第14話 山神と鬼

 太陽が完全に山の向こうへと沈み、月の光が闇空を支配し始めた。


 仄かな、ぼんやりとした光の中でも、闇に吞まれた山々の尾根ははっきりと目視できる。

 そんな、青白い月明かりの下。結人は、黒い壁のような山々の麓を、鎌鼬の風に乗った木の葉を追いかけて走っていた。


 ふと、勢い良く吹いていた風が突如止み、木の葉が地面へはらりと落ちた。

 結人は駆けていた足を止めると、葉が落ちた周辺を見回す。


 すると、少し離れた場所に鎌鼬が倒れている姿を見つけた。結人は目を見開いて、すぐさま鎌鼬へと駆け寄り、その小さな身体を慎重に抱き上げる。


「鎌鼬、鎌鼬……しっかりしてください。何があった?」


 結人は何度も呼び掛けながら、鎌鼬の具合を診る。

 目立った外傷はなく、体内の妖気も異常はない。どうやら鎌鼬は、気を失っているだけのようだった。

 ひとまず、鎌鼬の命に別条があるようではないとわかった結人は、ほっとして息を吐く。


 そこで不意に——全身を針で刺されたような、ビリビリとした痛みを錯覚してしまうほどの、強烈な気配を前方に感じた。


 結人は、反射的に視線をその気配の方へと向けていた。


 そこには妖怪でも木霊といった精霊でもない、一匹の異形が、耳が痛くなるほどの静けさを纏って悠然と佇んでいた。


 異形は、猿のような、梟のような。または人間にもひどく似た異様な顔を持ち、全身は羽毛で覆われている。足も猿のような形をして、二本足で立っており、両腕は大きな翼となっていた。そんな、奇妙な姿をした異形は、にんまりと不気味な笑みのようなものを浮かべて、結人をじっと見つめている。


 異形と目が合った結人は、異形に視線を無理やり縫い付けられてしまったかのように、動けないでいた。そのまま異形を凝視していると、結人の両目、鼻から大量の血が垂れ流れてくる。ついには、ごぽりと、口の端から赤が溢れ出して吐血した。


 ふと、冷たくて大きな手が、結人の視界を覆い隠す。


「何をしている」


 同時に、涼しげな低い声が、すぐそばで鼓膜を撫でる——葉桜丸の声だった。


 結人は葉桜丸の声が耳に入った瞬間、ようやく我に返って、激しく咳き込み、荒い呼吸を繰り返す。葉桜丸は結人の目を覆った片手で、結人の頭を柔らかな手つきを以てゆっくり俯かせると、変わらぬ声色で子どもに言い聞かせるように言った。


「無暗に万象を覗こうとするな。童か、お前は。容易くへ連れてゆかれるぞ」


 葉桜丸は小さく息を吐いて、結人の目元から手を離す。結人の視界には、月明かりに照らされている血に塗れた地面と、自分の腕に抱えている鎌鼬の姿がぼんやりと映った。


「そのまま、視線を逸らしていろ」


 葉桜丸の声と併せて、あの奇妙な異形と対峙するように、結人の目の前に別の異形が現れた。俯いているので、異形の鳥のような足しか見えなかったが、それが葉桜丸なのだと、結人は直感で理解する。


 葉桜丸が涼やかな低い声を、大きく張った。


山祇やまつみ比売ひめよ。貴女さまにこの空蝉うつせみの子は献上できませぬ」


 葉桜丸の言葉に、結人ははっと息を呑む。どうやら、結人が遭遇したあの奇妙な異形は、山神であったらしい。

 そのうえ葉桜丸は、あの気まぐれな山神を相手に、堂々と言葉を紡いでいる。


 人間や妖怪は、一方的に神へと願い等を奉ることはできるが、取引や交渉といったような明確な意思疎通を図ることが出来ない。


 しかし、梔子が以前言ってたように、やはり鬼は、神々との完璧な意思疎通が図れるという天性の異能を持ち合わせているのだと。人間や普通の妖怪にとっての不可能を容易く可能にして見せる、一線を画す存在であるのだと、結人は思い知った。


「代わりに、産土神のご加護を受けし、我が鬼火桜おにびざくらを献上致そう。貴女さまの山が、より豊かに実るように——祈り奉る」


 葉桜丸が遠吠えのような咆哮を高らかに上げると、すぐそばで、みるみるうちに桜の木が生えてきた。


 山神は軽やかな足取りで桜の木へと近づいてくると、しばらく、桜の木の周辺をぴょんぴょんと飛び跳ねながら、じろじろと観察していた。そうして、ようやく満足したのか、喉をくるるると鳴らす。

 次の瞬間には、大翼をはためかせて突風を巻き起こらせながら飛び立つと、巨大な猿の足で桜の木を引き抜き、何処かへと飛び去って行ったようだった。

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