第一部 薫る古都にて少年は言う(3-3)
塀の屋根伝いに表へまわり、蝶乃の隣へひらりと降り立った颯は、少年が思っていたのと逆方向を向いているのに驚いた。
風呂敷を抱えての帰りである。行きのときに気づかないことなど、最近ではめっきりないのだが。
わけを尋ねると、
「今日は裏門から出ましてん。二軒ほど渡らなあかんかったさかい」
蝶乃はそう答えたが、颯はその内容をろくに聞いていなかった。
様子が変なのだ。答える声が微かに震え、口許では笑っているが、細い眉がつらそうに寄せられている。幾らか瞳も潤んで見えた。熱でもあるのかもしれない。
せめて荷物を持ってやろうと手を伸ばすと、彼はいつものようにそれを拒んだ。
「具合の悪いときくらい素直にしなよ。顔色も悪いし、汗までかいてる」
午後をまわれば肌寒いくらいの秋風の中で、蝶乃はしっとりと首筋に汗を滲ませていた。浅く不規則に呼吸している。相当に悪いようだ。
無理をおす友人の姿に、颯は呆れ、手ぬぐいを出して額の汗を拭いてやろうとした。
さっと蝶乃が身を引く。
「ぅん……っ」
途端に喉を詰らせて膝を折った。
カタン、と風呂敷が地面について音を立て、ぺったりと少年は腰を落とす。
「ぅぅ……」
口許に袖をあてがう指先が震えていた。
「どうしたんだよ、大丈夫か。家まで抱えて行ってやろうか」
驚いた颯は蝶乃の隣に片膝をつき、顔色を覗き込もうとする。尋ねた声に彼は弱々しく首を左右するだけで、わけを聞かせようとはしない。
うなだれ、晒されたうなじに一筋、黒髪が張り付いている。吸い寄せられるように視線をやった颯は、慌てて目を逸らした。
見てはいけない。そんな気がした。
「なんも、なんにもあれへん。どうもしやん。今日はもう帰って。送り届けて欲しいない」
それは単純な拒絶というより、こいねがう言葉に聞こえ、颯はなぜと問いかけることができない。ただ苦しそうな少年の横顔を見つめた。
蒼白な面持ちに、しかし目尻に朱を滲ませ、睫毛を細かく震わせている。地に置いた荷物に凭れかかり、肩を落としていた。寒いのか、暑いのか、汗ばみながら震えている。苦しそうだ。
傍らに片膝をついたまま、いつまでも立ち去る気配のない颯に、痺れを切らした相手が顔を上げた。小さく紅い唇が開く。
「はよう……」
あっちへ。
蝶乃が言い終わらないうちに颯は唇を重ねた。
ぴく、と少年が硬直するのがわかる。その身体にそっと腕を回し、引き寄せて、颯は彼の乱れた息を吸い上げた。
どうしてそうしようと思ったのか。ただあまりに蝶乃がつらそうで、その苦痛を吸い取ってやれたらと願ったのだ。
着物ごしに伝わる少年の身体はあまりに細く薄っぺらで、想像以上の儚さに、颯は切なさを覚えた。
時折、物憂い眼差しを見せるこの少年が、なにをどう抱えているのかを知らない。踏み込めば彼は逃れ、どこか遠くへ行ってしまう気がしていた。けれどこんなにも脆い。これを放っておくことなど、できようはずもなかった。
「……ぁ……ゃ……」
重ねた唇の中で、少年が拒む言葉を喘ぐ。
彼の小さな口の端から、ぬるい雫が滴るのを感じた。颯は舌を伸ばしてそれを絡め取り、さらに彼の口内へと侵入して、溢れるものをすすり上げようとする。水音がした。
ぞくぞくと言い知れぬ感覚が背筋を這い上がる。
壊してしまいたい。そんな衝動を感じ、慌てて颯は身を引いた。
「ごめん。あんまりつらそうだったから、つい」
言い訳を口にした颯に、蝶乃は俯いて顔も見せずに、ぼそりと呟いた。
「つい、て、なんやの」
ぱっと顔を上げる。涙の雫が散った。
「そんな、そんなんで、キ――
あらぶりかけた少年の声は徐々に小さくなり、嗚咽を飲み込もうと唇を噛んだ。白むほどにきつく噛みしめ、責める目で見つめてくる。
痛々しくて見ているほうがつらかった。
颯はその身を両手でぎゅっと抱きしめる。ひんやりと冷たい黒髪から、金木犀が香った。
「ごめん。そういうわけじゃない。おれは蝶乃を女だと思ってるわけじゃないし、嫌な思いをさせるつもりもなかったんだ。ただ苦しそうだったから、ちょっとでも楽になればって。ごめんね。馬鹿だね。こんなんで楽になるわけにのに。なんでだろ、慰めたかったんだ。家まで送らせてくれるかい。そんなんじゃ、心配だから」
腕を解いて先に立ち、颯が手を差し伸べる。蝶乃はおずおずとそれを取り、眉を寄せながらゆっくりと立ち上がった。
「ぅく」
膝が伸びきるより前に蝶乃はよろけ、颯の肩口へと寄り掛かる。
受け止めた颯は、その背を撫でてやりたかったが、それを相手が快く思わないだろうことが理解できた。そっと押しやって真っ直ぐ立たせてやる。
蝶乃は目を合わせないまま、小さな声で訴えた。
「なんも心配あらへん。どこも悪うない。あんまり、優しいしやんといて」
惚れてまうやろ。
こぼされた声が、そう響いた気がした。
どん、と突き飛ばされ、颯は尻餅をつく。驚いて見開いた目に、袂を翻して駆け去る少年の後姿が映った。からころという下駄の響きと、高く結わえた長い黒髪が、尾を引くように棚引きながら遠ざかる。
そんな元気があるのなら、初めから倒れたりしないでくれればいいのに。と、すっきりしない頭で思った。
またしても、何が彼の逆鱗に触れたのか颯にはわからない。
とかく女扱いを嫌う少年だから、キスはまずかったのかもしれないが、別にそういうつもりではなかった。
聞き間違いだろうかと、颯はぽかんとしたまま首を傾げる。届いた気がした言葉はもう、耳に残ってはいない。聞き間違いでないとしたら、それこそ女の言動である。彼に限ってそれはないと思うが、だとしたらなんだったのか。
颯は混乱し、地面に尻を着けたまま、その姿が角を折れて見えなくなるまで、ただぼうっと見送った。
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