第一章

第1話 男装の女逢魔師

 五月の朝。

 清涼な空気を胸いっぱいになるまで吸い込むと、酸っぱいような、仄かに甘いような、瑞々しい草木の味がする。

 辺りの木々を揺らして囁かせるそよ風には、春特有の、とろりとした甘さが漂う濃い花の匂いはあまりしない。花の香りが強い春の匂いはどこか懐かしさを覚えるが、草木と土の香りが混じった初夏の青臭い匂いも、そう悪くはない。


 雑木林を目の前にして深呼吸をするのは、日本人にしては珍しい淡い亜麻色の短髪に、鮮血の如く、目が覚めるような赤色をした瞳を持つ、中性的な顔立ちの「女」——櫛笥くしげ 結人ゆうと


結人ゆうとどの、結人どの」


 結人の名を呼ぶ声がいくつも重なった。結人がその声がした方に視線を向けると、結人の足元に、ぽてぽてと何匹もの狸たちが集まってくる。狸たちは頭をもたげて結人を見上げると、急かすようになんと、人の言葉を話し始めた。


「お早く行きましょう、逢魔師おうましどの」


 この狸——妖怪の「化け狸」たちが呼ぶ「逢魔師」とは結人のことだ。


 見鬼けんきの才という、人ならざる者たちを認識することができる異能。この異能を生まれつき持ち合わせ、妖怪、精霊、怨霊といった人ならざる〝魔の者〟たちと取引し、魔に関する問題事を取り扱う仕事をする職を「逢魔師」といった。

 結人は化け狸たちの声に軽く頷いて応える。


「うん。案内はお願いします」

「お任せあれ!」


 ぽてぽてと走り出した化け狸たちの後を追って、結人も雑木林の中へと駆け出す。

 ゆく道は足元の悪い獣道ではあるが、結人は慣れた足取りで難無く進んでゆく。ふと、そばを走る一番小さな化け狸が結人をちらちらと見上げながら、不思議そうに尋ねてきた。


「それにしても、逢魔師どの。一つ聞いてもいいですか?」

「おや。何でしょう。子狸さん」


 結人は小さな化け狸に首を傾げて見せる。


「あなたはどうして、男などに化けているのですか? まるでずる賢い狐のようですよ。逢魔師どの」


「男に化けている」というのは、結人の恰好を指しているのだろう。

 結人は、男物のスラックスにワイシャツ、ネクタイとサスペンダーを仕事着としている。中性的な顔立ちと短髪の髪型も相まって、はたから見れば男に見えるだろう。

 小さな化け狸の問いに答えたのは、別の化け狸だった。


「馬鹿もの! 逢魔師とは、男しかなれない職なのだぞ。だから結人どのは、男として生きると決められたのだ! 失礼なことを聞くんじゃない!」


 そんな答えに、小さな化け狸は驚いたような声を上げる。


「ええ! そうだったんだあ。じゃあ、逢魔師どのは、どうしてそこまでして逢魔師となったのです? 人間は、カンペキに男に化けることなんてできないのに」

「こら! だから、これ以上失礼なことを聞くなと! 何度言えばわかる、この子狸め!」


 きゃんきゃんと言い合っている化け狸たちに、結人は走りながら苦笑を零す。だが、小さな化け狸の問いには答えぬまま、また視線を前に戻した。


「皆さん気を付けてください、舌を嚙みますよ。さて、そろそろ着きますか?」

「はい。こちらです、逢魔師どの」


 年長の化け狸が結人を先導して、走る足を速める。それについていくと間もなくして、結人たちは雑木林の中でも木々が無い、開けた場所へと辿り着いた。

 結人は思いがけず眉をひそめて、駆けていた足を歩みへと緩めながら、小さく呟く。


「ここから、瘴気しょうきが濃くなっている……」


「瘴気」とは、怨念といったような負の念から生じる毒気のことを指す。結人が辺りを見回すと、この広場のようになっている場所のあちこちに、化け狸たちが力なく横たわっている姿が目に入った。

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