第一部 薫る古都にて、少年は言う(3-2)

「自分はそんなん阿呆やと思わはるんやろ」

 自分、と関西方言の蝶乃は相手のことを指す。

 それが奇妙に心地よく、颯はそのたびに胸がとくんと打つのを感じたが、そのときの蝶乃の言葉にはどこか棘があった。水平線の話をしたときのことである。

 何がこの穏やかな少年の機嫌を損ねたのか、計りかねて覗き込む颯を、彼はそっぽを向いてひどく冷たくあしらった。それでついカッとなった颯が何かを言い、口の立つ蝶乃は鋭く切り返し、そのうちに口喧嘩に発展したのだと思う。

 互いに思いもしない罵詈雑言を浴びせ、挙句、馬鹿だ間抜けだとつまらない言葉の応酬となった。

「主人もおれへん忍びやなんて、なんの意味もあれへんやないの。お武家さんとこにでも婿入りして仕えたら宜しいんちゃいますか」

 これで打ち切りとばかりに激しく詰った蝶乃の言葉に、颯は血相を変えて腕を振り上げた。

 それは言ってはいけないことだ。

 『古都』で守られる文化はただ継続するのみで、どこへ向かうものでもない。正しいかどうかもわからない。それでも命じられ服従する。子は親に、親は国に。

 だがそれに稼業という意味を教えたのは蝶乃であり、であればこそ颯は主従のように彼とあれたらと願うようにもなったのだ。それを無意味と切り捨て、あまつさえ婿養子へ行ってしまえなどと。

 振り上げられた手のひらに、蝶乃はぎゅっと目を閉じ身を硬くした。

 その目じりに涙の粒を見出し、瞬間、それを散らしたいような衝動に颯は駆られた。が、すぐに右手をぐっと押さえて腕を戻した。

 恐る恐る薄目を開いた蝶乃は、自分で自分の手首を握り締めた颯を見出すと、キッとまなじりを吊り上げ、逆に颯に平手を見舞った。

 その怒りがどこにあったのか、今もって颯には分からない。

 翌日には何事もなかったように、

「おはよう。毎度ご苦労さんやね」

 と微笑んだ少年に、言及は不可能だった。

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