほどではなく、安治に睨み返される。
桐也は怯むことなく温乃に手を伸ばし、その腰を掴んだ。
「返せ」
「離せっ、糞っ!」
安治は桐也を振り払うように、たくましい腰をひねる。しかし安治の身体は思わぬ方向に傾いた。
「やられっぱなしではありませんからね」
安治の足首に巻きつき、体勢を崩したのは紋次郎であった。紋次郎が機会と時機を伺い待機していたのだ。お蔭で安治の膝が地に着き、温乃の身体は桐也の腕の中に収まった。
「紋次郎!」
「早くお逃げくださいませ」
「お前も早く起きろ」
だが紋次郎は苦笑するだけで立ち上がらない。否、立ち上がることが出来なかった。紋次郎は矢でふくらはぎを射られていたのだ。その足には未だに矢が刺さっている。
「紋、次ろ……」
「早くっ!!」
しかし一瞬の躊躇がいけなかった。地に伏した安治が桐也の足をむんずと掴む。
「逃がすか」
桐也は掴まれた足を後ろに引くがびくともしない。紋次郎が作ってくれた機会を無駄にしてしまった。
「きりや、ずっといっしょ」
腕の中の温乃がしがみ付く。
――そうだ、この足がちぎれようとも温乃だけは手放さない。
「ずっと一緒だとも」
立ち上がった安治に腿を蹴られる。その衝撃で桐也は倒れてしまったが、決して温乃だけは離さなかった。
「この野郎っ、きようさまを返せっ!!」
安治が大きく振るった腕は、桐也の頬に入る。
桐也は蛙がへちゃげたような声を上げた。
「きりや!!」
温乃が桐也に覆いかぶさる。
「離れるんだ温乃っ」
温乃は首を横に振っていやいやと訴える。そして温乃は腕に力を入れて上体を起こすと、腰を持ち上げ、震える足で立ち上がった。
「温乃っ!?」
立ち上がった奇跡に歓喜したい桐也はしかし、心配の方が上回る。安治の前に立ちはだかれば簡単に攫われてしまうに決まっている。
「下がりなさい」
「きりや、まもる。いたいこと、だめ」
両手を横に広げて勇ましく桐也を守る温乃に対して、安治はにやりと笑った。
温乃の背中へ手を伸ばす桐也。
きようさまを取り戻そうと手を伸ばす安治。
どちらの手が一早く届くか、というその刹那――。
「ワオーーーーン」
ひと際大きな山犬の鳴き声がする。それと共に、前が見えなくなるほどの大きな風が吹いて木々をザンザンと揺らした。
ドシっと、音を立てて地に下りたのは大きな白狼である。
驚きと風により、温乃はペタリと尻もちをつく。
「うぅ、うさぎー!!」
温乃の場違いな歓喜が山中に響く。
白狼が一歩前に進む度に男たちが後退した。
「温乃? あれはうさぎでは――」
「いまは、おおかみさん?」
温乃のゆったりとした言葉に桐也の緊張が切れそうだった。
白狼が安治との間に入る。
「我をあのような些末な火ごときで殺せると思うたか?」
「しゃ、喋ったーー!?!?」
村の男たちは動転してひっくり返っている。
白狼の口が動き、喉から人間の言葉が出てきたので、温乃以外の誰もが驚きを隠せなかった。もちろん桐也もだ。
「温乃、こ、これは……」
そう聞かれた温乃も何と答えて良いか分からない。だが大塚がいう所であれば、
「くすりの、ししょー?」
「は!?」
桐也の思考は停止した。
訳が分からない。いや、自分が温乃の言葉をきちんと理解できないだけなのかもしれないと情けなく思う。
「我は山神なり」
白狼の言葉を聞いて男たちは地に
「お前たちの所業は見過ごせぬ。村を焼き尽くし、末代まで呪ってやろうぞ」
男たちは口々に山神へ謝辞を陳べるが、白狼はふんと、そっぽを向いて耳を閉じる。
「山神様どうかお許しを――」
「否、許さぬ。我がための供物を穢しぞんざい扱ったこと、千年の間は許しを与えぬ」
ひえぇー、と男が一人倒れた。他の男たちは無様にもぶるぶると震えている。
「さて、今から村を燃やそうぞ。我に火を放ったように、村にも火を放とうぞ」
白狼は大きな口を開け、大きな牙を覗かせて、ガハハハッと愉悦の笑いを響かせた。
「お待ちください」
今にも飛び立とうとする白狼を止めたのは桐也であった。
「なんだ小僧」
白狼が気だるげにくるりと頭を後ろに振り向ける。
「この者たちの悪行は存じております。決して許せる行いではございません。しかしそれは村が歴歴と受け継いだ因習の所為であります。この一度だけ、どうか正しく山神様を御奉する機会を与えていただくことはできないでしょうか」
「ふむ……」
黙考する山神に、男たちは低頭したまま「お願い申し上げます」と必死に許しを得ようとしていた。
「小僧よ」
「はい」
桐也は真摯に山神へ向き合う。
「村を助けたとてお前に利はないだろう。むしろ火をつけることに喜んで賛同するかと思うたわ」
「左様でございますね。しかし同じ人間です。間違うこともあるでしょう。間違いを間違いと認め、正しきは何かを考えることが可能なのが人間なのでございます。それに利はあるのですよ」
最後の言葉は山神にだけ消えるように小さく言った。
桐也とて安治の所業は許したくない。だが桐也はこの山と、村と、村人を失いたくないのだ。
「そうか。名は何と申す?」
「加藤と。加藤桐也と申します」
「うむ、桐也に免じて村にはひとたび機会を与えよう。それから人間の供物は不味いのでな、必要ない。今後一切用意することを禁ずる。好物は山ぶどうなり。それだけ供えよ。我はずっと見ておるからな。良いかっ!」
「ははあ! 承知しましたーー!!」
村人たちが平身低頭する。
ありがとう存じます、という安治の涙声を聞いて、白狼はふんと鼻で笑った。
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