彼方の祖母

椋鳥

彼方の祖母

「ぐすん」僕の祖母は今年中に亡くなるらしい。


僕の鼻水の音が部屋の中で反響するのと同時に、耳鳴りがした。空が妙に恨めしいと、祖母の寝顔を見ながら思った。


僕に、祖母以外の家族は居ない。生まれてこの方、祖母以外の身内を知らずに生きてきた。


祖母は表現の難しい人だった。遠くを見つめるような瞳を、いつも棚とか箪笥たんすとかに向けて呆けていたりしていた。けれど、僕はそんな祖母が好きだった。理由は分からない。祖母が寝たきりになるまで、僕は祖母に深い感情を持ち合わせていなかった筈なのに。不思議と表れてくるこの感情は、本来僕が持ち得るものではなかった。


祖母は、僕にどんな感情を抱いていたのだろうか。今ではもう分からないけれど、祖母に対して向ける僕のまなざしは、段々と深く沈んでいった。それから一分程、僕は祖母だけを眺めていた。けれど、それもなんだか寂しいような気がして、そこら辺にある棚とか窓とかを僕は、眺めることにした。


棚は少し古いのか、少し剥げている部分があり、固かった。また、棚の上には花瓶があり、どこか外国臭く僕は感じた。窓を覗けば辺りは暗くじめじめとしていて、とても見れる景色ではない。だけど、空だけは何にも汚されていない体を保っているらしかった。


祖母はうめき声を一つも立てずに、その場に存在していた。石か、石像にでもなれたなら、祖母は幸せだろうか。あのまなざしを棚とか箪笥たんすに向けたまま、瞳を閉じずにいられたならば、これ以上ないと思うだろうか。いや、そうは思うまい。白と灰と緑が支配するこの場所で、祖母はその一生を過ごすだろうから。


他愛もないと言ってしまえば、それまでであろうこの時間は、確実に来るその瞬間までの、僅かに与えられた猶予に思えた。思えば、僕も祖母も内気な人であった。どんな場所であろうと、誰かと語らう言葉は少なく、その瞳はその人物を見てはいても、どこか上の空に見えるらしい。


僕自身、祖母のまなざしを見ていたからか、容易に理解できた。誰かから見れば、祖母の瞳も、僕のそれも一緒なのだろう。案外、僕は話している相手のことを考えていたりするのだが、そう見えないのも仕方がない。


祖母と僕をつなげているのは、法律上の関係と、この瞳だけだ。誰かから同じように見えたこの瞳は、今や二本の線の内の一本となった。けれどもこの一本は、非情な者であった。祖母が寝たきりになった時も、今も、涙の一つも僕に与えはしない。ただ、それは特段悪いことではなかった。僕は涙を流さないことによって、祖母の存在を貶めずに済んだのだ。


祖母はその間も、静かな呼吸を続けていた。祖母に夫がいたことは、僕が生きている以上証明されているが、頭で分かっていても、底では不思議な感触がぬぐえなかった。けれど、逆に納得できる気もした。


祖母は形容しがたい人間ではあったが、決して悪い人間ではなかった。僕は祖母以外の身内を知らないけれど、それに対して過不足を感じたことは一度もない。では、祖母はどうだったのだろうか?自分の夫がもう居ないこと、自分の子供がもう居ないことは、祖母の感情をどれほど搔き立てたのか。


祖母は内気な人であったけれど、内気であったからこそ、物事に対して深く考え、知ろうとする人であった。僕の創造によって広がっていく祖母は、初めて知った祖母でありながら、昔から知っている人のような気がした。


祖母を一目見た。祖母は瞳を閉じていて、暗闇を見ているものだと誰もが思う。けれど、もしかしたら祖母は、その瞼の裏には、美しい景色を見ているのかもしれない。この場所には僕と祖母以外には誰も居なかった。だから、祖母の美しい景色を妨げる者は一人も居ない。


僕はきっと、美しい景色の一部ではない。なぜなら、美しい景色とは全く異なる場所に、僕がいたからだ。僕だけが、祖母を現実に縛り付けていたのかもしれない。けれど、僕はそれに対して全く後悔していない。


瞼と現実の境はとうになかった。僕は今、祖母を目に捉えている。


「祖母さん。お願いだ……」


彼女の名前は、秋野祖母あきのそぼ。僕と将来を誓った、美しい人であった。






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