第10話 葉桜丸

 不思議と距離の縮まらない、遠い鬼の背中を追い続ける結人。気が付けば結人は、お気に入りの場所である鳥居原とりいばるの石橋の前へと来ていた。


 鬼は石橋の向こうにある、あの鳥居をくぐって姿を消してしまう。どうやら鬼の目的地は、鳥居の先にある、結人が鬼と出逢った不思議な桜の森らしい。結人は駆ける足を速めると、石橋を渡り切って、一切の躊躇もなく鳥居をくぐった。


 鳥居の向こう側にある、現世うつしよではない世界。結人はそんな異世界のほとんどを占めている、不思議な桜の森の中を進んでゆくと、やはり、桜の大樹が鎮座する丘の上に鬼の姿を見つけた。

 結人が丘を登ると、鬼は先日まで自分の身体が埋まっていた桜の大樹に片手で触れて、俯いている。結人は首を傾げて更に鬼へと近寄ってみると、鬼は何やら、深い思考に耽っている様子だった。


「何やってるんです。こんなところで」

「こんなところではない。此処は、〝火中ほなかもり〟という」


 結人が声を掛けると、意外にも鬼は即座に応えた。

 鬼が言うには、この明らかに現世ではない不思議な森は〝火中ほなかもり〟というらしい。結人は柔らかな声で「そうですか。ありがとう、教えてくれて」と頷くと、鬼が振り返りもせずに問うてきた。


「やはり、火中の杜に施した封印結界が完全にけている……貴様の仕業か?」

「封印結界? ……すみません、それは僕にもわかりません。まず、この火中の杜がどういった場所なのかも、わかっていないので」

「……」


 神妙な顔をして首を横に振って見せる結人を一瞥した鬼が、更に眉を顰めてぶつぶつと呟く。


「此奴でないとすれば、別の人間か? ……まったく。人間たちは余計な事しかせぬな。いつの世も」


 呆れたように息を吐いた鬼が、背中を桜の大樹に預けて寄りかかる。未だにどこか難しそうな顔をしている鬼に、今度は結人が問いかけた。


「あの。次は僕が聞いてもいいですか?」

「……何ぞ」

「あなたの名前は?」

「……」


 結人の短い問いに、鬼は顔を背けたまま答えない。結人は「ああ」と声を漏らして頷いた。


「こちらから名乗るのが礼儀ですね? ——僕は櫛笥くしげ 結人ゆうと。逢魔師の男です」

「嘘吐きめ。貴様、女子おなごであろうが」

「……おや、バレましたか。まあ、どっちともいえる、ということで」


 結人の声を遮る勢いで、鬼が嫌悪の混じった声を刺す。結人はどう答えていいのかわからなくて、苦笑を零しながら誤魔化した。そんな結人へと、鬼は立て続けに呆れたような声で言葉を募らせる。


「しかも、そう易々と人ならざる者に真名まなを名乗りおって。底抜けの阿呆か。貴様は」


 人間も妖怪も神も問わず。「真名まな」というのは、己の魂の一部ともいえる大切なものだ。


 例によって他者に真名を知られると、真名を媒体とし、異能によって魂を縛られたり、呪詛を受ける可能性があるうえに、勝手に契約を結ぶ証とされてしまうこともある。つまり、真名を知られるということは——己の生命や魂を、他者の手に握らせるも同然の行為であった。そのため、妖怪や精霊といった人ならざる者たちは滅多に他者へと真名を明かすことはしない。


 そして、魂に触れてしまえば、どんな天変地異が起こりうるかも知れないため、気まぐれな神々の真名を呼ぶことは暗黙の了解として禁じられていた。


 当然、逢魔師である結人は真名を他者に明かすことのリスクも知っていたが、それを承知の上で、鬼に真名を明かしたのだ。


「あなたなら、僕の真名も悪いようにはしない。そう、確信しているのでだいじょうぶです。お気になさらず」

「……なんだと?」

「だって、あなた。そんな身体であろうと、いつでも僕を赤子の手を捻るより容易く殺せたでしょうに。今の今まで、僕を殺していませんから」


 飄々と言ってのけた結人に、鬼は微かに目を丸くする。

 そうして結人は、再び鬼へと首を傾げて見せて尋ねた。


「それでは改めまして。あなたの名前は? 真名は当然教えられないと思いますので、呼び名だけでも」


 鬼は目を細めて、じっと結人を見つめたまま、一つ沈黙を置く。


「……人間に名乗る名などない」

「おや。ずいぶんと警戒されてますね。まあ、仕方のないことですが……じゃあ、適当な名前で呼ばせてもらいますよ」


 結人は鬼のそばに聳え立つ、桜の大樹を一度仰ぐと、すぐに目を瞬かせて鬼に視線を戻した。


葉桜丸はおうまる


 結人は鬼を——〝葉桜丸はおうまる〟を、よく通る声で呼んだ。鬼は灰色の目を大きく瞠って、身体を固まらせる。


「その、青々と萌える葉桜のもとで出逢ったので。葉桜丸」

「な……何を貴様、勝手に」


 初めて狼狽したような声を漏らした葉桜丸を気にした風もなく、結人は葉桜丸のもとへと足早に歩み寄った。


「ということで、葉桜丸。いったん家に帰りましょう。あなたの身体はまだ万全ではない」

「は? な……ということで、ではないわ! 私に近づくな! にんげ、ん……」


 手を取ろうとしてくる結人の手を振り払った葉桜丸だが、その拍子にふらついて倒れ込む。葉桜丸の息は上がっており、何度も自力で立ち上がろうとしたが、足に力が入らないようであった。


 結人は座り込んでいる葉桜丸の身体の下へと器用に潜り込むと、葉桜丸の腕を己の肩に回して担ぎ上げる。しばらく結人に抵抗しようと藻掻いていた葉桜丸であったが、とうとう、結人が葉桜丸の身体を完全に持ち上げたので、大きく溜め息を吐き出しながら憎々しげに唸った。


「この……貴様、勝手な事ばかりしおって……!」

「やっと大人しくなりましたね。是非、そのままでいてください。そう暴れられると、流石に面倒ですから」


 葉桜丸を担いだ結人が、葉桜丸の憎らしげな言葉に淡々と返しながら歩き出す。

 それでも担がれた葉桜丸は、毒を吐くのを止めなかった。


「人間如きに、斯様な扱いを受けるとは……一生の不覚……」

「はいはい。それじゃ行きますよ、葉桜丸」

「気やすく呼ぶな」


 こうして結人はしばらくの間、「葉桜丸」と名付けた衰弱している鬼の男が回復するまで、引き続き自宅に住まわせることにしたのだった。

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