滲む桃色

白山無寐

 

 子供の頃、小さく握りしめていた愛というものは、大きくなれば大きな愛を、大きくなった手で握りしめないといけない。それに気づいた頃にはもう、手放してしまったものばかりだった。

 かき集める。砂場で山を作ろうとサラサラの砂を集めて、じょうろに汲んできた水をかけた時のように、腕をめいっぱい使ってかき集めた。

 無くなったものを一つ一つ思い出してみようと、水をかけた。固まった大きなものは、ただの愛。それを壊して、眠りにつく。

 子供のように、はしゃいで転んで泣いて母に呆れられ、それでも大丈夫? と優しく頬を撫でて欲しい。ぐっと堪えた吐き気が抑えきれないものになってきた。


 母の顔をもう一度見てみる。酷く痩せていた。顔色は、いつも悪かった気がする。シワはもちろん増えているが、でも私の知っている母はいつもこんなに老けて疲れている。

 冷たくなってしまったこと以外は、母だった。火葬場には姉も弟もいない。父が死んだ時も、私一人だった。

 父の場合は、父が私にしか連絡していなかった。私は姉弟とも縁を切っていたため彼女らが父の死に気づいたのは、二年後だと聞いた。

 今回の葬式は二人とも知っている。親戚を通して、私に連絡をよこした。断る理由もなければ、無視する理由もなかったため、母の葬式を引き受けることにした。とは言っても呼べる人が一人もいなかったため、直葬で母と別れることになる。

 母は孤独死した。幸い発見が早かったため、体は腐っていなかった。姉が定期的に様子を見に行っていたそうだ。

 母は着替えを済ませ、気持ち程度の化粧もしてもらっていた。

 花束を三つ抱えて、母に会いに行く途中。バスから眺める何十年ぶりの地元は何も変わっていなかった。憎たらしい思い出が桜吹雪のように振り続ける。

 そんな私を笑うように吹き続ける桜吹雪の綺麗な道を歩いた。桜の花弁が何枚か花束に積もる。それを払っては下を向く。

 ふと友人から聞いた言葉を思い出す。

「両親のことは大好きだけど、両親のおかげで壊れて元に戻らなくなったこともある。それはもう大人になってしまった私がどうにかするしかない。いつか、二人を許せたらいいなって。今生きてるのは、二人を許したくて、許せるようになりたくて、多分必死にやってるんだと思う」

 お互い繁忙期が過ぎ、落ち着いた頃に私が飲みに行こうと声をかけた。疲れが溜まっていたのか、二人してすぐに酔いが回り、疲れたねと慰めあった記憶だ。

 私はその言葉を聞いて、父や母のことを許したかったんだと思った。

 日々殴られる。日々暴言を浴びせられる。だけどたまに、千佳の好きな唐揚げ作ったよと笑顔で食卓にご飯を並べてくれる。たまに、ドライブをしては上機嫌で色んなことを教えてくれる。

 父から教えてもらったくだらない雑学は未だに覚えている。だけどそれは間違いで、昭和の人間がただ適当を言っているだけだ。と、ネットでは笑いものにされていた。

 母は、死んだら雲になりたいんだよねと言った。バスに乗りながら、大きな空を見つめる母が好きだった。

 たまにある小さな愛を、ずっと握りしめていた。痩せこけてぶつけるとすぐアザのできてしまう弱い腕を見つめながら、父に蹴られて痛むお腹を擦りながら、母に引っ張られてちぎれた髪をベランダの柵に乗せて靡かせながら。

 火葬場に向かいながらそんなことを思い出す。許せなかった。どうしても、私は許せなかったんだと足を一歩一歩踏み締めながら、必死に涙をこらえた。

 花束の紙に少しシワが寄ってしまった。母はそんなの気づきもしないだろう。

 やっと火葬場について、母の顔を見ると大粒の涙が落ちた。自分でもわかってしまう涙の粒がより苦しめる。

 過去も、今も、そして未来さえも真っ暗にする。

「久しぶり」

 そう言って触れる顔が冷たい。何も変わらないのに、もうほとんど皮だけになってしまった腕が酷く可哀想で、花束を落としてしまった。

 母の好きな花は贅沢な花ばかりだった。もう今はバラ一輪でさえ気軽に買えるものではなくなっていると言うのに、赤い薔薇が好きだと醜く笑う母を愛していた。

 震える手で母の手を掴み、握る。元気だった? と、酔っ払った時にしか出さないあの上機嫌な声で握り返して欲しかった。空いたもう片方の手で私の頭を優しく、撫でて欲しかった。

 あぁ、懐かしいなと声を出さず泣く。喉奥が痛む。思わず声が漏れてしまいそうだった。もうすぐ灰になる母に寂しさを覚えた訳では無い。

 もう、私は母に愛されないんだという事実がどうしようもなく、身体を虚しくさせた。

 落とした花束を拾い、リボンを解く。艷めくリボンをゴミのように丸めて鞄にしまっていった。

 一輪一輪、母の傍に並べていく。どうせ誰からも愛されなかっただろう。

 あんな母だ。仕事が忙しいと言いながら、どうせ上手くいってない仕事を適当にこなして誰かに迷惑をかけていたに違いない。

 家に帰ればすぐ酒を飲んで、私に仕事のストレスをぶつける。箱入り娘の母が、私に甘えてくる瞬間は今でも嫌いになれなかった。

 思い返してみれば、やっぱり母はとても残念な人だった。今大きなシャンデリアに照らされていることですら贅沢だと思う。

 私が泣いていることだって、本当は壊れてしまうくらいの愛と、私が抱えきれない感謝を見せるべきなのに。

 もうすぐ母が燃やされる。もうすぐだ。

 その時間を稼ぐかのようにゆっくりと花を並べてしまう。

 誰からも愛されなかったとしても、いつか誰かに愛されていた母が私を見て笑う。

 そんな母を私は愛していた。母の、笑った顔はとても可愛らしくて、愛おしかった。

 微かに人の泣き声が聞こえてきて、最後の一輪を並べ終えた。私の他にも、誰かの死を悲しむ人がいた。全く気づかなかった。

 スタッフと思わしき足音が聞こえて、遺影を置いた。

 母の棺から二歩離れて、スタッフの方に会釈する。

 なにか声をかけられたが、ぼうっとする頭じゃ上手く聞き取れなかった。おそらく、今から火葬するといった内容だろう。

「お願いします」

 母が火葬炉へ消えていく。それを、ただ見つめる。


 骨壷を玄関に置いた。酷く重たく感じる。

 実家はもう誰もいなくなってしまったから、ずっとこのままという訳にも行かない。私には私の家があり、姉にも、弟にも家があるため片付けなければいけない。

 誰もいない部屋を乱れた喪服で歩いてみた。部屋の隅を見てみても、埃はあまり溜まっていなかった。

 母は案外一人でも掃除や洗濯をしっかりしていたらしい。足が特に悪かった母には大して広くない部屋が三部屋、そしてリビングや脱衣所にトイレの掃除は大変だっただろう。

 私と母の部屋だったこの部屋はもうしっかりヤニが染み付いてしまっている。焼酎の匂いも微かにする。きっと酔っ払ってグラスを倒してしまったんだろう。

 座り込んで畳を触ってみると、全身の力が抜けた。ふと見つけた母がずっと使っていたタオルケット。このタオルケットは古い記憶を辿ると桃色だったが、所々黄色くなっている。それをそっと抱いてみる。

 母の匂いがする。嗚咽を我慢し、声を殺して泣いた。


 目が覚めると、次の日の昼だった。体は覚えていたのか、母の眠る隙間を少し開けて、布団で眠っていた。

 そろそろ姉や親戚が部屋を片付けに来る。私は寝癖を急いで整えて、髪を一本に結った。

 着替えもせず、玄関に置きっぱなしだった骨壷をリビングのテーブルに置き直して、私は家を出た。

 許そうとしてしまう、許せない過去がずっと、私の肩に乗っかっていた。

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