第7話 葉桜の杜に眠れる鬼

 鳥居の向こう側には、見渡す限りの桜の木の森が広がっていた。


「……桜、か」


 実はあまり桜の花が好きとは言えない結人は、ぽつりと低い声を漏らす。

 季節はもう五月であるので、無論桜の花は咲いておらず、どれも瑞々しい葉桜だ。そのことに、少しだけ安堵してしまう自分が、何だか結人は虚しく思えた。


 結人が葉桜の森の中を見回しながら進んでゆくと、森を抜けた先に小高い丘を見つける。その丘の頂上には、この世のものとは思えないほどに巨大な桜の大樹が鎮座していた。


 桜の大樹は、丘全体を吞み込むように立派な木の根を張り巡らしている。

 その幻想的な光景に引き寄せられるかのように、結人はいつの間にか桜の大樹のある丘を登っていた。


「光ってる……?」


 結人は桜の大樹を目の前に、瞠目する。

 桜の大樹の立派な幹には、大きなうろが開いており、その中から淡い光がなみなみと溢れ出していたからだ。


 恐る恐る、結人は大樹の洞の中を覗き込む。洞の中は、大量の蔦やヤドリギのような植物に覆われていた。その無数の植物の間から、淡い光は未だに溢れ出ている。


 まるで、「見つけて」とでも伝えたいかのように。


 一瞬躊躇ったが、結人は意を決して小さく息を吐くと、蔦やヤドリギを搔き分ける。すると、微かに冷たくて、肌触りが滑らかなものに手が触れた。

 結人は無心になって、己の手が何かに触れたところを中心に、植物の茂みを搔き分ける。


「あ……」


 思いがけず、声が漏れた。

 植物の中から出てきたものは何と——死んだように固く目を閉じた、男の顔だった。


 陶器のような、白磁の肌。左目は隠すように長い前髪で覆われている。何より目についたのは、露わになっている右目側の方だった。

 右目側の額には、長く白い角が一本、生えている。加えて、右耳の方にかけて小さく短い角がもう二本並んでおり——計三本の角がその男には生えていた。


「……鬼?」


 結人がぽつりと呟く。

 同時に、鬼の男の右目がぎょろりと大きく見開かれた。鬼と目が合ったかと思えば——結人の視界がぐるりと反転する。


 いつの間にか結人の身体は仰向けに倒れ、大樹の洞の中に強く押し付けられていた。そのうえ結人の首は、人間のものとは逸脱した大きな手に鷲掴みにされている。

 結人は瞬きをして、ぼやけていた焦点を合わせる。そうすると、ようやく状況を把握できた。


 起き上がった鬼の男が結人に跨って、ぎょろりとした大きな目を見開き、こちらを凝視している。鬼の髪は艶やかな濡羽色をしており、地につくほど長く、まるでカーテンのように垂れ下がって結人の顔の周りを覆っていた。


 鬼は、淡い青色にも灰色にも見える涼しげな色をした目をぎょろぎょろと忙しなく動かし、辺りを慎重に観察しているようだ。よく見たら、右目の方は普通だが、前髪から微かに覗き見える左目の白目は、異形の如き黒色をしている。


 鬼に首を絞められている状況下でありながらも、結人は何故だか、夢心地でいた。


 鬼の忙しなく動いている瞳が——春のそらのような瞳だと、何となく思った。鬼の背後に広がる、五月の空は鮮やかな青が澄み渡っている。

 もう、桜の花はとうに散っているはずだというのに。鬼の頭上から、薄紅を纏った桜の雨がひらひらと降り注ぐ様が見えた気がした。


 濡羽色の髪に、春のそらと同じ灰色の目。


 そんな色を湛えた鬼の姿と、桜の雨の幻覚に、結人は内心で「ああ」と思いがけず声を漏らした。


(桜が……よく似合うヒトだ)


 不意に、結人の首を絞める力が強められた。結人は思いがけず、うっと小さく呻き声を零す。


「人間。人間臭くてかなわぬ——愚かな人間よ。貴様がの封印を解きおったのか?」


 鬼が、低い声で問うてきた。しかし、結人には何の話か全く理解できず、首を絞められていることもあり、呻くことしかできない。


「答えよ、人間。さもなくば……捻り殺す、ぞ……」


 ふと、鬼の声がどんどん尻すぼみに小さくなってゆき、ついには、ふらりと鬼は結人の隣に倒れ込んでしまった。


「かはっ……ごほ、ごほっ……!」


 危うく窒息しかけた結人は激しく咳き込んで、しばらく息を整えると、なんとか起き上がって自分のすぐ隣に転がった鬼をよく観察する。


「び……っくりした。にしてもこの人……デカいな」


 その鬼は、身長二メートルはゆうにありそうな長身瘦躯の身体をしていた。

 服は銀鼠色の着流しを纏い、雪駄を履いてはいるが、上半身だけはだけている。露わになった上半身は細身ではあるががっしりと筋肉質で、背骨が腰にかけて恐竜の背びれの如く尖って剥き出しになっているのが目についた。

 それらを目の当たりにした結人は、うーんと唸る。


「やっぱり、コブができた人間、ってわけじゃなさそうですね。このヒト」


 彼は結人の思った通り、人ならざる者——おそらく「鬼」と呼ばれる者なのだろう。


 結人はそうひとりでに結論づけると、鬼の長い髪を掻き分けて、再び鬼の顔に触れる。鬼の顔は死体の如く蒼ざめており、呼吸も乱れていた。この様子だと、どうやら酷く衰弱しているらしい。


 結人は一つ大きく頷くと、鬼の長い腕を自分の首にかけ、鬼の巨体を担ぎ上げようと動き始めた。


「さて……とりあえず、ほっとけないので。うちにお連れしますか」

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