第一部 薫る古都にて少年は言う(1-4)

 金木犀の小花を手のひらに握りこんで、颯は自分の屋敷へと駆け出した。重厚な構えの門扉がある表口へは回らず、瓦屋根の乗った高い塀を飛び越えて敷地に入る。

 蝶乃との出会い以来、真面目に修練に励むようになった颯はめきめきと成長し、今では父にも引けを取らない。

 尤も、三男坊であるから家業を継ぐ必要はなく、だがほかに生き方を知らぬ『古都』の子であるから、将来は嫁を貰ってただ安穏と屋敷に住まいながら兄を手助けるか、『古都』内の別の屋敷に婿に出されるかだった。

 屋敷の庭には大きな楠木クスノキがそびえている。いくつものクナイが刺さり、疵付いた痕もあったが、それに屈することなく太く逞しく生い茂っていた。その前に立って、颯は静かに手を合わせる。何年か前から続けている習慣だった。

 蝶乃の日々の健康と幸いを祈る。

 多く微笑みを浮かべた可憐な少年が、時折ふっと垣間見せる物悲しげな表情が颯は気がかりだった。

 付き合いこそ長いが、互いのことはよく知らない。穏やかな気質や、花や木を愛でるのが好きなこと、伏し目がちに地を見て歩くが、不意に鳥や胡蝶に目を留め空を見ること。知っているのはそんなことばかりで、家での暮らしぶりや家族との関係、遊びの話、勉学の話、そういったことはろくろく話したことがなかった。

 色白でひどく華奢だから、どこか身体からだが悪いのかもしれない。

 少年が何も言わないので立ち入ったことを聞くのは憚られ、颯はいつもこの健やかで伸びやかな楠木に祈ることにしていた。

 恋しいという思いは、ただ労わりと思いやりを生む。熱情をもって焦がれるような激しさは、まだ子供じみた颯の胸のうちには生まれ得なかった。

 また次も会えれば嬉しい。きれいな顔で、紅唇をほころばせ、長い睫毛を揺らして笑ってほしい。願うことはそれだけで、それを守りたいと思う。

 忍びの精神は主に仕え、影に徹して守り、役立つこと。その役割はすでに絶えて久しいけれど、颯は蝶乃に対し、そうなれたならいいと考えていた。彼のために生き、身と心を捧げて働けたなら、それはどんな恋の成就より素晴らしい。

 口づけを交わすより、肌を合わせて身を繋ぎあうより、それはきっと深くて深い。たとえ一方通行でもきっと強く結びつく。

 そんな気がしていた。


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