第64話

愛と希望


 ファミレスで伯母さんに翠さんを会わせるのに私の方が緊張してしまった。お母さんたちの席に近づくと翠さんは立ったまま深々とお辞儀をした。


「そんな、座ってください」と伯母さんが立ち上がって言う。


 席は翠さんと伯母さんが向かい合って座る。私とお母さんは窓際で向かいあった。


「今までご挨拶できずに申し訳ありません」と座ってからも翠さんは頭を下げた。


「いいえ。それは…こちらがお断りしてて。もう頭を上げてください。私はあなたに感謝しなければいけないと思って。本当に鈴音を側に置いてくださってありがとうございます」と伯母さんがゆっくりと頭を下げた。


 所作が綺麗な伯母さんを見て、鈴音ちゃんが上品で綺麗だった理由が何だか分かった。


「いえ。鈴音さんに救われたのは…私の方です」


 翠さんの鈴音ちゃんへの愛情を感じる度に私は翠さんからは見えない方の頬を膨らませる。目の前に座っているお母さんが私をじっと睨んだ。私はとりあえずメニューで顔を隠して、翠さんと二人ドリンクバーを注文する。


「絹ちゃんから聞きました。治療するように鈴音に説得してくれてたこと…。そんなことも知らずに私たちはあなたに酷い態度を取り続けて…本当に申し訳なく思います」


「いえ。力不足で…。本当に…」


「子どものことも…残念でした。私たちがもっとあの子の話を聞いてあげたら…と後悔してます」


 本当に穏やかな表情で伯母さんは語った。翠さんも少し辛そうな顔でっ首を横に振る。


「ちゃんと整理してから鈴音さんと一緒になるべきでした」


「それは…鈴音が飛び出して行ったから。それほどまでにあなたのことを愛してたんでしょうね」


 翠さんが伯母さんを見つめる。私は横で胸が痛くなった。鈴音ちゃんの想いは痛いほど分かっていたつもりなのに、翠さんの横顔が切なそうで苦しくなる。


「愛してくれてました。本当に私は何もお返しできないままで」


「それでは…鈴音の物を返してくれませんか?」


「え?」と翠さんは思わず聞き返していたが、私も驚いた。


「全部とは言いません。何か小さいものはそちらで持っていただいていいんです。でも…カラーボックス一ケースと絹ちゃんから聞きまして。絹ちゃんが着れる洋服なんかはそのまま使っていただいていいんですけど。娘のことを大事に思ってくださる気持ちは嬉しいですけど、あまりにも思い出としては大きいんじゃないかしら。あの子だっ

て、もう充分だってきっと言うと思います」と真っ直ぐ翠さんを見て言う。


 ずっとどこへ行くのにも持って行っていたケースを翠さんが手放すはずはない、と私は思った。


「翠さん…」と私は翠さんの横顔を見つめた。


「分かりました…。お返しします」


「え?」と言ったのは私だった。


「今まで預かってくださってありがとうございます」と伯母さんは頭を下げる。


 翠さんも黙って頭を下げた。


「…いいの?」と私は翠さんに聞く。


「充分、一緒にいれたから」


 翠さんの回答に私は納得できなかった。なおも食い下がろうとしたら、伯母さんが


「鈴音の分を絹ちゃんに…使ってあげて」と言う。


「伯母さん」


「絹ちゃんの言う通り、鈴音は充分愛されて、幸せだった。私がその証拠を引き取らせてもらうわね。ずっと愛されてた思い出の品…でもそれは過去のことなの。私たちは今を生きてるんだから」と微笑みながら私に言う。


 私は翠さんを見る。


「そうだね。これからの時間を絹ちゃんと一緒に過ごしたいから」と翠さんが言う。


「でも…私は」


「それに絹ちゃんがちょっと膨れてるの知ってる」と言われて、私は思わず頬を両手で押さえた。


 それでこの場にいた人達が笑い出す。恥ずかしかったけれど、その笑顔を見て、私は嬉しくなった。伯母さんが笑いながら涙を流している。


「あー、おかしい。絹ちゃんらしくて、可愛いけどね」とハンカチで目じりを押さえる。


 伯母さんと翠さんが笑い合うことなんて想像もできなかった。時間が解決した部分もあったのかもしれない。私は少し肩の荷が下りた気がした。


 鈴音ちゃんの形見分けは翠さんは風鈴、そして私は鈴音ちゃんの赤いワンピースだけもらうことにした。




 伯母さんとお母さんは先に帰って、私たちはお腹空いたのでご飯を食べて帰ることにした。メニューを眺めながら一息つく。


「はぁ、緊張した」と私が言うと、翠さんが笑う。


「絹ちゃんが?」


「うん。だって…なんか、会いずらいかなって。お互いに。でも良かった。時間が解決したんだね」と笑いかけると、翠さんが私の頭を撫でた。


「絹ちゃんのおかげかな」


「え? 私?」


「うん。絹ちゃんがいなかったら…今日は来なかったと思うよ」


「そう? そうかな? でも翠さん、本当に良かったの? 鈴音ちゃんの物を返すって」


「いいよ。いつまでも持っていても、鈴音は帰って来ないし。どこかでいつかは…って思ってたけど、自分で処分する勇気がなかったから。本当はもっと早く自分でするべきだったんだけどね」


「私は本当に良かったのに」と言いながら、翠さんの方に頭をもたせかけた。


 頬を膨らませていることを知られていたとは思わなかったけど、翠さんが鈴音ちゃんを想っているのは仕方のないことだと理解してる。半分くらい。少しだけ。ちょっとは。


「絹を大切にしようと思って」


「充分、大切にされてますよ」と頭を起こして、翠さんを見る。


「絹…。一緒に暮らそう」


「え?」


 ずっと微笑まれているけれど、私は目が点で、お腹が鳴った。大事なところで、恥ずかしい思いをするのはどうしてなんだろう、と思いながら、私はメニューに視線を落とした。


 その日はそれ以上、先の話はなかった。




 夏休み中も先生は学校に行く。授業がないので、静かだけど、来学期の準備をしたりしていた。


「中川先生」と呼ばれて、振り向くと漣君が来ていた。


「えー、ここまで来たの?」


「うん。先生になった絹ちゃんに会いたくて」と笑う。


 私は職員室を出て、廊下に出た。


「お父さんのこと…お願いします」と漣君が頭を下げた。


「待って、待って。そんなことしないで」


 漣君はにっこり笑って、私に話してくれた。マレーシアでもタイでも必死に働いていたけれど、ふとした瞬間に辛そうだったから「絹ちゃんのこと?」と訊いたら、素直に頷いていた、と。白猫をもらってきて、シルクと名付けたのは翠さんだったということ。


「もう俺は大きくなったし、大丈夫だって伝えてるし、まぁ、時々遊びに行かせてもらえたら嬉しいけど」


「それは…もちろん」


 私は海外に鈴音ちゃんを連れて行ってたから、私のことなんて思い返すこともないだろうと思っていた。


「…相当好きだと思うけどな…。もちろん向こうでいろいろ出会いあったけど、『子どもがいるんで』って俺を理由にいつも断ってたけど」


「…翠さんが?」


「まぁ、モテるよね。子供はいるとはいえ独身だし。あのルックスで才能あって…。一番、すごかったのはタイのビール会社の役員に気に入られて、娘をプッシュされてたけど…」


「えぇ。知らなかった」


「もちろん、仕事がなくなる覚悟で断ってたよ」


「え? …そういう感じなの?」


「そういう感じみたいよ。日本でもあるとは思うけど、アジアはコネの力が大きいからね」


「じゃあ…帰国したのはそのせい?」


「まぁ、そのせいかなぁ。分かんないけど、俺も日本に戻るし、もともと帰る準備はしてたと思うよ」


「漣君はお祖母ちゃんの家?」


「うん。お母さんはもう少し時間がかかりそうだから。俺のこと見たくないだろうし」


「…そんなことないと思うよ。すごくかわいがってたし…」


「俺がいなかったら、違ってたって言われた」


 漣君は一瞬、視線を落として、またにこっと笑った。


「漣君…」


「そんなこと言われても、困るよね?」


「うん。困っていいよ。そんなこと言われたら」と私が言うと、漣君は驚いたような顔で「いいの?」と訊く。


「いいよ。そんな勝手なこと言うなんて」


 いつもにこっと笑ってごまかしている漣君の目から涙が零れた。


「…そっか。じゃあ、困っとく」


「うん。でも、いつでも来て。本当に今度、お茶でもしよう」


「えー、いいの。今度はお父さん抜きでね」と漣君は目をごしごし擦りながら言う。


「漣君のお父さんが翠さんだったら、私は乳母だから」


「えー。嫌だよ。お姉さんがいい」


 嬉しいことを言ってくれるなぁと思って私は頭を撫でる。漣君は今日、近くの高校の見学に来ているようで、友達を待たせてるから、とその後すぐに戻っていった。


 漣君の傷もいつか癒えるといいのに…と思った。南さんがどういう思いで口に出したのかは分からないけれど、確実に漣君の心にとげが刺さってしまった。あんなに漣君を必死で育てていたのに。南さんも早く良くなればいいな、と思ったものの、また翠さんのところに来る心配もあった。




 鈴音ちゃんのカラーボックスを整頓する。


「下着類は私が処分するから」と翠さんに断ってゴミ袋に入れた。


 後はハンカチや鞄、服、寝巻などを段ボールに詰めていく。本当に僅かなものしかない。お化粧品も最低限のものしかなかった。


「化粧品も捨てていいかなぁ」と言いながら、化粧ポーチを確認する。


 小さな写真が入っていた。どこかの証明写真で撮ったようで、翠さんと二人で笑い合ってる写真だった。幸せそうに微笑み合っている。


「絹ちゃん?」


 黙り込んだ私に声をかける。


「これ…」と写真を渡す。


「…あぁ、懐かしいな」とやっぱり優しい笑顔で写真を見る。


「これは翠さんが持ってて」と頬を膨らませない代わりに口を尖らせながら、私はポーチの中身を確認した。


 手鏡とポーチだけ残して、後はゴミ袋に入れる。鈴音ちゃんの荷物は段ボール一つ分になって、片付いた。


「…絹ちゃん」


「はあい。もうガムテープで閉めちゃいますよ?」と言って、私は手を伸ばしてガムテープを取ろうとした。


 横から肩を抱かれて、スマホで写真を撮られる。驚いて、私は翠さんを見ると、またシャッターが下りた。


「もお」と文句を言った時に、またシャッター音が鳴る。


「絹ちゃん、笑って」


「笑ってって」と口を尖らした顔まで撮られた。


「見て」と言われて見るカメラロールには私と翠さんが写っているけれど、鈴音ちゃんとのそれとは違って、私は怒った顔や、驚いた顔で写っていた。


「あー、もー、小さい時と同じになってる」と文句を言うと


「こういう絹ちゃんだから可愛い」と翠さんに言われた。


「どこがですか」


「全部」


「え?」


「何もかも好きだよ。鈴音にサヨナラしよう」と翠さんがガムテープを貼った。


 今までありがとうと言いながら。


 その横顔は何か吹っ切れたように見えた。


 スマホにメッセージが届いていて、翠さんが見せてくれる。


「シルクが子ども産んだって」


 バンコクで飼っていたシルクちゃんはそのまま大家さんの娘が引き取っていて、子供を産んだらしい。子猫に囲まれているシルクちゃんはゆったりと寝そべっていた。お父さんは茶トラなのか、茶トラ柄の子猫もいた。


「えー。シルクちゃん、早すぎるよ」と私は驚いた。


「猫は成長早いもんねぇ。もらって来た時は子猫だったのに」と翠さんもため息を吐く。


 同じ名前の猫に抜かされたと思うと、私はなんともいたたまれない気持ちになる。


「翠さん…私、側にいてもいいんですか?」


「うん」


「それって私も翠さんの赤ちゃん産んでいいってことですか?」


「ん? 絹ちゃん?」


「赤ちゃんはいらないですか?」


「え? 待って…」


「結婚したいんです」


「あ、なんで…」


 なんでって、好きだからでしょう、と叫びたかったのをぐっと堪えて震えていると、翠さんに抱きしめられた。


「なんで先に言っちゃうの?」


「だって…シルクちゃんに抜かれたから」


 翠さんの笑い声が耳元で響く。


「好きだよ。結婚して欲しい」


 はい、喜んでと居酒屋のような掛け声を出しそうになったのは内緒で、私は何度も頷いた。




 籍を入れて、それから二年、私は教師として働いた。漣君は高校生になって、予備校に通いながら大学進学を目指している。何回かお茶を二人だけでした。毎回イケメン度が上がって来るので、ドキドキしたけれど、彼女はまだ作りたくないと言っていた。


 私は産休に入って、すっかり気温が下がった秋の日曜日、久しぶりに奈々ちゃんのお家に遊びに行った。ビデオ通話でシンガポールにいる桃ちゃんとも会話する。


「絹、おめでとう」と桃ちゃんからお祝いの言葉をもらった。


「ありがとう。桃ちゃん、アメリカに行くの?」


「うん。そう。もう仕事は堪能したから、アメリカにいる英さん所に行って、後半年ぐらいで研修が終わるって言うから、その後日本で教授婦人になる」と冗談を言う。


「桃は帰っても家には収まらない気がするけどね」と奈々ちゃんは笑いながら言う。


 奈々ちゃんの子どもの遥ちゃんは二歳になって、今はお昼寝中だ。さっきまで楽しそうに私たちの周りを飛び跳ねていた。


「日本に帰ったら集まろうね」と桃ちゃんが言うから、その日が待ち遠しい。


 三人で喋っていると学生時代に戻ったような気分になる。


「その頃には絹の子どもも生まれてるだろうし。見に行こうよ」と奈々ちゃんが言ってくれた。




 夕方にお暇すると、翠さんが車で迎えに来てくれる。


「ちょっとは歩かなきゃいけないんだよ」と私が言うと「仕事ない時は迎えに来させて」と言う。


「ありがとうございます。あ、動いた。お腹の赤ちゃんもお礼を言ったみたい」


「お母さん思いのいい子だね」と翠さんが笑いながらゆったりとシートベルトをかけてくれる。


「翠さん、今日はカレー食べに行こう」


「いいよ」と言いながら車を走らせる。


 あの丘の一軒家のカレー屋さんに向かう。途中、私たちが住むマンションの前を通る。小道が見えたけれど、ゆらゆら揺れながら通った思い出はもう薄くなっている。少し倒したシートに体を預けていると、いつの間にか眠ってしまった。


「…絹ちゃん」


 翠さんの声が聞こえる。


「ありがとう」


 私の方こそ…と言いたかったけれど、どうしてか目が開かない。


「君と赤ちゃんのために、凡人になってでも長生きするね」


 私はちょっとおかしくて、くすっと笑ってまた眠りについた。もし翠さんが生きることに前向きになってくれていたら、私にとってかけがえない喜びだ。愛が分からない私に翠さんが教えてくれたこと。哀しい愛だったかもしれないけれど、私にはそれが美しく見えた。同じような愛じゃないけど、翠さんが元気でいてくれたらそれでいいなと思う。


「絹ちゃん、着いたよ。起きて」


 重たい瞼を開ける。


「ごめんなさい。なんだか眠くて」


「いいよ。妊娠してるからね。ほら、街が暮れてく」


 車から降りて、丘の上から街の明かりを見渡す。一つ一つに人の暮らしが彩られている。


 青い空とほんのり明るい空の裾を見る。一番星が光っている。


ひかりちゃん…がいいなぁ。赤ちゃんの名前…」


「いいね」


 私の、あなたの、そして誰かの希望になりますように。翠さんの指先がそっと私の指先に触れる。私の大好きな温度が感じられた。


「冷えるから、入ろう」


 大きく包み込まれてる手を私は感じながら空を見上げた。


 愛がなんだか今も分からないけれど、今感じているように、柔らかくて、温かい、そんな気持ちだといいなと思った。


 澄んだ空が暗くなると星が次々と姿を現してくれる。そんな秋の夕暮れに。


                 ~終わり~

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