第31話 愛を掬い、結ぶ人

 葉桜丸と千生実が振り向くと、いつの間にかすぐそこまで土手を登ってきている結人の姿があった。

 結人は葉桜丸と千生実に視線を巡らせると、不思議そうな顔をして首を傾げる。


「どうしたんですか? そんな大声を上げて」

「……いや、何でもないんだ。化け狸たちは?」

「ああ、彼らは駄菓子を買うと早々に山に帰りましたよ。喜んでいたようなので、良かった」


 楽しそうに微笑む結人の顔を見た千生実は、どこか寂しそうな目をしているように葉桜丸には思えた。


「そうか……それより、先輩。俺、そろそろ行くよ」


 千生実はいつもより早い口調でそう言いながら、土手を下っていく。結人がその背中に咄嗟に声を掛けた。


「行くって……どこに行くんです?」

「椎塚の分家。もしかしたらそのどこかに、あのジジイが隠れているかもしれない。だから、こっちのことは任せて。先輩」


 千生実が顔だけで振り向いて、力強く頷いて見せる。それに結人も頷き返すと、片手を振った。


「わかりました。では、そっちはお願いします。千生実」

「おう。任せろ! それじゃあな、先輩! 鬼さん!」


 そうして千生実は、後ろ手に大きく手を振りながらその場を後にした。結人は千生実の背中を見えなくなるまで手を振って見送ると、未だに土手に座ったままの葉桜丸の隣に座ってきた。


「それで? 男前二人で、いったい何を楽しそうに話してたんです?」


 何故だか嬉しそうに尋ねてくる結人。どうやら結人には、千生実と葉桜丸が仲良く喋っていたように見えたらしい。

 葉桜丸は結人の相変わらずの前向きさに小さく溜め息を吐きながら、空を仰いで答えた。


「後輩が惚れた女について、話していた」

「え! 千生実が惚れた!? く、詳しく!」


 千生実が惚れているという女が、自分のことなのだと微塵も思っていないのであろう結人が、ひどく驚愕した顔で問い詰めてきた。

 葉桜丸は小声で「先が思いやられるな……」と密かに零して、軽く頭を抱えつつ結人に答える。


「その女に、〝愛〟とやらを教えてもらったのだと言っておったわ」

「な、なんと……めちゃくちゃに素敵じゃないですか!」


 片手で口元を押さえ、まるで自分のことのように「千生実にもそんな人が……どうにか、上手くいくといいですね……!」と喜ぶ結人を流し目で眺めながら、ふと、葉桜丸の脳裏に懐かしい人物の影と声が過った。


『人も、人ならざる者も。心を持つ生きとし生ける者が皆、愛おしいと。姉さんはそう思わずにはいられない。きっと君も、いつか誰かを愛する日がくるよ』


 数百年も前の、遥か遠い日。葉桜丸の数少ない肉親の一人——姉が、そのようなことを言っていた。今思えば姉は、人も妖怪も問わず、さまざまな者たちを「愛している」などと語る、おかしな鬼だったと。葉桜丸はぼんやり思い出す。


「私の姉も……愛とやらを語る、おかしな鬼だった。人ならざる者は兎も角、我ら鬼の一族を滅びの寸前まで追いやった人間までをも愛していると。馬鹿げたことを、いつも語っておった。愛などと、まことにくだらぬ」


 気が付けば葉桜丸は、ぽつりと姉のことを口にしていた。


「私には理解できぬ。人ならざる者たちは醜き私を恐れ。鬼である私はどうあっても、人間たちとは相容れぬ。私は誰かに憎悪され、誰かを憎悪する運命にある。そんな私が他者を、愛する、などと……」


 そこまで本音をぽろぽろと零して、葉桜丸は小さく息を呑む。しまったと我に返った時には、隣に座る結人が穏やかな声で葉桜丸の独り言に応えた。


「だいじょうぶ。いつかきっと、葉桜丸もお姉さんのように。誰かを愛することができる日がくる——自分自身を、愛せる日がきます」


 結人が、先ほど思い出した姉の言葉と同じ言葉を紡いだこと。そして「自分自身を愛せる日がくる」という言葉に、葉桜丸は大きく目を瞠る。咄嗟に、すぐ隣にいる結人を振り向くと、結人は凪いでいるような、穏やかな微笑みを柔く湛えていた。


「だって、僕も——昔はこの世界の何もかもが嫌いで、たくさんのものを憎んでいましたが。今はこうやって、人間も妖怪も、この世界も。数え切れないものを好きになれたんだから」


 結人はおもむろに立ち上がると、茫然と結人を見つめる葉桜丸を振り向いて、無邪気に夕焼けのような赤い目を細めてまた笑った。


「あと。僕は葉桜丸のこと、嫌いじゃないですよ。結構好きです。覚えておいてください」


 葉桜丸の心の臓が、どくりと大きく脈打つ。


 身体中の血が胸に集まって、春の陽だまりのような柔らかな温かさがじわりと滲む。しかし同時に、夏の日差しのような烈しい熱が、湯水のように腹の底から溢れ出てくる感覚がした。


 結人はいつも、葉桜丸の知らない感情を、激情を、勝手に葉桜丸の肉体に刻み付けてくる。


 葉桜丸は未だ、この激情に名前をつけられないままであった。

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