第61話

「君の名前は、確か稚沙といいましたか?」


「は、はい、そうです!」


稚沙は隣にいる小野妹子にそう答えた。

彼は大国隋にでむき、その国の皇帝にも実際に会った人物である。

そんな彼が自分の横にいて、話しかけてくれている。何とも不思議な感じがするなと彼女は思った。


「今日はあなたも大変だったでしょう。でもそのお陰で、今日は本当に良い宴になりました。あなた方にはとても感謝しております」


彼は稚沙に対し微笑んだ表情をしてそう話す。口調もとても丁寧で、そんな彼の人柄の良さがとても伺える。


(この人は厩戸皇子よりも数歳年下ぐらいかな?それにとても思いやりがあって、話しもしやすい……)


「妹子殿のような方にそういって頂けて、本当に嬉しいです。今日の宴が無事に成功して、私も本当に良かったと思います」


稚沙は笑顔でそう答えた。

宴に参加している人から、こうやって感謝の言葉が貰えるとは思ってもみなかった。



「ところで、この場所には良く来られるのですか?

こうやって座っていると、1人で静かに過ごすには、とても良い場所のように思えたて」


「はい、実は時々来てます。嫌なことがあった時とかに……」


稚沙は厩戸皇子と初めて会った以降も、この場所には時々きていた。大半は仕事の失敗で落ち込んだ時ではあったが。


「それに厩戸皇子も、この場所のことは知っておられます。私実は彼と初めて会ったのもこの場所なんです」


「へぇ、ここはそんな思い出の場のある場所でもあるのですね」


小野妹子は少し興味深そうにして、彼女の話しに耳を傾ける。


「はい、ここは私にとっては、とても思い出のある大切な場所なんです」


稚沙は少し照れながらそう答えた。

彼女がこんな話を他人にしたのは初めてである。

例え厩戸皇子に自分の想いが伝わることがなかったとしても、彼との思い出は大事にしたいと彼女は思っていた。


(今日は何故こんな話をしてしまうんだろう。何か不思議ね……)


「もうじき夏になれば、この辺りもまた景色が変わってきますね」


ふと稚沙は再び空の雲を見ていった。


自身の想いも、あの雲のようにどこか遠くに行ってしまえば、どんなに良いだろう。


それとも時がたってしまえば、本当にあの雲のように、この気持ちは遠くに消えていくものなのだろうか。



彼女はそれから、ふとその場で和歌を詠み上げた。


「み空行(ゆ)く、夏の雲みて、心もと、清々しきは、風のまにまに」


小野妹子は彼女の和歌にいたく感心した。


「なるほど、このような景色を見ていると、清々しい気持ちになって、そのまま風のように自身も流されていく。とても良い歌ですね」

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