能登半島
増田朋美
能登半島
その日も秋が待ち遠しいというか、近づいてきたなあと思われる日で、外へ出る人たちも長袖を着るような人が多くなってきた。
由紀子とジョチさんは、いつもと変わらず、水穂さんにご飯を食べさせようとしていたところであったが。
「はい、ここだ。今日からお前さんはここで働いてもらう。サボってはいけないぞ。しっかり仕事しろよ。」
という杉ちゃんの声がしたのでまたびっくりする。
「お前さんと言ってましたね。だれか連れてきたのでしょうか。」
ジョチさんがそういうと、
「そうですね。」
由紀子はうなづいた。
「本当にいいんですか?」
と、女性の声が聞こえてきた。
「やはり、連れてきたんですか。一体どんな人物を連れてきたんでしょうね。」
ジョチさんがそう言うと、由紀子はなんだか嫌な顔をした。まあ確かに手伝い役が増えるのは嬉しいことであるが、でもなにか嫌だなあというか、そんな気持ちがしてしまうのである。
「ちょうどいい手伝い人を、富士駅で拾ってきた。電車に飛び込もうとしてたから、それを止めてあげたの。どこにも行くところがないっていうし、金も、もうあと五円しかないんだって。だから、ここで住み込みで働いたらどうだって言ったら、快く承諾してくれたよ。」
杉ちゃんがそう言って、女性を一人紹介した。ちょっとおどおどしているようなところもあるその女性は、ジョチさんや、由紀子たちの前に立って、
「はじめまして、舟橋と申します。舟橋絹代です。」
と、頭を下げるのであった。
「まあまずはじめにだな、風呂に入ってきれいになってから、ちゃんと事情を話してくれ。すごい汗の匂いでたまらんのだ。風呂は、台所の隣にあるから、自由に使っていいよ。」
「ありがとうございます。」
舟橋絹代と名乗った女性は、杉ちゃんたちに頭を下げて、風呂場へ向かって歩いていった。
「ところで杉ちゃん、どういうわけで、あの舟橋絹代という女性を、連れてきたんですか?」
ジョチさんは、そう杉ちゃんに聞いた。
「金沢から、逃げてきたんだって。かがやきにのって、東京駅から、富士駅まで来てしまったらしい。富士駅で自殺を考えていたらしく、貨物列車に飛び込んで自殺しようとしていたところを僕が止めて、それで連れてきたの。」
杉ちゃんはあっさりと、肯定した。
「金沢。まあなんであんな遠いところから、こんなところに来てしまったんでしょうね。金沢といえば、なにか、あったのでしょうか。」
ジョチさんがいうと、
「今年の正月に、大地震がありましたよね。最近では、特別警報が出るほどの大雨で、甚大な被害が出たと聞いています。」
と、水穂さんが言った。
「確かに、地震があったりしたことは確かですが、それが原因で、逃げてしまうことがあるでしょうか?」
ジョチさんがそう言うと、
「あり得ない話ではないですね。凄惨な被害現場を見るのが辛くて、それで逃げてきてしまって、金もなくなったので、自殺をと思ったのでしょう。まず初めに、彼女の被害の全容を、聞いてあげることが大事なのではないかと。」
と水穂さんが言った。水穂さんは、決して、原因がわかったら、すぐに行動しようとする。それは大変いいことでもあるが、本人の体の事を考えると、なんだか難しい気がする。
「わかりました。そういうことなら、そうさせましょう。僕らも幸い、そういう職業についている人を知っているわけですからねえ。」
ジョチさんはそう言って、スマートフォンを出して、電話をかけ始めた。それと同時に、風呂から出てきた、舟橋絹代さんが戻ってきた。
「どうだ。何十日かの風呂に入って、さっぱりしたか。次は食べ物を食べような。お前さんが一番好きなものは何だ?」
杉ちゃんに言われて、絹代さんは、小さな声で、
「カレーライスあるかしら。」
と言った。杉ちゃんが僕に任しとけと言って早速カレーを作り始めた。電話をかけ終わったジョチさんも、水穂さんも、彼女を連れて、食堂へ行く。
「それではまずここに座ってください。杉ちゃんの話では、金沢から逃げたとおっしゃっていましたが、そのあたりの詳細を詳しく聞かせてください。ちなみに、最近までかがやきは運休していましたから、逃げてきたのはここの数日と言うことになりますよね?」
と、ジョチさんは言った。
「ええ。気がついたら、かがやきに乗っていたんです。私は、もうどうしようもなくなって、金沢駅に行ったんです。」
そう語りだす絹代さんに、
「つまり、お前さんが金沢駅に行ったのはやっぱり自殺をしようとするためだったのか?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「はい。そうだったと思います。だけど、眼の前で東京行きのかがやきが停車しているのを見て、乗ってしまいました。なぜかわかりませんが、足元に誰かが落とした切符があって、それを使って、かがやきに乗ってしまったんです。」
と、絹代さんは申し訳無さそうに答えた。
「わかりました。それで、東京から、東海道線に乗って、富士駅に来てしまった。これは間違いありませんか?」
ジョチさんが聞くと、
「はい。そうなんです。持っていたお金で切符を買い、それで東京から行けるところまで行こうということで、東海道線に乗ってしまいました。ですが、たまたまその電車が富士で終着駅になっていて、持っていたお金も五円しかなかったので、ああもうここで自殺するべきなんだと思い、富士駅で、貨物列車に飛び込もうとしたら、杉ちゃんという方に止められてしまって。」
絹代さんはそう答えるのであった。
「そうですか。わかりました。それでは、あなたのバックグラウンドというか、経歴などを話してもらえないでしょうか?あなたは金沢に住んでいたのですか?」
ジョチさんが言った。
「ええ。生まれも育ちも金沢なんです。」
「お正月の地震や、こないだの特別警報が出た大雨で被災したんですか?ご家族の誰かを失ったとか、住む場所をなくしたとか、そういうことがありましたか?」
水穂さんが、静かに彼女に聞くと、
「いえ、地震があったときは、金沢市内の図書館にいたので、被災はしませんでした。家族は、確かにいたんですけど、私が幼いときに、分かれてしまったので、いないようなものです。だから私、あの地震で壊滅的な被害を受けたとき、死んでしまおうと思いました。この間の大雨で、更にそれが加速したというか、そんな気がして。死のうと思って金沢駅に行ったら、なぜかかがやきにのって、それで、東海道線に乗って、ここまで来てしまったんですね。」
と、絹代さんは、小さくなって言った。
「つまり、金沢に身寄りはなかったということですね?」
ジョチさんがいうと、
「はい。みんな私をおいて先に逝ってしまって、私は、みんなに置いてきぼりです。学校でいじめにあい、仕事にもつけないし、その上この大地震で、もう生きていなくてもいいかなって。」
絹代さんはそういうのだった。
「そうですね、確かに、それまでつらい思いをしたら、確かに生きていなくてもいいと思いたくなりますよね。」
水穂さんが優しく言った。
「そんなことをするなとか、命は大事にしろとか、そういうことは、言わないんですか?あたしは、そればかり言われて、何もしない、無責任な人たちに、いろんなこと言われてきましたけど、それは言わないんですか?」
絹代さんは、水穂さんにいうと、
「ええ、いいません。ただ事実としてあるのは、あなたがその気持であることや、生きていても仕方ないと思ってしまうことですから、それを、否定したら、無責任な人たちと同じことになってしまいます。」
水穂さんは、そう答えた。その反応に、絹代さんは、心のなかでなにか動いてくれたらしい。
「本当に言わないんですか?」
再度そういうのであった。
「ええ。僕はいいませんよ。言うとしたらただ、辛かったんだなと言うことだけですよ。それだけしか、あなたの心にも残ってないんでしょうから。それを否定するより、そうなんだねと受け止めて上げることが何より大事だって、知ってますからね。」
水穂さんがそう言うと、
「そうなんですか。そういうことなら、ここにいさせてもらってもいいかな。もうどっちにしろ、私には帰るところもないわけですから、自殺するしか残ってないわけですからね。それなら、ここにいさせてもらおうと思います。お願いしてもいいですか?」
と、絹代さんはそういうのであった。
「ええ、いくらでもいてくれて結構ですよ。どうせ手伝いさんがいなくて困っていることも確かですからね。それでは、杉ちゃんといっしょに、ご飯を作ることを手伝っていただきましょうか。きっと、死にたいと言う気持ちから救ってくれるのは食べ物だって、杉ちゃんいつも言ってますから。」
ジョチさんがいうと、それと同時に、杉ちゃんが車椅子のトレーに美味しそうなカレーライスを乗せてやってきた。そして、絹代さんの前にカレーライスをでんと置いた。
「さあたっぷり食べろ。」
お匙を渡されると、彼女は食べるのを避けようとしていたが、でも、カレーのにおいに我慢できなかったらしい。すぐにお匙を受け取って、むしゃむしゃと食べ始めた。
「ははあなるほど。それでは、何も食べてなかったな。良いよ。何ばいでも食べてくれ。」
と、杉ちゃんだけケラケラしていたのであった。
「ええ、こんなに美味しいカレー食べたの、生まれて初めてです。今までカレーと言えば、レトルトのカレーか、コンビニのカレーしか食べたことありませんでしたから。」
絹代さんはとてもうれしそうであった。
「はあなるほど。そうなのね。それじゃあどんどん食べてもらわなくちゃ。」
そういう杉ちゃんに、他の人達は苦笑いをしているだけであった。由紀子も何だか彼女を受け入れることはできなかった。
その翌日。いつもどおりに杉ちゃんと由紀子が製鉄所に行ってみると、なんだか聞いたことのないエンジンのモーター音が鳴っていた。水穂さんが縁側に座っている。
「あれれ?あれほど草茫々だった庭が、こんなに、、、。」
と、由紀子が思わずいうと、汗を拭きながら、絹代さんが草刈り機を操作しているのが見えた。由紀子と杉ちゃんが、縁側に現れたのに気がついた絹代さんは、
「ああおはようございます。ちょうど、草刈り機があったので、庭の草を刈らせてもらいました。昨日、あれほど美味しいカレーを食べさせてもらったので、なにかお礼をしなければと思いまして。」
と、草刈り機を止めていった。
「彼女、草刈りのアルバイトをしていたこともあるそうで、機械の操作には慣れているらしいんです。」
と、水穂さんが状況を説明した。
「はあ、なるほど。能登半島では、草刈りをしていたのか。なんか造園業とか、そういうのをやってたの?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「ええ。私はまだ独立したわけではないのですが、お花や木が好きだったので、そういう仕事をしたいなと思って、庭師の先生のところで弟子入していました。」
と、彼女は答えた。
「そうですか。庭を作るのが好きだったんですね。確かに、木の手入れをしていたりしていると心が和むっていいますものね。」
そういって水穂さんは、二三度咳をした。由紀子が、急いで水穂さん横になりましょうと促した。水穂さんは、草刈りが終わるまで待ちたいといったのであるが、咳き込むのが止まらなかったので、由紀子は無理やり水穂さんを立たせ、布団の上に寝かせてあげた。
「それにしても草刈り上手だなあ。素人がやると、後で剪定ばさみで刈らないとだめだとか言うじゃないか。そういう感じの箇所が一箇所もない。やっぱり、庭師に弟子入して、プロ並みの知識を持っていたんだね。」
杉ちゃんが、でかい声で絹代さんに言うと、
「いいえ、私は見習いで辞めてしまったので、何にも大したことありません。」
と、絹代さんは照れくさそうに言うのだった。杉ちゃんが、ついでに玄関先の草刈りもお願いしていい?と聞くと、絹代さんはええ、喜んでと言って、製鉄所の玄関先の草刈りを始めた。
すると、そこへ、尼寺の尼僧様が通りかかって、草刈りをしている絹代さんに、互生が出ますねと声をかけた。絹代さんがありがとうございますと素直にお礼をいうと、尼僧様が、うちの寺の草刈りもしてくれないかと頼んだ。絹代さんは、二つ返事で、草刈りを引き受けてしまった。
そういうわけで、絹代さんは、草刈り機を持ってお寺に行き、言われた通り本堂の前にべらぼうに生えている草を刈り始めた。手際もよく、機械の操作も慣れた手つきで、刃の取り替えも非常に上手だった。なんだか、そういうイキイキした一面を見せてくれると、自殺なんてするには本当にもったいないような気がした。ちょうどその日は、尼寺で、ある家族の膳揚げの法要が行われる日であったが、来訪した家族たちは、寺の草がきれいにかられているのをとても喜んでいた。家族の一人が、尼僧様にどこの業者に、頼んだのですかと聞くと、尼僧様は、ある女性に頼んだだけだといった。それ以上は何も言わなかった。
膳揚げ法要から、数日が経った。絹代さんの草刈りは大変な評判になってしまって、彼女は近所のお年寄りの家を訪問して草刈りを行うように鳴っていた。お年寄りたちは、庭がスッキリしたことを、とても喜んでいた。
その日、絹代さんは、また依頼を受けて、草刈りをしに出かけてしまった。杉ちゃんたちは、そろそろお昼を作ろうかなんて呑気な話をしていると、突然、一人の男性が、製鉄所を訪ねてきた。
「ごめんください。こちらの施設に、舟橋絹代という女性はいますか?」
男性と呼ぶにしては若すぎると思ったら、多分特殊な病気でもあるのだろう。身長が非常に低くて、腰が曲がっていた。足が不自由なのか、びっこをひいている。
「お前さん侏儒症か?」
と杉ちゃんがいうと、
「きっと医学的に言ったらそういうのでしょうね。」
と彼は答えた。
「それより、舟橋絹代さんはいますか?いたら、こちらへ戻ってきてほしいと言ってもらいたいのですが?」
「はあ、お前さんは絹代さんとどういう関係だ?お前さんの名前は何だ?まずそっちを名乗るほうが先だと思うがな?」
杉ちゃんが彼に聞くと彼は、
「ええ、僕は、柏原重男と申します。絹代さんには、うちに庭の手入れをするために来てもらっていたのです。」
と答えた。
「お前さんの家はどこ?」
杉ちゃんが聞くと、
「はい。金沢です。こないだの大雨でかなり庭も殺られましたが、また、前のような庭を作ってほしいと思ったので、再度うちに来てほしいと思ったのですが、絹代さんの姿が見えなくなってしまいまして。」
と重男さんは答えた。
「それでどうしてここがわかったんですか?捜索願でも出したのですか?」
と、水穂さんが彼に聞くと、
「ええ。SNSで写真を転送してもらったところ、静岡県の富士というところに、絹代さんに似た女性がいるという知らせがあったので。それに、この建物の近くにいるお年寄りから、大変草刈りの上手な女性が現れたとお話をされているのを立ち聞きしてしまって、もしかしたらと思って、ここを教えてもらいました。」
と、重男さんは答えた。
「そういうことか。それなら、お前さんの家で、絹代さんは、雇われていたということなんだな?それで今回は絹代さんを取り戻しに来た。そういうことだな。」
杉ちゃんがいうと、
「はい、そうです。僕には、庭の草取りはどうしてもできませんから、どうしても、絹代さんの力が必要でして。」
と、重男さんは言った。
「そうだったのねえ。彼女、何も自分のことをひつようとしてくれる人なんていないって言ってたけど、そんなことなかったんだ。それなら、能登へ帰ってもらわなくちゃな。今、彼女は、草刈りに行ってるよ。だいぶ賃金も溜まったから帰る費用もあるんじゃないの。何だそういうことだったのか。天涯孤独ではなかったんだね。」
杉ちゃんは、なんだか変な気持ちというか、困ってしまうのと笑ってしまうのが同居するような気持ちで言った。
「只今戻りました。」
と、絹代さんの声がした。絹代さんは、段差のない玄関に、小さな靴が置いてあるのに気が付き、
「あのまさか、、、。」
と言いながら、製鉄所の中に入ってきた。
「柏原様の、坊っちゃん。」
絹代さんは、柏原重男さんを見て、そういったのであった。
「お前さんに能登へ帰ってきてほしいってさ。一緒に帰ってやりや。」
と、杉ちゃんがいうと、
「いいえ、だって、柏原様は大雨災害のあと、精神的に不安定になった私に、もう来ないでくださいって言ったじゃありませんか。だからもう私は、お宅で庭仕事はできません。もう首になったって、言ったのは、そちらじゃないの。」
と、絹代さんは言った。
「しかし、父はそういったかもしれませんが、僕は違います!やっぱり絹代さんに来てほしいんです。絹代さんに手入れしてもらうのを桜の木も、南天の木も楽しみにしていると思います。幸い、雨のあとでもあの二人は無事だったんです。だから、うちの庭も、これからも大事にしようって思ったんですよ。そのためには絹代さんの力が必要です。」
「ほらあ、そう言ってくれてるじゃないか。いいか、人の心を動かすってのは、なかなかできるもんじゃないんだ。それができるってことは、結構な才能があるってことだよ。それなのに、自殺をしようだなんて、お前さんは贅沢すぎるぜ。できることがあるってことは、幸せなことだよ。一緒に能登へかえんな。」
杉ちゃんにそう言われて、絹代さんはしかしと言って黙ってしまった。杉ちゃんと重男さんのやり取りを、たまたま目撃してしまった由紀子は、一瞬ライバルがいなくなって嬉しいという気持ちになってしまったが、重男さんの真剣な目つきに、絹代さんはやはり能登半島へ帰った方が良いと、心から思った。
「あたしも、能登へ帰った方が良いと思うわ。きっと重男さんを通して、能登半島が呼んでいるのではないかしら?」
由紀子はそう言ってしまう。
「お願いします。絹代さん。僕と一緒に金沢に帰ってください。」
そう頭を下げる重男さんに、絹代さんは、どうしたら良いのかわからないという感じの顔をしたが、由紀子は、ほら、と言って、彼女の背中を押してあげた。
能登半島 増田朋美 @masubuchi4996
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