第43話 無償の

 身体が、鉛のように重い。

 身体は動きそうにもないが、何とか瞼だけは持ち上げることができた。


 結人がゆるゆると目を開けると、一番に目に入ったのは自宅の天井であった。どうやら布団の中で仰向けに寝ているようで、結人は何度かゆっくりと瞬きをして焦点を合わせると、すぐ隣に在る誰かの気配を感じ取る。


 ずきずきと痛む頭を横に傾けると、そこには結人に寄り添うように、布団には入らないまま腕を枕に横になって、結人の左手を片手で握る葉桜丸の姿があった。

 静かに目を閉じている葉桜丸。結人の小さい手を握る、その大きな手の甲には光り輝く桜紋様が浮かび上がっていた。


 結人はまたゆっくりと目を瞬かせて、すぐ隣にある葉桜丸の顔へと小さく囁いた。


「……僕は……あれから何日、眠っていましたか?」

「三日。ずいぶんとうなされておったぞ」


 葉桜丸は目を閉じたまま、淡々と応える。


「まったく……お前、怨霊に情をかけたであろう。そのせいで怨霊たちの瘴気が心の臓の深奥まで入り込んでおる。おかげで三日三晩、お前の瘴気祓いだけで手が離せぬわ。まず、脆い人間の身体をしておるくせに私を庇うなど、巫山戯たことを……」


 眉根を寄せて、ぐちぐちと小言を零す葉桜丸の顔をじっと見つめながら、結人はほっと安堵して息を吐いた。


「葉桜丸が、無事ならよかった……でも、迷惑をかけて……ごめん、なさい」


 結人の呟きに葉桜丸が一瞬で口を噤むと、呆れたように溜め息を吐き出した。


「……戯けが。迷惑などしておらぬ」

「では……ありがとう。葉桜丸」


 結人の礼の言葉に、葉桜丸は短く鼻を鳴らす。

 結人はまた目を閉じて、耳を澄ました。


「雨が……降ってますね」

「ああ。昼夜問わず、三日間滝の如く降り続けておる。怨霊たちが解き放たれたことで、この地の神々の機嫌が悪くなったせいであろうな」

「そうですか……」


 カーテンが閉め切られた窓の外からは、大地が無数の水滴に激しく打たれる雨音が聞こえてくる。どうやら、葉桜丸の言う通り相当の大雨が降っているらしい。雷が遠くで鳴り響き、地鳴りまでが低く唸りを上げている。

 既に、怨霊とは特に縁深い山神が、荒ぶる前兆を見せていた。


 早く回復して、千生実を止めに行かねばならないと唇を嚙む結人の隣で、葉桜丸がふと、ぽつりと独り言ちる。


「やはり私は、人間が憎い。大嫌いだ。後輩の件を以て、改めて痛感したわ……彼奴ら、己の私情だけに駆られてとんでもない愚行に走りおって。私が産土神から賜った六火の錫杖を盗むだけでは飽き足らず、私が数百年かけて慰めてきた、鬼の大怨霊にまで手を出してくるとは……」


 葉桜丸は細く長い息を吐き出す。


「……私は未来永劫、人間を理解することはできぬだろう」


 結人は目を開けると、暗い天井を見つめたまま葉桜丸の独り言に応えた。


「それで、いいんですよ。赦さなくていいんです、人間を。だって人間は昔も今も……あなたを、深く傷つけた。だからあなたは、そのままでいい。人間が理解できなくてもいい。ですが、葉桜丸」


 結人は葉桜丸の手をきゅっと握り返した。


「それでも人間である僕は、葉桜丸と今をこうして共に生きている。生きていられる……それだけで、いいと思ってしまっています。なので、こんなに身勝手で欲深い人間である僕を……憎んでもいいんですよ。その憎しみを全部、僕にください」


 誰かを憎むことは、苦しい。それを結人は、身をもって知っている。葉桜丸の人間への憎しみは、一生消えることはないだろう。きっと、千生実の件もあって、葉桜丸の憎しみは更に深まったはずだ。


 それならば、少しでもその苦しみを晴らしてもらいたいと、結人は思った。

 今では一番、葉桜丸の身近にある人間として——人間が葉桜丸に犯してきた罪を、償いたいと思ったのだ。


「戯け」


 しかし、結人の言葉は容易く葉桜丸に一蹴された。結人が目を丸くして隣にいる葉桜丸に顔を向けると、葉桜丸は半眼で溜め息を吐き出す。


「瘴気で頭もやられたか? くだらぬことをぬかしおって……以前、言っただろう。私はお前を信じると。信じる者を憎めなどと、わけがわからぬ。私の鬼火桜を見せたいと思うたのも、お前だけだというのに。私にとって、お前は——」


 そこまで言いかけた葉桜丸は何やら自分の言葉にひどく驚いたように息を呑むと、眉を顰めて口を噤んだ。

 結人は思いもよらない葉桜丸の言葉に、さらに大きく目を見開いて葉桜丸を見つめた。


「……葉桜丸は本当に、やさしいヒトだ……知らない人についていってはだめですよ?」

「あ? いつも連れてゆかれそうになっておるのはお前の方であろうが。戯け」


 何だか久々な気がする葉桜丸との軽口の叩き合いに、結人は嬉しくなって小さく笑みを零す。


「信じた人間だからといって、油断してはだめですよ。相手が僕だろうと、気をつけてください……また、葉桜丸が傷ついてしまわないように」

「そのようなことにはならぬ。誰であろうと、人間如きに謀られるような私ではない」

「そうですか……じゃあ葉桜丸は、長生きしてくださいね」

「阿呆。私は千年を生きる鬼だぞ? お前の寿命の百倍以上は永く生きる」


 微笑む結人に、どこか不思議そうに眉を動かす葉桜丸だったが、小さく息を吐いて、結人の手を握っていた手で結人の顔を仰向けにさせると、そのまま両目を覆い隠した。


「さっきから、わけのわからぬ事ばかり言いおって……早う眠れ。雨音を耳にしながら眠るのも悪くはなかろう」

「……うん。でも僕は雨の日、頭痛が酷いんですよ……」


 鉛のように重く、怠く感じる身体はおそらく瘴気に中てられたせいだが、このずきずきとした頭の痛みは、生まれつきの体質でもあった、天気痛によるものだろう。

 結人は眠ろうと葉桜丸の手の下で目を閉じてみるが、頭痛によってどうにも眠れる気がしなかった。


「まこと、人間とは難儀な肉体をしておるな……どれ。これで痛みは和らぐか」


 ふと、葉桜丸が結人の目から手を滑らせて、結人の額や頭をやさしい手つきで撫で始めた。


「私の灰花かいかの灰をくれてやる。この灰は、傷や痛みを癒す力も秘めておるゆえ」


 ひんやりとした葉桜丸の大きな手が繰り返し、柔く額に触れてくれるのは、どうしようもなく気持ちが良かった。

 灰花の灰はざらりと額に触れると、瞬く間に溶けて結人の身体の中へ浸透し、頭の痛みどころか、全身の怠ささえも癒す。

 何よりも葉桜丸が頭を撫でてくれる心地よさに、結人は自然と目を閉じる。そして、目尻から熱い水が溢れて、幾筋も頬を伝っていった。


「また泣くのか。お前はまことに泣き虫だ」


 葉桜丸の笑いの混じった呆れた声に、結人は内心で呟く。


(だって……葉桜丸が、あまりにもやさしいから)


 人間を心の底から嫌悪していると。憎しみは消えることはなく、赦すこともないし、生涯人間という存在を理解することはできないと。そう語る鬼の葉桜丸がこんなにも近く、結人にそばに居てくれて。

 出逢ったばかりの頃は、今にも結人の息の根を止めんと首を絞め上げてきたあの大きな手が、今ではこんなにも柔らかな手つきで頭を撫でてくれる。


 そして、何より。葉桜丸が大好きな花を咲かせるための灰を、結人に無償で分け与えてくれる。


 憎い人間である結人が相手でも葉桜丸は静かに、穏やかに、心身へと寄り添ってくれる——そんな葉桜丸の、温かくて、あまりにも純粋無垢で眩しい無償のやさしさに、結人は泣かずにはいられなかった。


 嬉しいと、幸せだと。心の底から思わずにはいられなかったのだ。

 ずっと、葉桜丸のそばに居られる時間が続けばいいのにと、結人は思う。


 しかし、この身体が回復すれば——この永遠に続いて欲しいと願わずにはいられない時間が終わってしまえば、結人は行かなければならない。


「……どうし、よう。葉桜丸……僕、ちゃんと、走れるかな。九魔を守るために」


 結人の口から、嗚咽混じりの震える声が漏れる。

 九魔の地を滅ぼそうとする後輩、千生実の凶行を結人は食い止めねばならない。あるいは、結人が千生実を、手にかけなければならないかもしれない。

 ずっと、信じてきた大切な人。千生実も、結人にとっては、守らなければならない対象であるはずだったというのに。


「僕、千生実を守りたかった、のに……僕が、千生実を……止めないといけないのに。千生実の所に行かないといけないのに……こわくて、こわくて堪らない……!」


 様々な激情の糸が複雑に絡み合った結人の心が、葉桜丸のやさしさにほどかれて、結人の胸の底に固くしまっていたはずの本音がぽろぽろと零れだしてゆく。


「僕が、何もできなくて、動けなくて……このまま九魔が滅びたら、どうしよう。千生実に何もしてあげられないまま、何もかも手遅れになってしまったら……どうしよう」


 結人は絞るような声で、失ってしまうのを何よりも恐れていることを、口にした。


火中ほなかもりの花畑にいる……葉桜丸の笑い顔が、もう、見れなくなったらどうしよう……来年の春、葉桜丸の鬼火桜が見れなかったら、どうしよう……!」


 葉桜丸の結人の頭を撫でる手が一瞬止まって、小さく息を吞む気配がした。

 だが、葉桜丸の手はすぐに変わらないやさしい手つきで結人の頭を撫で続け、結人が絞り出した弱音へ静かに応えた。


「恐れることは悪いことではない。お前は一人ではなかろう。私も、これ以上後輩の好きにはさせぬゆえ。今はしばし……眠りなさい」


 葉桜丸は言い聞かせるようなやさしい声色で、結人の額を撫でた。

 外から聞こえてくる雨音は、結人の心に澱む不安を洗い流してくるような音にも思える。結人の頭に触れてくれる葉桜丸のひんやりとした手と灰花の灰は、結人の頭痛を随分と和らげてくれた。

 結人は大地を雨打つ音と、額に伝わる葉桜丸の体温とやさしい声に促されるように、いつの間にか深い眠りに落ちていた。


 そして、結人が次に目を覚ました時は、自室の一面が薄暗い闇に吞まれた黒い朝。


 仄かな闇の中で目を凝らして、結人はすぐ隣へと手を伸ばす。しかし、先刻までそこで横になっていたはずの葉桜丸の姿は、もうどこにもなかった。


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